EP 2
招かれざる客
柳生家江戸屋敷の離れ。
広大な庭の片隅で、香ばしい煙と脂の焼ける暴力的な匂いが立ち込めていた。
「おお、流石は上様(竹千代)の鷹狩りの獲物だ。この雉肉、脂の乗りが尋常じゃねぇな」
信長は七輪の網の上でこんがりと焼けた雉肉を裏返し、満足げに笑みを浮かべた。
約束通り、家光から極上の肉が届けられ、さらに十兵衛の配慮(という名の半ば諦め)によって、信長はこの離れを完全な『前線基地』として自由に使わせてもらっていた。
「……信長。少しは遠慮というものを知らんのか。ここは天下の柳生家の屋敷だぞ」
縁側に腰を下ろした十兵衛が、呆れたようにため息をつく。だが、その手にはしっかりと雉の串焼きが握られており、ちゃっかりおこぼれに与っていた。
「戦士の休息(R&R)は任務と同じくらい重要なんだよ。……ん?」
肉に塩を振ろうとしていた信長の手が、ピタリと止まった。
同時に、十兵衛の隻眼も鋭く細められ、串焼きを皿に置く。
庭の入り口から、一人の男が静かに歩み寄ってきていた。
護衛も連れず、ただ一人。だが、その足取りには一切の迷いがなく、背筋には鋼のような芯が通っている。武芸者とは違う、圧倒的な『知と権力』の重圧を纏った男。
「……松平信綱様」
十兵衛がすぐさま縁側から降り、片膝をついて深く頭を下げた。
柳生の次期当主である十兵衛をして、一切の躊躇なく平伏させるほどの男。それが「知恵伊豆」こと松平信綱であった。
信綱は平伏する十兵衛に軽く頷くと、七輪の前で胡座をかいたまま動こうとしない巨漢——信長へと、その冷徹な視線を向けた。
「……お主が、上様をたぶらかしているという『信長』か」
静かだが、刃のように冷たい声。
並の浪人であれば、その声だけで竦み上がり、地面に額を擦りつけて命乞いをするだろう。
だが、信長は七輪の上で焼ける肉から目を離さず、手元の小瓶からパラパラと塩を振った。
「たぶらかす? 人聞きの悪いこと言うなよ、オッサン。竹千代が勝手についてきただけだぜ。……食うか? ちょうど焼けたところだ」
「貴様ッ! 御老中(※実質的権力者)に向かってなんという口を……!」
十兵衛が血相を変えて咎めようとするが、信綱は片手でそれを制した。
信綱は、全く隙のない信長の姿勢を観察していた。
胡座をかいて肉を焼いているだけに見えるが、信長の筋肉は完全に弛緩しているわけではない。いつでも初動を起こせる『条件付きの警戒状態』。
そして何より、この圧倒的な身分差と権力の壁を前にして、精神の脈拍が全く乱れていない。
(……なるほど。御庭番の報告通り、ただの無頼ではないな。完全に『戦場』の理のみで生きている男だ)
信綱は、信長の差し出した串焼きを一瞥し、冷たく言い放った。
「遠慮しておこう。私はお主のように、先の見えぬ野山で獣肉を貪る趣味はない」
「そりゃ残念。頭脳労働の後は、タンパク質が一番脳に効くんだがな」
信長は肩をすくめ、自分で肉を頬張った。
「信長とやら。お主の存在が、今この幕府にどれほどの波紋を呼んでいるか、理解しているか?」
「波紋?」
「柳生新陰流は、将軍家御流儀。その高弟たちが、素手のお主に手も足も出ず転がされた。……その事実が、もう一つの将軍家剣術指南役である『小野派一刀流』をひどく刺激している」
信綱の言葉に、十兵衛の顔がスッと険しくなった。
「小野派は、常日頃から柳生の『無刀取り』を『実戦を伴わぬお遊戯』と蔑んでいる。今回の不始末を口実に、彼らを後ろ盾とする幕閣の連中が、政治の主導権を握ろうと動き始めたのだ」
「へえ」
信長は肉を飲み込み、面倒くさそうに首を鳴らした。
「要するに、オッサンたちの上層部の派閥争いに、俺が火種を落としちまったってことか」
「そうだ。政治とは、絶妙な均衡の上に成り立つ。お主という予測不能な『劇薬』は、その均衡を容易く破壊する」
信綱は一歩、信長へと近づき、その眼光を鋭く尖らせた。
「上様はお主を気に入っておられるようだが……これ以上、幕府の威信に関わる騒ぎを起こすのであれば、私が全力をもってお主を『排除』する。……上様の知らぬところでな」
明確な殺害予告。
幕府の全権力を使った、国家規模の包囲網。
しかし、信長は全く怯むことなく、逆にニヤリと不敵な笑みを浮かべて立ち上がった。
巨漢の信長が見下ろす形になっても、信綱は一歩も引かない。
「……いいぜ、オッサン。あんた、ただ偉ぶってるだけの無能じゃないな。組織の安全のために汚れ仕事を被れる『優秀な幕僚』の目をしてる」
信長はG-SHOCKの盤面をチラリと確認し、タバコを取り出した。
「俺は政治のルールには興味がねぇし、従う気もねぇ。だが……竹千代が指差した『害虫』を、俺のやり方で排除することには文句ねぇんだろ?」
「……法を逸脱せぬ限り、そして幕府に益をもたらす限りは、黙認しよう。だが、一度でも道を違えれば……」
「分かってるよ。その時は、あんたの全力で俺を殺しにくればいい」
信長が金色のライターで火をつける。
紫煙が二人の間を漂う中、信綱はわずかに目を細め、きびすを返した。
「十兵衛殿。この狂犬の手綱、しっかりと握っておくことだ。……小野派の者たちが、すでに嗅ぎ回っているやもしれんぞ」
それだけを言い残し、松平信綱は静かに立ち去っていった。
「……やれやれ。知恵伊豆様を相手に一歩も引かぬとは。お前は本当に命知らずだな」
十兵衛がドッと疲れたように縁側に座り込む。
「有能なオッサンじゃねぇか。現場の邪魔をしないなら、ああいうキレ者が後ろにいた方が作戦はやりやすい」
信長はタバコを吹かしながら、空を見上げた。
「小野派一刀流」——新たな敵の気配が、江戸の空にじっとりと漂い始めていた。




