第十章 『愛別離苦』
Sは、駅前の喫茶店でコーヒーを飲んでいた。
平日の昼下がりで、店内は空いていた。窓際には年配の夫婦が座り、奥では若い男女が一つのスマートフォンを覗き込んでいる。Sは砂糖もミルクも入れないまま、コーヒーを飲んだ。苦いものは、苦いまま飲む方がいいと思った。
Sは、もうH以外の誰かに恋愛感情を抱いてはいけないと思っていた。
Hがそうしろと言ったわけではない。Hはむしろ、連絡してこないでほしいと言った。その言葉を守ることと、他の誰も好きにならないことは別の話だったが、Sの中ではいつの間にか一つの決まりになっていた。
H以外には、恋愛感情を向けない。
それが、自分にできる唯一の贖罪であり、反省なのだと思った。
濡れた畳。名簿から消えた自分の名前。病棟の白い光。首元に触れる指。これまでの夢は、自分がしてきた業に対する神罰なのかもしれない。そう思えば、眠れないことにも意味が生まれる。苦しんでいる間だけは、過去を軽く扱わずに済む。
Sは、愛というものについて考えた。
性愛も、仁愛も、敬愛も、ただ別々に並んだ言葉ではない。相手を欲すること、思いやること、敬うこと。そのどれか一つだけでは足りず、自分の卑しさや弱さを見つめ、他人を傷つけずにいられる人格を作って初めて、より高い愛へ近づける。
その頂点に、聖愛があるのだとSは考えていた。誰かを自分のものにしたいという欲や、何かを返してほしいという期待を越えた場所にある愛。そのために人は、自分を正すべきなのだと思った。
昔読んだ漫画に出てきた、ある聖帝の言葉を思い出す。
――愛ゆえに人は苦しまねばならぬ。愛ゆえに人は悲しまねばならぬ。
その言葉は、Sには妙に敬虔なものとして響いた。Hを忘れず、他の誰かで穴を埋めず、自分を戒め続ける。その苦しさこそが、Hを愛していた証明になる気がした。
Sはカップを置いた。
家に女を上げたことは、何度かあった。
食事をして、そのまま部屋へ来る流れになったこともある。帰るには遅い時間になり、相手もそれを強く拒んではいなかった。部屋の空気が、それらしいものになったこともあった。
そのたびにSは、相手を駅まで送った。
手を出さずに帰した。
自分がそうしたのは、H以外の女を抱くべきではないと思ったからだった。少なくともSは、そう信じていた。
ただ、彼女たちはSの贖罪を証明するために部屋へ来たわけではない。
相手が帰ったあとの静かな部屋で、Sは何度も自分を紳士だと思った。誰かにそう呼ばれたことはない。相手が感謝したわけでもない。それでも、手を出さなかったという事実を胸の内で磨き、自分はまだ正しい方へ戻ろうとしているのだと確かめた。
それは誠実さというより、自分を許すための儀式に近かったのかもしれない。
Sの周りには、遊び人が多かった。
恋人がいるのに、別の相手と関係を持つ者。真剣に付き合うつもりもないまま、肉体関係だけを作る者。相手の気持ちや、その後の生活まで想像せず、面白かったかどうかだけを話の種にする者。
Sからすれば、不埒で、破廉恥で、下衆としか思えない者たちだった。
恋人として付き合うなら、結婚を前提にすべきだと思う。
それほどの覚悟もないのに、愛しているような顔をして、誰かの尊厳を踏みにじる。愛のアの字も知らない者ほど、愛を軽い言葉として使う。
そういう人間が、Sにはひどく嫌だった。
自分が人を裁れる立場ではないことくらい、分かっていた。
Hにしたことを思えば、むしろ自分の方が、彼らよりよほど醜いのかもしれない。
だがSの中では、二つは別のものとして分けられていた。
自分は、もう二度と同じことをしないように苦しんでいる。
彼らは、何も反省せずに繰り返している。
そう考えれば、自分よりひどいことをしている者を遠ざけるのは、おかしくないように思えた。Sの中で彼らは、いつの間にか排外するべき相手になっていた。
それなのに、そういう者に限って幸せそうに見えた。
誰かを傷つけているはずなのに、笑っていた。次の約束をして、次の相手を探して、まるで何も失っていないような顔をしていた。
若すぎた。
それが全ての答えだ、とはよく言ったものだった。
若いから許されることがある。
若いから間違えることがある。
けれど、若いから誰かの人生に傷を残していいわけではない。そう思う一方で、S自身もまた、その言葉の内側に逃げ込みたい時があった。
Hにしたことも。
他人を傷つけてきたことも。
若すぎたから、と言えたなら、どれほど楽かと思った。
