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匿S氏・カルマ連鎖  作者: 杉田健壱楼
第一部 生活の摩耗
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12/18

第十二章 『死体の傘』

 Nに返信を返したのは、その日の昼だった。


《昨日は急に帰ってごめん。寝不足やっただけやから、気にせんといて》


 送るまでに、何度も文章を消した。


 大丈夫だと書くことに、少し抵抗があった。本当は大丈夫ではなかった。眠っている友人の首に手をかけていたことも、そのまま黙って部屋を出たことも、何一つ片づいていない。


 それでも、何があったのかを説明できるはずがなかった。


 Nからは、しばらくして返事が来た。


《そっか。無理せんといてな》


 それだけだった。


 責められなかったことに、Sはほっとした。同時に、何も知らないNにそんな言葉を言わせている自分が、ひどく卑怯にも思えた。


 それから数日、Sは表面上だけは落ち着いていた。


 悪夢を見ない夜が一度あった。深く眠れたわけではない。途中で何度も目を覚ましたし、目を開けるたびに、暗い部屋のどこかに誰かが立っているような気がした。


 だが、朝になっても掌に灰は残っていなかった。


 首元に、誰かの体温もなかった。


 胃の不快感も、以前より少しだけ軽かった。


 Sは、それを回復だと思いたかった。


 自分はまだ壊れていない。眠れない日が続いただけで、気が張り詰めていただけだ。少し休めば、考えすぎることもなくなる。


 そう思い込もうとしていた。


 その日の夜も、Sは自室にいた。


 時計は午後十一時を少し過ぎていた。机の上には、途中まで読んだ本と、飲みかけの水が置かれている。眠るにはまだ早いと思いながら、Sは携帯電話を眺めていた。


 画面が震えた。


 午後十一時十八分。


 表示された名前を見て、Sは眉をひそめた。


 高校時代にしていた武道系の競技で、五つ下だった後輩からの着信だった。


 高校を卒業してからも、ときどき連絡は来ていた。競技で使う道具のことや、技術的に分からないことがあると、年上のOBであるSに訊いてくる。頼られること自体は嫌いではなかった。


