第十一章 『無縁仏』
Sは、自分の両手を見た。
Nの細い首にかかっていた指は、力を入れる手前の形で止まっていた。
夢の中では、黒い根に引かれるまま指を閉じていた。目を覚ました今も、その感覚だけが残っている。誰かの首を掴むために曲げられた指が、自分の意思とは別のところで、まだ同じ形を覚えているようだった。
Nは眠っていた。
浅い寝息が、暗い部屋の中で規則的に続いている。少し前まで起きていて、Sに「今日はもう寝たらええやん」と言った相手が、何も知らずに布団の中にいた。
Sは息を止め、ゆっくりと手を引いた。
指先が離れたあとも、Nの首元から目を逸らせなかった。自分が何をしようとしていたのか、はっきり言葉にしたくなかった。
Hへの愛憎が、行き場を失ってNへ向かったのだろうか。
そう考えると、余計に気分が悪くなった。Hへのことは、Hへのこととして抱えていなければならない。Nは何もしていない。むしろ、自分がどれだけ勝手な話をしても、追い出さずに聞いてくれた。
それなのに、自分は眠っているNのそばで、あのようなことをしていた。
Sは布団から離れ、床に置いていた鞄を掴んだ。音を立てないように靴を履き、部屋の扉を開ける。振り返ることはできなかった。
Nに気づかれる前に帰れたことだけが、せめてもの救いだった。
その考えを持った自分にも、Sは吐き気を覚えた。
◇
自宅へ戻る頃には、空が少しだけ白み始めていた。
鍵を閉め、鞄を床へ置く。いつもの部屋だった。机の上には読みかけの本があり、洗い終えた食器が水切り籠に伏せられている。窓際のカーテンも、冷蔵庫の低い音も、何一つ変わっていなかった。
変わっていないことが、かえって恐ろしかった。
Nの家で起きたことだけが、自分の中に収まりきらない異物として残っている。
Sはソファに座り、しばらく膝の上で手を組んでいた。指を重ねると、掌の中に別の首の輪郭が残っているような気がした。何度か手を開いたり閉じたりしたが、感覚は消えなかった。
どうしてあんなことをしたのだろうと思った。
夢を見ていたから、では済まない。
夢の中でHに言われたことが腹に立ったから、でも足りない。Hを忘れずにいることも、他人に触れずにいることも、すべて自分の反省のためだと信じていた。その反省が、本当に誰かを傷つけないためのものなら、Nの首に手をかけるはずがなかった。
自分は、何を償っているつもりだったのか。
Sは考えるのをやめたくなり、テレビをつけた。
朝の情報番組では、制服姿の学生たちが駅の改札を通る映像の上に、重い色の字幕が重ねられていた。
中学生や高校生の間で、自ら死を口にする投稿や、それを真似るような書き込みが広がっているらしい。番組は、匿名のSNS投稿をぼかして映し、学校や保護者に注意を呼びかけていた。画面の端には、専門家らしい男が座っていた。
「投稿を冗談や流行として受け取らず、周囲が早い段階で気づくことが大切です」
穏やかな声だった。
Sには、その言葉がひどく遠く聞こえた。
自殺というものに対して、Sは昔から強い拒絶があった。
命を自分で捨てることは、どんな理屈を並べても間違っている。生きることを投げ出した者を、無条件に美しいとは思えなかった。
ただし、愛のために死を選ぶ物語には、別の感情を抱くことがあった。
互い以外に生きる理由をなくした者同士や、伴侶を失って人生が終わったと思い込んだ者の死には、悲劇としての形がある。Sはそれを、どこかで純粋なものだと考えていた。
誰かを愛した末の死には意味がある。
だが、絶望したから、学校が嫌だから、誰かに分かってもらえないからと死を口にする者には、どうしても腹が立った。
たかが十五、六年しか生きていない者が、何を知って人生に絶望したのだと思った。
