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匿S氏・カルマ連鎖  作者: 杉田健壱楼
第一部 生活の摩耗
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10/18

第十章 『愛別離苦』

 Sは、駅前の喫茶店でコーヒーを飲んでいた。


 平日の昼下がりで、店内は空いていた。窓際には年配の夫婦が座り、奥では若い男女が一つのスマートフォンを覗き込んでいる。Sは砂糖もミルクも入れないまま、コーヒーを飲んだ。苦いものは、苦いまま飲む方がいいと思った。


 Sは、もうH以外の誰かに恋愛感情を抱いてはいけないと思っていた。


 Hがそうしろと言ったわけではない。Hはむしろ、連絡してこないでほしいと言った。その言葉を守ることと、他の誰も好きにならないことは別の話だったが、Sの中ではいつの間にか一つの決まりになっていた。


 H以外には、恋愛感情を向けない。


 それが、自分にできる唯一の贖罪(しょくざい)であり、反省なのだと思った。


 濡れた(たたみ)。名簿から消えた自分の名前。病棟の白い光。首元に触れる指。これまでの夢は、自分がしてきた業に対する神罰なのかもしれない。そう思えば、眠れないことにも意味が生まれる。苦しんでいる間だけは、過去を軽く扱わずに済む。


 Sは、愛というものについて考えた。


 性愛も、仁愛も、敬愛も、ただ別々に並んだ言葉ではない。相手を欲すること、思いやること、敬うこと。そのどれか一つだけでは足りず、自分の卑しさや弱さを見つめ、他人を傷つけずにいられる人格を作って初めて、より高い愛へ近づける。


 その頂点に、聖愛があるのだとSは考えていた。誰かを自分のものにしたいという欲や、何かを返してほしいという期待を越えた場所にある愛。そのために人は、自分を正すべきなのだと思った。


 昔読んだ漫画に出てきた、ある聖帝の言葉を思い出す。


 ――愛ゆえに人は苦しまねばならぬ。愛ゆえに人は悲しまねばならぬ。


 その言葉は、Sには妙に敬虔(けいけん)なものとして響いた。Hを忘れず、他の誰かで穴を埋めず、自分を戒め続ける。その苦しさこそが、Hを愛していた証明になる気がした。


 Sはカップを置いた。


 家に女を上げたことは、何度かあった。


 食事をして、そのまま部屋へ来る流れになったこともある。帰るには遅い時間になり、相手もそれを強く拒んではいなかった。部屋の空気が、それらしいものになったこともあった。


 そのたびにSは、相手を駅まで送った。


 手を出さずに帰した。


 自分がそうしたのは、H以外の女を抱くべきではないと思ったからだった。少なくともSは、そう信じていた。


 ただ、彼女たちはSの贖罪(しょくざい)を証明するために部屋へ来たわけではない。


 相手が帰ったあとの静かな部屋で、Sは何度も自分を紳士だと思った。誰かにそう呼ばれたことはない。相手が感謝したわけでもない。それでも、手を出さなかったという事実を胸の内で磨き、自分はまだ正しい方へ戻ろうとしているのだと確かめた。


 それは誠実さというより、自分を許すための儀式に近かったのかもしれない。


 Sの周りには、遊び人が多かった。


 恋人がいるのに、別の相手と関係を持つ者。真剣に付き合うつもりもないまま、肉体関係だけを作る者。相手の気持ちや、その後の生活まで想像せず、面白かったかどうかだけを話の種にする者。