Sは冷めかけたコーヒーを飲み干した。
口の中に残った苦味は、最初よりも薄かった。
◇
店を出たあと、SはNに連絡した。
《今、家おる?》
すぐに既読がついた。
《おるけど。どうしたんさ、急に》
《行ってもええ?》
少し間を置いて、返事が来る。
《え、今からなん? 部屋ちょっと散らかっとるけど》
その慌てたような文面を見て、Sはわずかに笑った。
驚くとすぐに声が高くなり、困った時には口元を隠す。そういう反応を見ていると、Sはときどき、男の娘という言葉が似合うと思った。
SはNを可愛がっていた。
年齢の近い男友達の中では、一番気を許せる相手だった。余計なことを言わず、Sが話を途中で止めても急かさない。Nの前では、正しい人間に見せようとしなくてもいい気がした。
《別にええよ。来るならコンビニで飲みもん買うてきて》
最後にそう返ってきて、Sは駅前のコンビニへ入った。
◇
Nの部屋は、いつも少しだけ甘い匂いがした。
柔軟剤なのか、置いてある芳香剤なのか、Sには分からない。小さな机の上には飲みかけのペットボトルと、開いたままのゲーム機が置かれていた。Nは床に座り、Sが買ってきた飲み物を受け取ると、小さく頭を下げた。
「ありがと」
「部屋、ほんまに散らかっとるやん」
「言うたやんさ」
Nが少しだけ頬を膨らませた。
Sは笑って、その頭に手を乗せた。髪をゆっくり撫でる。
「可愛いな」
「……急に何なんさ」
Nは文句を言いながら、目を閉じた。
頭を撫でられる時だけ、Nにはそうする癖があった。Sの指が髪から離れるまで、Nはじっとしていた。
Sも床に座った。
しばらくは、どうでもいい話をした。大学の休みのこと。最近見た動画のこと。Nが寝坊して、約束の時間にぎりぎり間に合ったこと。
そのうち、Sは喫茶店で考えていたことを、途切れ途切れに話し始めた。
「俺、もうH以外の人を好きになったらあかんと思うねん」
Nはペットボトルの蓋を閉める手を止めた。
「今もなん?」
「今も」
「……しんどないん?」
「しんどいで」
Sはすぐに答えた。
「でも、しんどいからええんやと思う。楽になろうとしたら、また同じことする気がする」
Nは何も言わなかった。
Sは続けた。
「好きでもない相手と付き合ったり、寝たりするやつがおるやろ。俺には、あれがほんまに分からん。付き合うなら結婚するつもりで付き合うべきやし、そうじゃないなら、人のことを適当に扱ったらあかんやん」
「うん」
Nは曖昧に頷いた。
「でも、みんながみんな、適当にしとるわけやないんちゃうん?」
「悪気がなかったら、傷つけてもええん?」
Nは少し困ったように視線を落とした。
「いや、そういう意味やないんやけど」
「俺は、もうそういうの嫌やねん」
言い終えてから、Sは自分の声が思っていたより強かったことに気づいた。
Nは反論しなかった。
ただ、机の端に置いてあったクッションをSの方へ寄せた。
「今日は、もう寝たらええやん」
その言い方が、Sには少しだけ嬉しかった。
Nは、自分の考えを肯定したわけではない。
それでも、追い出さなかった。
Sは借りた布団に入った。
部屋の照明を落とす前、Nが「電気、豆球にしといたろか?」と訊いた。その声も、暗くなると急に遠くなった。
男の中では、Nが一番気を許せる。
Sはそう思いながら、眠りに落ちた。
◇
気がつくと、そこは竹藪の中だった。
空は見えなかった。
何本もの竹が、頭上で絡み合っていた。節の白い筋が、暗闇の中で骨のように浮いている。風はないのに、葉だけが絶えず擦れ合い、誰かが小声で話し続けているような音を立てていた。
足元の土は湿っていた。
裸足の裏に、冷たい泥がまとわりつく。
Sは一歩だけ後ろへ下がろうとして、止まった。
背後にも、竹があった。
来た道が、どこにもない。
「おかえりなさい」
女の声がした。
すぐ近くのはずだった。
だが、どの竹の陰を見ても誰もいない。
Sは息を潜めた。
竹には、細い白い紙が何枚も結びつけられていた。風もないのに紙だけが揺れ、墨で書かれた文字が何度も視界を横切る。
――愛しているなら、触れないで。
――愛しているなら、離れないで。
――愛しているなら、帰して。
――愛しているなら、忘れないで。
読み進めるほど、何をすればいいのか分からなくなる。
触れるなと言いながら、離れるなと言う。
帰せと言いながら、忘れるなと言う。
Sは一枚の紙へ手を伸ばした。
指が触れる前に、紙は裏返った。
そこには、Hの名前が書かれていた。
次の紙にも。