自分は大学へ通い、夜には施設で働いている。人に頼まれたことを断れず、上下関係の中で人格まで否定されるような言葉を受け、眠れば悪夢に追われる。胃の不調も、目が覚めたあとに残る感触も、誰にもまともに説明できない。
それでも生きている。
少なくとも、自分は生きている。
そう思うたびに、Sの中で、テレビの向こうにいる顔も知らない学生たちは、ひどく軽いものに見えた。
画面の中で、誰かの投稿が拡散されている。死にたいという言葉に、同じような言葉が何百も連なっていた。Sにはそれが、傷を見せ合っているというより、傷を見せる順番を待っているように見えた。
死ぬことさえ、誰かに見てもらうための飾りにするのか。
そういう人間を、Sは生産性のないものだと思っていた。
誰かが本当に限界だったのか、どんな場所で、どれだけ長く苦しんでいたのか。Sは何も知らない。
それでも、知らないまま裁いていた。
愛のためなら悲劇として眺め、名も知らない子供の死には甘えという札をつける。その矛盾を、その時のSは矛盾だと思わなかった。
画面の中の専門家が、さらに何かを話していた。
「苦しみは、年齢や外から見える事情だけでは測れません」
その言葉だけが、妙に大きく耳に残った。
Sはリモコンを掴み、テレビを消した。
黒くなった画面に、自分の顔がぼんやり映る。
そこに映っていたのは、死を軽蔑しながら、眠っている友人の首に手をかけた人間だった。
Sは目を逸らした。
◇
昼を過ぎても、部屋にいる気にはなれなかった。
外は夏にしては涼しかった。雲が薄く広がっていて、強い日差しがその向こうに隠れている。夕方が近づくにつれ、熱を含んだ道路も少しずつ色を失っていった。
Sは財布と携帯電話だけを持ち、家を出た。
行くあてがあったわけではない。歩いているうちに、自宅からそう遠くない清水寺の方へ足が向いた。
観光客の多い時間は過ぎていた。
参道にはまだ人がいたが、昼間の騒がしさはない。店の戸を閉める音や、石畳を踏む靴音が、ときどき風に混じった。Sは人の流れから少し外れ、黙ったまま境内へ入った。
手を洗い、香の匂いが残る場所を通る。
仏の前に立った時、Sはすぐに手を合わせられなかった。
願いが多すぎた。
悪夢から解放されたい。
Hのことを、正しく忘れずにいたい。
Nに何も起きてほしくない。
自分が、もう誰かを傷つけないで済む人間になりたい。
それらはどれも、願いというより、自分の罪を自分の外へ預けようとする言葉に思えた。
それでもSは、両手を合わせた。
目を閉じる。
人の声が遠ざかり、聞こえるのは風と、どこかで鳴った金属の小さな音だけになった。
その時、首筋に冷たいものが触れた。
反射的に目を開く。
背後には誰もいなかった。
ただ、本堂の薄暗い奥に並ぶ仏像のうち、一つだけがこちらを見ているように思えた。顔のつくりはよく見えない。影の中に沈んでいるだけなのに、Sが手を合わせていることを、その像だけが知っているようだった。
Sはもう一度だけ頭を下げ、すぐにその場を離れた。
階段を下りる間も、背中には視線のようなものが残っていた。
◇
夜、自室の布団に入ってからも、Sはなかなか目を閉じられなかった。
以前は、意味の分からない夢が多かった。
買い物客のいない建物。皮の仮面。濡れた畳。どこからともなく聞こえる声。現実とは無関係なものが、何の説明もなく並べられていた。
最近は違う。
夢の中に出てくるのは、自分がいた場所や、口にしなかった考えや、誰かに向けた感情だった。夢は、Sが見ないようにしていたものだけを拾い集め、眠ったあとで目の前へ置いてくる。
あれは本当に夢なのだろうかと思った。
自分以外の誰かの思いが混じっているのではないか。
あるいは、自分の中にあるものを、自分よりよく知っている何かがいるのではないか。
