第二章 知恵伊豆の密命と一刀流の刺客
将軍の側近・松平信綱の憂鬱
江戸城、本丸御殿の一室。
静寂に包まれた執務室の中で、一人の男が深く、ひどく重い溜息をついていた。
男の名は、松平信綱。
後に「知恵伊豆」と称され、徳川幕府の盤石な基礎を築き上げる稀代の政治家にして、将軍・家光の最も信頼する側近である。
「……上様は、また城を抜け出されたのか」
信綱が揉みほぐすこめかみの下には、御庭番から提出された極秘の報告書が広げられていた。
そこに記されている内容は、幕府の屋台骨を揺るがしかねない、あまりにも型破りな「異常事態」の数々であった。
『異国の風体を纏った巨漢、名を信長と名乗る。柳生新陰流の高弟三名を、剣を用いず素手にて蹂躙』
『その後、柳生十兵衛殿と互角の打ち合いを演じる』
『上様、その男と居酒屋にて意気投合し、深夜、北町与力・跡部剛蔵の屋敷へ三名にて討ち入る。敵方三十余名を無傷で制圧し、跡部の不正の証拠を奪取す』
報告書から顔を上げ、信綱は冷ややかな目を細めた。
「あの跡部が長年隠し持っていた裏帳簿を手に入れたこと自体は、幕府にとっても上様の治世にとっても大きな益だ。……だが、やり方が荒すぎる」
信綱の恐れているものは、「正義の実現」の過程で生じる「政治的な歪み」であった。
現在の徳川幕府において、将軍家剣術指南役の筆頭は「柳生新陰流」である。
将軍の御流儀である柳生の高弟たちが、どこの馬の骨とも知れぬ素手(格闘術)の男にごろ寝させられた。この事実がもし表沙汰になれば、幕府の権威そのものに泥を塗ることになる。
さらに頭の痛い問題があった。
将軍家の剣術指南役は、柳生だけではないのだ。
「小野派一刀流」。
柳生の『柔』に対し、一撃必殺の『剛』を誇るこの流派もまた、幕府内で強大な政治的発言力を持っている。
「……柳生の不始末を知れば、小野派を後ろ盾とする幕閣の連中が、間違いなく政治の主導権を握ろうと暗躍を始める。上様を神輿として担ぎ上げるためにな」
信綱は報告書をパタンと閉じ、部屋の暗がりに向かって低く声をかけた。
「――おるか」
「ハッ」
何もないはずの襖の影から、音もなく黒装束の御庭番が姿を現し、平伏した。
「その『信長』と名乗る男の素性は、どこまで知れた?」
「……それが、全く。突如として江戸に現れたとしか言いようがござりませぬ。いかなる藩にも、また異国の商人の中にも、あのような巨漢の記録はありませぬ。ただ……」
御庭番が、僅かに声を震わせた。
「あの男が跡部の屋敷で見せた体術は、この日ノ本のいかなる武術とも異なります。一切の無駄を省き、ひたすらに『敵を効率よく破壊する』ことのみに特化した、恐るべき暴力の結晶。……あの男、ただの浪人や無法者ではありませぬ。幾千の死線を潜り抜けた『本物の戦士』の匂いがいたします」
天下の御庭番をして、そこまで言わしめる男。
信綱の瞳に、冷徹な為政者としての光が宿る。
「上様は、あの男をひどくお気に召しておられるようだな」
「ハッ。十兵衛殿と共に、まるで長年の悪友のように……」
「……」
家光にとって、身分を気にせず接することのできる友が必要なことは、幼い頃から家光に仕えてきた信綱が一番よく理解していた。
しかし、天下人である以上、一個人の感情で「危険な劇薬」を側に置くことは許されない。
「上様がどれほど肩入れしようと、幕府の、いや日ノ本の安寧を脅かす毒であるならば、排除せねばならん。……それが、汚れ役たる私の務めだ」
信綱はゆっくりと立ち上がった。
頭脳という最強の武器で幕府を支える男が、ついに直接動く決意を固めたのだ。
「十兵衛殿の屋敷へ赴く。護衛は要らん」
「し、しかし! あの男は素手で数十人をなぎ倒す化け物にございます! 知恵伊豆様が直々に出向かれては、万が一のことが……」
「構わん。獣の首輪の締め方は、私が一番よく知っている」
松平信綱。
この男の介入によって、信長たちの痛快な世直し劇は、血で血を洗う権力闘争と、恐るべき刺客の影が交錯する新たな局面へと突入しようとしていた。