 Sからすれば、不埒(ふらち)で、破廉恥(はれんち)で、下衆(げす)としか思えない者たちだった。


 恋人として付き合うなら、結婚を前提にすべきだと思う。


 それほどの覚悟もないのに、愛しているような顔をして、誰かの尊厳を踏みにじる。愛のアの字も知らない者ほど、愛を軽い言葉として使う。


 そういう人間が、Sにはひどく嫌だった。


 自分が人を裁れる立場ではないことくらい、分かっていた。


 Hにしたことを思えば、むしろ自分の方が、彼らよりよほど醜いのかもしれない。


 だがSの中では、二つは別のものとして分けられていた。


 自分は、もう二度と同じことをしないように苦しんでいる。


 彼らは、何も反省せずに繰り返している。


 そう考えれば、自分よりひどいことをしている者を遠ざけるのは、おかしくないように思えた。Sの中で彼らは、いつの間にか排外するべき相手になっていた。


 それなのに、そういう者に限って幸せそうに見えた。


 誰かを傷つけているはずなのに、笑っていた。次の約束をして、次の相手を探して、まるで何も失っていないような顔をしていた。


 若すぎた。


 それが全ての答えだ、とはよく言ったものだった。


 若いから許されることがある。


 若いから間違えることがある。


 けれど、若いから誰かの人生に傷を残していいわけではない。そう思う一方で、S自身もまた、その言葉の内側に逃げ込みたい時があった。


 Hにしたことも。


 他人を傷つけてきたことも。


 若すぎたから、と言えたなら、どれほど楽かと思った。


 Sは冷めかけたコーヒーを飲み干した。


 口の中に残った苦味は、最初よりも薄かった。


     ◇


 店を出たあと、SはNに連絡した。


《今、家おる?》


 すぐに既読がついた。


《おるけど。どうしたんさ、急に》

《行ってもええ?》


 少し間を置いて、返事が来る。


《え、今からなん? 部屋ちょっと散らかっとるけど》


 その慌てたような文面を見て、Sはわずかに笑った。


 驚くとすぐに声が高くなり、困った時には口元を隠す。そういう反応を見ていると、Sはときどき、男の娘という言葉が似合うと思った。


 SはNを可愛がっていた。


 年齢の近い男友達の中では、一番気を許せる相手だった。余計なことを言わず、Sが話を途中で止めても急かさない。Nの前では、正しい人間に見せようとしなくてもいい気がした。


《別にええよ。来るならコンビニで飲みもん買うてきて》


 最後にそう返ってきて、Sは駅前のコンビニへ入った。


     ◇


 Nの部屋は、いつも少しだけ甘い匂いがした。


 柔軟剤なのか、置いてある芳香剤なのか、Sには分からない。小さな机の上には飲みかけのペットボトルと、開いたままのゲーム機が置かれていた。Nは床に座り、Sが買ってきた飲み物を受け取ると、小さく頭を下げた。


「ありがと」

「部屋、ほんまに散らかっとるやん」

「言うたやんさ」


 Nが少しだけ頬を膨らませた。


 Sは笑って、その頭に手を乗せた。髪をゆっくり撫でる。


「可愛いな」

「……急に何なんさ」


 Nは文句を言いながら、目を閉じた。


 頭を撫でられる時だけ、Nにはそうする癖があった。Sの指が髪から離れるまで、Nはじっとしていた。


 Sも床に座った。


 しばらくは、どうでもいい話をした。大学の休みのこと。最近見た動画のこと。Nが寝坊して、約束の時間にぎりぎり間に合ったこと。


 そのうち、Sは喫茶店で考えていたことを、途切れ途切れに話し始めた。


「俺、もうH以外の人を好きになったらあかんと思うねん」


 Nはペットボトルの蓋を閉める手を止めた。


「今もなん?」

「今も」

「……しんどないん?」

「しんどいで」


 Sはすぐに答えた。


「でも、しんどいからええんやと思う。楽になろうとしたら、また同じことする気がする」


 Nは何も言わなかった。


 Sは続けた。


「好きでもない相手と付き合ったり、寝たりするやつがおるやろ。俺には、あれがほんまに分からん。付き合うなら結婚するつもりで付き合うべきやし、そうじゃないなら、人のことを適当に扱ったらあかんやん」


「うん」


 Nは曖昧に頷いた。


「でも、みんながみんな、適当にしとるわけやないんちゃうん?」

「悪気がなかったら、傷つけてもええん?」


 Nは少し困ったように視線を落とした。


「いや、そういう意味やないんやけど」

「俺は、もうそういうの嫌やねん」


 言い終えてから、Sは自分の声が思っていたより強かったことに気づいた。


 Nは反論しなかった。


 ただ、机の端に置いてあったクッションをSの方へ寄せた。


「今日は、もう寝たらええやん」


 その言い方が、Sには少しだけ嬉しかった。


 Nは、自分の考えを肯定したわけではない。


 それでも、追い出さなかった。


 Sは借りた布団に入った。


 部屋の照明を落とす前、Nが「電気、豆球にしといたろか?」と訊いた。その声も、暗くなると急に遠くなった。


 男の中では、Nが一番気を許せる。


 Sはそう思いながら、眠りに落ちた。


     ◇


 気がつくと、そこは竹藪(たけやぶ)の中だった。


 空は見えなかった。


 何本もの竹が、頭上で絡み合っていた。節の白い筋が、暗闇の中で骨のように浮いている。風はないのに、葉だけが絶えず擦れ合い、誰かが小声で話し続けているような音を立てていた。