そんなことを考えているうちに、意識が遠のいた。
◇
気がつくと、Sは寺の門の前に立っていた。
見たことのない寺だった。
山門は異様に高く、屋根の端が闇の中へ消えている。門の向こうには長い石畳が続き、その両側に、数え切れないほどの仏像が並んでいた。
石像は、どれも人の背丈より少し低い。
座っているもの。立っているもの。両手を合わせているもの。胸の前で何かを抱いているもの。顔に白い布を巻かれているものもあった。
すべての像の足元には、小さな札が置かれていた。
名前ではなく、年齢だけが書かれている。
十五。
十六。
二十七。
四十三。
七十二。
数字はどこまでも続いていた。
Sは、石畳の上で足を止めた。
風はなかった。
それでも白い布だけが、同じ速さで揺れていた。
「無縁堂へ、ようこそ」
声がした。
誰の声かは分からない。
門の上に掛けられた木札には、確かにそう書かれていた。
無縁堂。
Sは、息を潜めた。
「ここは、何なんですか」
返事はすぐにあった。
「あなたが、無縁にした者たちの寺です」
石像の一つが、かすかに音を立てた。
顔に布を巻かれた小さな像だった。布の端から覗く口元だけが、ゆっくりと動いた。
「俺は、誰も」
Sは言いかけて、言葉を失った。
自分が誰かを殺したわけではない。
そう言おうとした。
だが、Nの眠っていた顔が浮かんだ。
「まだ、していない」
別の声が言った。
今度は、右側に並ぶ仏像の何体もの口が、一斉に動いた。
「まだ、していない」
「まだ、していない」
「まだ、していない」
石の声は、Sが自分に言い聞かせていた言葉と同じ響きだった。
Sは石畳を進んだ。
像の間に、黒塗りの盆が置かれている。盆の上には、細長い木札が何十枚も重ねられていた。
――愛。
――甘え。
――未熟。
――悲劇。
――許さない。
最後の一枚だけ、何も書かれていなかった。
「札を掛けなさい」
声が言った。
「あなたは、よく知っているのでしょう」
Sは、盆の前に立ち尽くした。
「何をですか」
「誰の死に意味があり、誰の死に意味がないかを」
Sの喉が鳴った。
「俺は、そんなこと」
「愛のためなら、悲劇と言った」
左の仏像が言った。
「若ければ、無知と言った」
右の仏像が言った。
「無知には、甘えの札を掛けた」
その声は、どれもSの声だった。
Sは首を横に振った。
「自殺は、基本的に間違ってると思ってる」
「なら、なぜそこに愛をつけた」
門の奥から、低い声が響いた。
石畳の先に、大きな仏像があった。
いつからそこにあったのか分からない。ほかの像より何倍も大きく、顔の部分だけが真っ黒に塗りつぶされている。膝の上には、何も映さない黒い鏡が置かれていた。
「死に愛をつければ、美しく見えるのか」
Sは答えられなかった。
「死に甘えをつければ、軽く見えるのか」
大仏の声に合わせて、無数の石像がゆっくりと頭を下げた。
石と石が擦れる音が、境内じゅうに広がった。
「苦しみの長さを測る秤を、あなたは持っていますか」
十五と書かれた札が、Sの足元へ落ちた。
次に、十六。
次に、二十七。
札は石畳の上を滑り、Sの靴の周りに積み重なっていく。
「お前は、自分が耐えたから、他人を裁ける立場であると思っている」
今度の声は、寺のものではなかった。
Nの声だった。
Sは顔を上げた。
石像の列の一番奥に、新しい像が置かれていた。
まだ苔もついていない、白い石の像だった。輪郭はNによく似ている。座った姿勢のまま、顔だけがこちらを向いている。
首元には、二つの細い影が残っていた。
「N」
Sは、声を絞り出した。
白い像の口が開く。
「俺、いつ死んだん」
「死んでない」
「ほな、なんでここにおるん」
Sは一歩、像へ近づこうとした。
