第九章 『晴天』
その朝、Sは夢を見なかった。
少なくとも、目を開けたあとまで肌に残る夢はなかった。濡れた畳の匂いも、耳元の声も、首へ触れる指の感触もない。カーテンの隙間から入る光は薄かったが、それはただ朝がまだ早いというだけの色に見えた。
しばらく天井を見てから、Sはゆっくり息を吐いた。
眠れた、と思った。
それだけのことで、胸の奥が少し軽くなった。
枕元のスマートフォンを見ると、母から通知が来ていた。
〈幼稚園の同窓会、来月あるらしいで〉
続けて、もう一件。
〈先生から連絡きた。行けるなら行ってきたら?〉
Sは画面を見つめたまま、すぐには返せなかった。
中学の同窓会には、結局行かなかった。
出欠フォームの「欠席」を押したあとも、Hが来たのかどうかは分からない。返事を送ったことで、何かが終わったわけでもなかった。
行かなかった方がよかったのか。
あの時、無理にでも行くべきだったのか。
答えは、今も出なかった。
幼稚園の同窓会には、Hはいない。
Hと同じだったのは、小学校と中学校だけだった。幼稚園は違う。あの頃のSを知っている者はいても、Hのことを直接知る者はほとんどいないはずだった。
それを考えた時、自分でも少し卑怯だと思った。
Hがいない場所なら行ける。
Hがいるかもしれない場所からは逃げる。
同窓会へ行くという行為自体は同じなのに、その差だけで足取りが変わる。
それでも、幼稚園の頃に一緒だった顔をいくつか思い出した。近所の公園で遊んだ者。小学校に上がるまで、家族ぐるみで会っていた者。今となっては、名前を見れば思い出せる程度の距離になってしまった者。
会ってやらんでもない、とSは思った。
その言い方の奥に、少しだけ会いたい気持ちがあった。
◇
高校の同窓会についても、Sは一度だけ調べた。
卒業生用の連絡先や、部活動のグループを遡ってみたが、それらしい案内は見当たらない。高校は地元ではなかった。通学に時間がかかり、放課後になれば皆、それぞれ違う方向へ帰っていった。
懐かしさと呼べるものは、あまりない。
それでも、部活動の集まりくらいはあるかもしれないと思っていた。三年間、何もなかったわけではない。うまくやれなかった日も、くだらないことで笑った日も、そこにはあった。
何も見つからない画面を閉じた時、Sは自分でも意外なほど小さな寂しさを覚えた。
自分がいた場所は、いつか誰かの中から静かに消えていく。
それは普通のことだった。
ただ、その普通を受け入れるには、Sはまだ少し疲れていた。
◇
同窓会の前日、Sは夜勤に入った。
明け方まで勤務して、その足で会場へ向かうことになる。正気の沙汰ではないと思った。夜勤明けに、何年も会っていない相手の前で、昔話に混じる。
断る理由なら、いくらでもあった。
けれど、断るための連絡を打とうとするたび、幼稚園の遊戯室や、土の匂いのする園庭が浮かんだ。そこにいた子どもたちの顔は、もうほとんど思い出せない。それでも、自分がまだ何者でもなかった頃の時間だけは、どこかに残っている気がした。
結局、Sは行くと返した。
夜勤は、不思議なほど静かだった。
普段なら何度も居室の外へ出てくる男性が、その夜は眠れない理由を少し話したあと、自分から部屋へ戻った。服薬の時間も大きくずれず、記録も早めに書き終えられた。
「今日は落ち着いてるな」
引き継ぎに入る前、先輩職員が小さく言った。
Sは頷いた。
「そうですね」
それだけだった。
だが、何も起きない夜が、今のSにはひどくありがたかった。
仮眠の時間になり、Sは休憩室の簡易ベッドへ横になった。目を閉じる前に、明日着ていく服のことを考えた。夜勤明けのままではさすがにまずいから、ロッカーに入れてきたシャツへ着替えようと思った。
その途中で、眠りに落ちた。
◇
気がつくと、Sは野原にいた。
晴れていた。
雲は少なく、空はどこまでも高かった。草は風に合わせてゆっくり揺れ、遠くには低い山の影が見えた。湿気もなく、息を吸うたび胸の奥まで空気が入っていく。
Sはすぐに、これが夢だと分かった。
それでも、立ち上がらなかった。
草の上に仰向けになり、目を細める。背中に当たる土は柔らかく、陽の温度が服の上から伝わってくる。何かに追われる気配もなかった。誰かの声も聞こえない。