 むしろ、自分のことを覚えていてくれる後輩がいることには、少しだけ誇らしさを感じていた。


 ただ、今は違った。


 胃の奥に、冷たいものが溜まっているようだった。眠れていない頭で、誰かの悩みを聞く余裕があるとは思えない。


 こんな時間に何だと思った。


 だが、何かあったのかもしれないとも思った。


 Sは数回鳴ったところで、通話を取った。


「もしもし」

「あ、S先輩。夜分遅くにすみません」


 後輩の声は、いつもより小さかった。


「どうしたん」

「ちょっと、相談があって」


 最初は、部内の人間関係の話だった。


 同学年の部員と噛み合わないこと。自分だけが真面目にやっているように思えて、腹が立つこと。試合が近いのに、誰も危機感を持っていないように見えること。


 Sは、相槌を打ちながら聞いた。


 自分が高校生だった頃にも、似たような不満はあった。真面目にやっている者ほど、怠けている者に腹が立つ。結果が出ない時には、誰か一人を悪者にしたくなる。


 後輩が話すたびに、Sの中には二つの感情が同時に浮かんだ。


 五つも下の後輩が、自分に頼ってくれている。


 今、それどころではない。


 前者は、胸の奥をわずかに持ち上げた。


 後者は、胃の中をゆっくりと掻き回した。


「お前が一人で抱え込んでも、たぶん余計しんどくなるで。言うべきことは、ちゃんと主将か顧問に言った方がええ」

「そうっすよね」

「ただ、感情のまま言ったらあかん。誰が悪いとかやなくて、自分が何に困っとるかだけ言え」

「分かりました」


 後輩は何度も礼を言った。


 続いて、競技で使う道具のことを訊かれた。


 今使っているものが自分に合わなくなってきたこと。買い替えるべきか、直して使うべきか。最近うまくいかないのは、道具のせいなのか、自分の癖のせいなのか。


 Sは、気づけば少しだけ早口になっていた。


 道具は安い買い物ではない。自分に馴染ませるまでにも時間がかかる。周りが使っているものだけで決めるべきではない。


 競技そのものの話になれば、Sはまだ言葉を選べた。


 基本が崩れていないか。


 身体の使い方に無理がないか。


 道具に頼る前に、今の動きで何が崩れているのかを見なければならない。


 自分が知っていることを伝えている間だけは、頭の中のざわつきが少し遠ざかった。


 それでも、電話を切りたいという気持ちは消えなかった。


「ありがとうございます。先輩に聞いてよかったっす」


 後輩が言った。


 その言葉に、Sは短く息を吐いた。


「まあ、また分からんかったら聞き」

「はい。あ、そういえば」


 後輩の声が、急にためらうように細くなった。


「今日の終礼で、顧問と副顧問がS先輩のこと言ってましたよ」


 Sは、すぐには意味が分からなかった。


「……俺のこと?」

「はい。昔、結構荒れてたって」


 胃の奥で、何かが音を立てた気がした。


「何を言うてたん」


 自分でも分かるほど、声が低くなった。


 後輩は少し間を置いた。


「顧問の先生は、先輩らの代は大変やったみたいな話で。S先輩も、昔は校則とか全然守らへんかったとか、先生と揉めてたとか」


 Sは黙って聞いていた。


 高校生だった頃の自分が、褒められた人間ではなかったことは分かっている。


 教師に反発したこともある。


 校則を破ったこともある。


 周囲に迷惑をかけたことがなかったとは言えない。


 そのことを、今さら自分だけが潔白だと言うつもりはなかった。


 だが、それはS自身が抱えている過去だった。


 とうの昔に引退したOBについて、現役生の前で、五つも下の後輩たちへ向けて語る話なのかと思った。


「副顧問は?」


 Sは訊いた。


「副顧問の先生は、もっと……」


 後輩は言いづらそうに言葉を探した。


「S先輩、ほぼ犯罪者みたいなこと言われてて。部の子らも、ちょっと引いてました」


 Sの指が、携帯電話を強く握った。


「具体的に」


「先輩が昔、何かやらかして、いろんな場所出禁になったとか。警察にも目つけられてたとか。今もあんまり関わらん方がええ、みたいな」


 それは、ほとんどが事実ではなかった。


 出入りを断られた場所があったのは事実だった。S自身の行動が原因だったことも、なくはない。


 しかし、いくつもの場所を出禁になったという話も、警察に目をつけられていたという話も、聞いたことがない。


 何より、それを口にした副顧問は、Sが高校にいた頃にはまだその学校にいなかった。


 着任してから二年も経っていないはずだった。


 自分を直接知りもしない人間が、何を分かったように話しているのだと思った。


 顔が熱くなった。


 それに反して、胃だけが冷え切っていた。


「……その話、誰が聞いてたん」

「部員、ほとんど全員です。僕も、たまたま残ってて」


 Sは目を閉じた。


 終礼の場で、教師が一人のOBを悪い例として語る。


 今の部員たちは、Sがどんな人間なのかを自分で知る前に、教師の言葉から想像することになる。


 過去に悪いことをした者なら、いつまでも悪人として扱っていいのか。


 事実と、尾ひれのついた話と、誰かが面白がって膨らませた憶測を、同じように並べていいのか。


 Sにとって教師は、本来、中立であるべき存在だった。


 少なくとも、子どもたちの前で、誰かの人生を見世物のように語る職業ではないと思っていた。