その瞬間、足首に何かが触れた。
石畳の隙間から、黒い指が何本も伸びていた。泥に濡れた指が、Sの靴を掴み、足を止める。
「まだ、していない」
足元から声がした。
「まだ、していないから、何もしていないのですか」
Sは足を振りほどこうとした。
だが、黒い指は離れない。
白いNの像が、こちらを見たまま言った。
「俺は、Sのこと怖くないと思ってた」
「違う」
Sは叫んだ。
「俺は、Nを傷つけるつもりなんか」
言葉の終わりは、鐘の音に掻き消された。
大仏の背後で、見えない鐘が鳴った。
ひとつ鳴るたび、石像の顔に巻かれた白い布が落ちていく。
その下にあったのは、誰の顔でもなかった。
皮で作られた、のっぺりとした仮面だった。
目も鼻もない仮面が、何百も何千も、Sの方へ向いている。
「あなたは、誰かを生かすために生きているのですか」
大仏が訊いた。
「それとも、自分が正しい人間だと思うために、生きているのですか」
Sの胸の奥で、何かがひどく冷たくなった。
自分はHを忘れないために苦しんでいる。
他の女に手を出さないことで、正しい方へ戻ろうとしている。
自分より不誠実な人間を嫌い、死を選ぶ人間を軽蔑し、そうすることで、自分だけはまだ落ちきっていないと思おうとしていた。
すべてが、自分のためだったのかもしれない。
「違う」
Sは言った。
だが、声は震えていた。
「俺は、変わろうとして」
「変わるために、誰の首へ手を掛けた」
その言葉と同時に、Sの両手が持ち上がった。
夢の中であるはずなのに、腕は自分の意思で動かなかった。
指が、ゆっくりと内側へ曲がっていく。
Nの首に触れた時と同じ形へ。
「やめろ」
Sは自分の手首を掴もうとした。
しかし、手首には石の数珠が巻きついていた。一つ一つの玉に、小さな数字が刻まれている。
十五。
十六。
二十七。
数えられないほどの年齢が、腕に食い込んでいた。
「苦しみを知らないと、誰が決めた」
石像の声が重なった。
「死を美しいと、誰が決めた」
「お前は、何を知らないまま、誰を許さない」
Sは目を閉じた。
それでも、耳を塞ぐことはできなかった。
鐘が鳴る。
無縁堂の石像たちが、同じ言葉を繰り返す。
「まだ、していない」
「まだ、していない」
「まだ、していない」
その声が、次第にS自身の寝言へ変わっていった。
◇
Sは、自分の声で目を覚ました。
部屋はまだ暗かった。
喉が乾いていて、心臓だけが早く鳴っている。掛け布団は床へ落ち、両手は胸の上で強く組まれていた。
手を開くと、指の間に細かな灰がついていた。
線香の燃えかすのような、薄い灰だった。
Sはしばらく、それを見つめた。
夢だ。
また夢だった。
そう思っても、灰は掌の皺に入り込んでいるように見えた。
枕元の携帯電話が震えた。
画面には、Nからのメッセージが表示されている。
《昨日、いつの間にか帰ったんやな》
《何かあったん? 大丈夫?》
Sは返信欄を開いた。
《大丈夫》
そう打った。
送信ボタンに指を置いたまま、動けなくなった。
大丈夫ではない。
Nに何かがあったわけではない。
それなのに、自分の中にあるものは、まだ何も終わっていなかった。
携帯電話の黒い画面には、眠れない顔をしたSと、その背後に並ぶ無数の仏像が、ほんの一瞬だけ映った。
第十一章「無縁仏」をお読みいただき、ありがとうございます。
今回は、自殺という軽々しく扱うべきではない題材に触れました。Sは他人の苦しみを自分の尺度で測ろうとしながら、自分自身の矛盾には目を逸らしています。
彼の抱える「正しさ」が、これからどのような形で彼自身へ返ってくるのか。見届けていただければ幸いです。
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