 足元の土は湿っていた。


 裸足の裏に、冷たい泥がまとわりつく。


 Sは一歩だけ後ろへ下がろうとして、止まった。


 背後にも、竹があった。


 来た道が、どこにもない。


「おかえりなさい」


 女の声がした。


 すぐ近くのはずだった。


 だが、どの竹の陰を見ても誰もいない。


 Sは息を潜めた。


 竹には、細い白い紙が何枚も結びつけられていた。風もないのに紙だけが揺れ、墨で書かれた文字が何度も視界を横切る。


 ――愛しているなら、触れないで。


 ――愛しているなら、離れないで。


 ――愛しているなら、帰して。


 ――愛しているなら、忘れないで。


 読み進めるほど、何をすればいいのか分からなくなる。


 触れるなと言いながら、離れるなと言う。


 帰せと言いながら、忘れるなと言う。


 Sは一枚の紙へ手を伸ばした。


 指が触れる前に、紙は裏返った。


 そこには、Hの名前が書かれていた。


 次の紙にも。


 その次にも。


 竹藪(たけやぶ)じゅうの白い紙に、Hの名前だけが並んでいた。


「H」


 声に出すと、竹の奥で、何かが笑った。


 細く、息だけが漏れるような笑い声だった。


 Sは歩き出した。


 竹の間には、いつの間にか細い道ができていた。先へ進むほど、葉の擦れる音に別の音が混じり始める。


 紐が(きし)む音。


 誰かが、苦しそうに息を吸う音。


 やがて、(やぶ)の奥に小さな(ほこら)が見えた。


 屋根は傾き、縄は黒く濡れていた。(ほこら)の前には太い竹が一本だけ立っていて、その幹には、しめ縄のように白い布が巻きつけられている。


 竹の前に、女が立っていた。


 白い着物を着て、背を向けている。


 長い髪だけで、それが誰なのか分かった。


「H」


 今度は、声が出た。


 女は振り返らなかった。


「呼ばないで」


 Hの声だった。


 Sは、その場で足を止めた。


「ごめん」

「何に対して」


 答えられなかった。


 Hはゆっくりと首だけをこちらへ向けた。


 顔には、目も鼻もなかった。


 濡れた竹の皮が何枚も重なり、その真ん中に、細い口だけが裂けていた。


「俺は、もうH以外を好きになったらあかんと思ってる」


 Sが言うと、Hは少し黙った。


「なんで」

「俺がHにしたことの、償いになるから」

「私、そんなこと頼んでへん」


 Hの声は、思っていたよりも普通だった。


「私が言ったん、連絡してこんといて、だけやろ。あんたが誰を好きになるかなんて、私には関係ないやん」

「でも、Hを忘れたら」

「忘れるとか、忘れへんとかも、あんたの話やん」


 Hは、竹の皮でできた口を少しだけ閉じた。


「私は、あんたが私の話を聞いてくれへんかったのが嫌やった。それだけ」


 Sの胸の奥が、急に重くなった。


「俺は、変わろうとしてる」

「変わるんは好きにしたらええやん。でも私を理由にせんといて」


 周りの竹が、一斉に(きし)んだ。


 節と節の間から、白い指が覗いた。


 何本もの指が、竹の内側からゆっくりとこちらへ伸びてくる。爪の間には黒い土が入り、皮膚は水にふやけたように白かった。


「女の子を帰したんも、私のためやと思ったん?」


 Hが()いた。


 Sは頷いた。


「それで、あんたは自分を紳士やと思えたん?」

「そんな言い方」

「私、紳士やなんて言うてへん」


 竹の中から、何人もの声が重なった。


 ――紳士。


 ――紳士。


 ――紳士。


 それは褒め言葉ではなかった。


 濡れた喉で、何かが咳をしているような響きだった。


「ほかの人がどう恋愛するかも、私には関係ない」


 Hは言った。


「私のことを理由にして、ほかの人まで嫌わんといて」


 Hは、竹藪(たけやぶ)の奥へ顔を戻した。


「私が言ったんは、それだけやから」


 白い着物の裾が、竹の陰へ消えていく。


「待って」


 Sは呼びかけた。


 Hは振り返らなかった。


 気づけば、(ほこら)の前にはもう誰もいなかった。


 SはHの後を追おうとした。


 その瞬間、足元の土から黒い根が伸びた。


 根は両手首へ巻きつき、手の甲を這い、指の間へ入り込んだ。


 冷たい。


 Sは振り払おうとした。


 けれど、指は言うことを聞かなかった。


 根に引かれるように、両手が胸の前へ持ち上がる。


 何も掴んでいないはずなのに、指は少しずつ内側へ曲がっていった。


 誰かの首を掴むための形に。


 竹藪(たけやぶ)のあちこちで、白い紙が一斉に鳴った。


 ――放して。


 ――放して。


 ――放して。


「H」


 Sは叫んだ。


 返事はなかった。


 根は手首に食い込み、指をさらに強く閉じさせた。


 倒れてくる竹の隙間で、自分の両手だけが、ひどくはっきり見えた。


     ◇


 目を覚ました時、Sは両手に触れているものの冷たさで分かった。


 薄暗い部屋。


 枕元の時計は、午前四時を少し過ぎていた。Nは布団の中で眠っている。少し前まで、頭を撫でられると目を閉じていた相手が、何も知らないまま、穏やかな寝息を立てていた。


 Sは息を止めた。


 夢の中で根に閉じられた指が、まだ自分の手に残っている気がした。


 Hへの愛憎が、夢の底で行き場を失い、目の前で眠るNへ向かっていた。


 Sは、Nの首に両手をかけていた。

第十章「愛別離苦」をお読みいただき、ありがとうございます。


「愛別離苦」は、愛する者と別れる苦しみを指す言葉です。


今回のSは、愛を救いとしてではなく、自分を縛るためのものとして抱えています。誰かを大切に思うことと、その人に執着することは、どこから違ってくるのでしょうか。


日常と悪夢の境目も、少しずつ曖昧になってきました。引き続き見届けていただければ嬉しいです。


少しでも面白い、続きが気になると感じていただけましたら、ブックマーク・評価・感想をいただけると励みになります。

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