その次にも。
竹藪じゅうの白い紙に、Hの名前だけが並んでいた。
「H」
声に出すと、竹の奥で、何かが笑った。
細く、息だけが漏れるような笑い声だった。
Sは歩き出した。
竹の間には、いつの間にか細い道ができていた。先へ進むほど、葉の擦れる音に別の音が混じり始める。
紐が軋む音。
誰かが、苦しそうに息を吸う音。
やがて、藪の奥に小さな祠が見えた。
屋根は傾き、縄は黒く濡れていた。祠の前には太い竹が一本だけ立っていて、その幹には、しめ縄のように白い布が巻きつけられている。
竹の前に、女が立っていた。
白い着物を着て、背を向けている。
長い髪だけで、それが誰なのか分かった。
「H」
今度は、声が出た。
女は振り返らなかった。
「呼ばないで」
Hの声だった。
Sは、その場で足を止めた。
「ごめん」
「何に対して」
答えられなかった。
Hはゆっくりと首だけをこちらへ向けた。
顔には、目も鼻もなかった。
濡れた竹の皮が何枚も重なり、その真ん中に、細い口だけが裂けていた。
「俺は、もうH以外を好きになったらあかんと思ってる」
Sが言うと、Hは少し黙った。
「なんで」
「俺がHにしたことの、償いになるから」
「私、そんなこと頼んでへん」
Hの声は、思っていたよりも普通だった。
「私が言ったん、連絡してこんといて、だけやろ。あんたが誰を好きになるかなんて、私には関係ないやん」
「でも、Hを忘れたら」
「忘れるとか、忘れへんとかも、あんたの話やん」
Hは、竹の皮でできた口を少しだけ閉じた。
「私は、あんたが私の話を聞いてくれへんかったのが嫌やった。それだけ」
Sの胸の奥が、急に重くなった。
「俺は、変わろうとしてる」
「変わるんは好きにしたらええやん。でも私を理由にせんといて」
周りの竹が、一斉に軋んだ。
節と節の間から、白い指が覗いた。
何本もの指が、竹の内側からゆっくりとこちらへ伸びてくる。爪の間には黒い土が入り、皮膚は水にふやけたように白かった。
「女の子を帰したんも、私のためやと思ったん?」
Hが訊いた。
Sは頷いた。
「それで、あんたは自分を紳士やと思えたん?」
「そんな言い方」
「私、紳士やなんて言うてへん」
竹の中から、何人もの声が重なった。
――紳士。
――紳士。
――紳士。
それは褒め言葉ではなかった。
濡れた喉で、何かが咳をしているような響きだった。
「ほかの人がどう恋愛するかも、私には関係ない」
Hは言った。
「私のことを理由にして、ほかの人まで嫌わんといて」
Hは、竹藪の奥へ顔を戻した。
「私が言ったんは、それだけやから」
白い着物の裾が、竹の陰へ消えていく。
「待って」
Sは呼びかけた。
Hは振り返らなかった。
気づけば、祠の前にはもう誰もいなかった。
SはHの後を追おうとした。
その瞬間、足元の土から黒い根が伸びた。
根は両手首へ巻きつき、手の甲を這い、指の間へ入り込んだ。
冷たい。
Sは振り払おうとした。
けれど、指は言うことを聞かなかった。
根に引かれるように、両手が胸の前へ持ち上がる。
何も掴んでいないはずなのに、指は少しずつ内側へ曲がっていった。
誰かの首を掴むための形に。
竹藪のあちこちで、白い紙が一斉に鳴った。
――放して。
――放して。
――放して。
「H」
Sは叫んだ。
返事はなかった。
根は手首に食い込み、指をさらに強く閉じさせた。
倒れてくる竹の隙間で、自分の両手だけが、ひどくはっきり見えた。
◇
目を覚ました時、Sは両手に触れているものの冷たさで分かった。
薄暗い部屋。
枕元の時計は、午前四時を少し過ぎていた。Nは布団の中で眠っている。少し前まで、頭を撫でられると目を閉じていた相手が、何も知らないまま、穏やかな寝息を立てていた。
Sは息を止めた。
夢の中で根に閉じられた指が、まだ自分の手に残っている気がした。
Hへの愛憎が、夢の底で行き場を失い、目の前で眠るNへ向かっていた。
Sは、Nの首に両手をかけていた。
第十章「愛別離苦」をお読みいただき、ありがとうございます。
「愛別離苦」は、愛する者と別れる苦しみを指す言葉です。
今回のSは、愛を救いとしてではなく、自分を縛るためのものとして抱えています。誰かを大切に思うことと、その人に執着することは、どこから違ってくるのでしょうか。
日常と悪夢の境目も、少しずつ曖昧になってきました。引き続き見届けていただければ嬉しいです。
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