夢の中で、身体がほどけていく気がした。
こんな夢なら、悪くないと思った。
しばらくして、遠くに人影が見えた。
最初は、風で揺れる木かと思った。
だが、その影はまっすぐこちらへ歩いてきた。
Hだった。
Sは起き上がろうとして、身体を強張らせた。
Hは昔のままではなかった。制服も着ていない。今の年齢に近い顔をしていた。けれど、Sが知っているどの時期のHよりも静かで、光の中に溶けるように見えた。
「……H」
呼ぼうとした。
声は出たが、続かなかった。
「ご……」
喉が詰まる。
謝りたい。
ずっと、謝りたかった。
なのに、口の中で言葉が細かく切れて、形にならない。Hは何も言わず、Sの正面まで来た。
Sは手を伸ばそうとした。
抱きしめたいと思った。触れてはいけない距離だと分かっていても、何もしないまま立ち去られることだけは耐えられなかった。
身体が動かなかった。
腕も、指も、胸の奥の呼吸も、急に他人のものになったように言うことを聞かない。
HはSを見ていた。
責めるようでもなく、赦すようでもない目だった。
やがて、ほんの少しだけ微笑んだ。
それから、来た時と同じように、ゆっくり背を向けた。
「待って」
今度は言えた。
けれど、声は風に消えた。
Hは振り返らなかった。
遠ざかる背中が小さくなり、草の向こうへ消えるまで、Sはそこから動けなかった。泣くつもりはなかったのに、視界が滲んだ。涙を拭うこともできず、ただ頬を濡らしたまま空を見上げた。
何年も、言えないままにしてきた自分の怠さだけが、そこに残った。
晴れた空だけが、ひどく遠かった。
◇
目を覚ました時、Sの目元は濡れていた。
休憩室の天井。小さな換気扇の音。壁の時計は、まだ夜明け前を指している。
胸の奥が痛かった。
それでも、泣いている場合ではなかった。
もう一度、館内を見回る時間だった。Sは洗面所で顔を洗い、赤くなった目元を手のひらで押さえた。鏡の中の自分は疲れていたが、少なくとも白い面にはなっていなかった。
それから朝まで、Sはいつも通りに働いた。
起床の声かけをし、記録を確認し、引き継ぎのために必要なことを伝える。手を動かしている間、夢の中のHは何度も浮かんだ。
けれど、その姿はSを追ってこなかった。
それだけが、少し救いだった。
◇
勤務を終えたあと、Sはロッカーで着替えた。
眠気は重かった。足も少しだるい。それでも電車に乗り、地元の駅で降りた。会場は、昔通っていた幼稚園の遊戯室だった。
園舎は記憶より小さかった。
門の横にあった花壇も、園庭の遊具も、子どもの頃にはもっと大きく見えたはずだ。受付の机には出席者の名簿と名札が並んでいる。Sは自分の名前を探し、それから何となく、全体を見た。
卒園生の姿は、まだS以外にはなかった。夜勤を終えてそのまま来たため、一番乗りだった。
名簿の数字は、卒園生だけのものだった。
女性 二十八名。
男性 二名。
Sは目を瞬いた。
読み間違いではなかった。
保護者まで含めれば、遊戯室にいる女性の数はさらに増える。それにしても、これは偏りすぎている。
自分の名前の少し上に、Hといつも一緒にいた女の名前があった。
胸の奥が、一度だけ鈍く痛んだ。
その場にいるのなら、やるしかない。
Sは名札を受け取り、遊戯室へ入った。
「……Sちゃん?」
最初に声をかけてきたのは、幼稚園の頃の担任だった。
髪は白くなっていたが、笑う時に目尻へ寄る皺は覚えている気がした。Sが頷くと、先生はしばらく顔を見てから、驚いたように手を口元へ当てた。
「ほんまに? 大きなったねえ」
その言葉を聞いた時、Sの肩から力が抜けた。
先生は、自分のことを覚えていた。
少なくとも、ここに来た自分を拒んではいなかった。
しばらくすると、卒園生たちと保護者が少しずつ入ってきた。誰もが名札を見てから、もう一度Sの顔を見る。昔のままの呼び方で名前を呼ばれても、すぐには本人だと分からない者が多かった。
「え、Sくんなん?」
「全然分からへんかった」
「背ぇ高なったな」
もう一人の男子でさえ、最初は名札を二度見していた。
Sはそのたびに笑って、短く近況を話した。相手の話も聞いた。地元を離れた者もいれば、家業を手伝っている者もいた。結婚した者もいた。幼稚園の頃には、誰がどんな大人になるかなど考えたこともなかった。
自己紹介の時間になった。
一人ずつ、今何をしているかを話していく。Sの番が近づくにつれ、喉が少し乾いた。
適当にやり過ごすこともできた。
大学生です、とだけ言えば済む。
けれど、その言葉だけでは、今日ここへ来た意味が薄くなる気がした。
Sは立ち上がった。
「Sです。今は大学に通いながら、介護施設で働いてます」
そこまでは、普通に言えた。
介護施設、という言葉のあとで、近くにいた女たちがほとんど同時にSを見た。誰かが小さく「え」と声を漏らし、別の誰かは名札とSの顔を見比べた。幼稚園や小学校の頃のSと、その仕事が、すぐには結びつかなかったのだろう。
遊戯室の壁に貼られた、古い行事写真が目に入った。小さな自分たちが、同じ色の帽子を被って並んでいる。
Sは一度、息を吸った。
「高校の時に、問題を起こして、いろんな人に迷惑をかけました。もっと前からも、ここにいる人に嫌な思いをさせてたことがあったと思います」
誰もすぐには何も言わなかった。
「すみませんでした」
Sは頭を下げた。
公の場で、誰かに向けて、あんなふうに頭を下げたのは初めてだった。
顔を上げるまでの数秒が長かった。
担任の先生が、静かに笑った。
「こうして自分で言えるようになったんやね」
その声は、Sを許す声ではなかった。
ただ、今のSを見てくれる声だった。
近くにいた保護者の一人が、「大学行きながらお仕事もしてるん?」と訊いた。Sが頷くと、周囲から小さな驚きの声が上がる。
「Sちゃん、ほんまに立派になったね」
「昔から元気やったもんなあ」
その言葉を、そのまま受け取っていいのかは分からなかった。
過去にかけた迷惑が消えるわけではない。
それでも、今の自分を見て、良かったと言ってくれる人がいる。そのことが、Sにはひどく嬉しかった。
神がいるなら。
今日だけは、まだやり直そうとしている自分を、少しだけ見てくれたのかもしれない。
◇
自己紹介が終わると、Sはもう一人の男子と同じ机で話していた。
幼稚園の頃の記憶は、二人ともほとんど曖昧だった。誰が泣き虫だったか。遠足で何を食べたか。園庭の滑り台がどれほど大きく見えたか。
思い出せないことの方が多い。
それでも、思い出せないまま笑えることがあった。
女子たちの輪へ無理に入ることはしなかった。夜勤明けの頭で、保護者の多い空間に長くいるのも、少し疲れた。
もう一人の男子が先に時計を見て、「そろそろ帰るわ」と言った。
Sも頷いた。
「俺も、今日は夜勤明けやし」
担任へ挨拶をして、遊戯室を出る。外はよく晴れていた。
園庭の隅で、子どもたちが走っていた。知らない子どもたちだった。声も、顔も、Sには関係がない。
それでも、その笑い声を聞いても、胸は強張らなかった。
◇
数日後、母がふいに言った。
「この前の同窓会、先生もお母さんらも、あんたのこと褒めてはったで」
Sは食卓で箸を止めた。
「そうなん」
「びっくりしたって。ちゃんと大学行って、仕事もしてるって」
Sは、それ以上何も言わなかった。
けれど、帰宅してからしばらく、幼稚園の名簿を思い出していた。
Hと親しかった女も、あの場にいた。
今日のことが、いつかHの耳にも入ればいい。
そう願ったあとで、それはあまりに都合のいい期待だと思った。
謝ったことも、働いていることも、HがSを見直す理由にはならない。過去にしたことの重さが、それで軽くなるわけでもない。
それでも、その人がいない場所で少しだけ認められたことを、いつか知ってほしいと思ってしまった。
Sはベッドへ入った。
夜勤明けの疲れが、身体の底へ重く沈んでいた。
目を閉じる。
次に目を開けるまで、何も追ってこなかった。
第九章「晴天」をお読みいただき、ありがとうございます。
今回は、Sが過去と向き合おうとしながらも、すべてを言葉にできるわけではない——そんな回になりました。何も起こらない日常が、ときに救いになることもあるのだと思います。
物語はまだ続きます。よろしければ、ブックマークやご感想をいただけると嬉しいです。