 自分が嫌いな教員という存在が、また一つ、Sの中で形を持った。


 もっともらしい言葉で生徒に何かを教えながら、実際には、気に入らない人間や扱いやすい悪人像を、何年も使い回している。


 そんな人間が聖職者を名乗るのかと思った。


 怒りは、首の後ろから頭の中へ上がっていった。


 けれど、電話の向こうにいる後輩へぶつけるわけにはいかなかった。


「教えてくれてありがとう」


 Sは、できるだけ普通の声で言った。


「お前が悪いわけやないし、気にせんでええ。副顧問にも、今は何も言わんでいいから」

「すみません。言わん方がよかったですか」

「いや。俺が顧問に聞く」


 その言葉を口にした時には、もう決めていた。


「遅いし、今日はもう寝り。道具のことも、また時間ある時に話そ」

「はい。すみません、ありがとうございました」


 通話が切れた。


 部屋は、さっきまでよりも静かだった。


 Sはしばらく、真っ黒になった携帯電話の画面を見ていた。


 画面には自分の顔が映っていた。


 怒っている顔だった。


 その顔を見るだけで、さらに腹が立った。


     ◇


 Sはすぐに、顧問とのトーク画面を開いた。


 文字を打っては消した。


 副顧問に対する怒りを、そのまま書けばいいわけではない。後輩から聞いた話を、感情のまま問い詰めれば、ただの面倒なOBとして扱われる。


 それだけは避けたかった。


 自分の怒りが正当であるなら、なおさら、言葉は整えておかなければならないと思った。


 何度か書き直した末、Sはこう送った。


《夜分遅くに失礼いたします。お疲れ様です。


 今週中、都合がつきましたので、久しぶりに部活動へ参加させていただきたいと考えております。ご都合はいかがでしょうか。


 また、副顧問の先生の件で少しご相談したいことがあり、もしご都合がよろしければ、今夜少しだけ通話のお時間をいただくことは可能でしょうか。夜分のお願いとなり大変恐縮ですが、難しいようでしたら、今週中にお伺いした際、お話しさせていただけますと幸いです。


 よろしくお願いいたします。》


 送信すると、画面の右端に時刻だけが表示された。


 二十三時五十三分。


 既読はつかなかった。


 つくはずがないと思った。


 こんな時間なのだから、寝ていて当然だった。


 それでも、返事のない画面を見ていると、自分だけが怒りの中に取り残されたような気がした。


 Sは携帯電話を伏せた。


 そのまま布団に入ったが、眠気はまったく来なかった。


 強い怒りや恐怖を感じると、身体は眠るための準備をやめる。


 何かが身体の中で出て、目を冴えさせるのだと、Sは以前どこかで聞いたことがあった。


 今の自分は、まさにそれだった。


 身体だけが起きている。


 頭の中には、さっき聞いた話が何度も戻ってくる。


 犯罪者。


 出禁。


 関わらない方がいい。


 数年前の自分のことを、今も学校の中で、そんなふうに話している人間がいる。


 副顧問は、Sを直接知っているわけではない。


 高校でSが何を考え、何に苦しみ、誰に腹を立てていたのかも知らない。


 それなのに、誰かから聞いた断片だけで、自分を分かったように扱っている。


 過去に間違いがあったからといって、永遠にその時の姿だけを吹聴されていい理由にはならない。


 しかも、その中には嘘まで混じっている。


 それが、Sには耐えがたかった。


 いつか高校へ行く。


 顧問に直接話を聞く。


 副顧問にも、自分で話したことの責任を取らせる。


 Sは、何度もそう考えた。


 そう考えなければ、怒りの置き場がなかった。


 午前一時を過ぎた。


 午前二時を過ぎた。


 窓の外を走る車の音が、少しずつ減っていく。


 午前三時を過ぎても、Sの目は冴えたままだった。


 時計を見た最後の時刻は、午前四時十三分だった。


 それ以降のことを、Sは覚えていない。


     ◇


 気がつくと、そこは山だった。


 山の中というより、見渡す限りが木で埋め尽くされた大きな森林だった。


 杉とも、檜とも分からない幹が、濃い霧の中から何本も立ち上がっている。空はどこにあるのか分からない。頭上まで枝葉が重なり、夜よりも暗い緑の天井を作っていた。


 足元には、濡れた土があった。


 靴を履いていなかった。


 裸足の裏へ、冷たい泥と小石が食い込んだ。


 Sは立ち尽くした。


 自分がなぜ山にいるのか、すぐには考えられなかった。


 口の中が乾いていた。


 鼓動だけが、耳のすぐそばで鳴っている。


 Sは一度、目を閉じた。


 深く息を吸う。


 湿った木の匂いが肺に入った。


 目を開けて、上を見た。


 すぐ目の前の枝から、死体が逆さに吊られていた。


 頭が、Sの顔の高さにあった。


 首には太い縄が食い込み、紫色に膨れた顔は、口を半開きにしていた。目は大きく開いているのに、どこも見ていない。両足は枝より高いところへ不自然に伸び、膝から先だけが、何かに引かれたように葉の闇へ消えていた。


 首吊りで死んだはずの人間が、なぜか逆さに吊られている。


 その奇妙さを考える前に、Sは叫んだ。


 声は霧に吸い込まれた。


 腰が抜けた。


 尻餅をついた瞬間、下腹部が熱くなった。


 自分が失禁したのだと分かって、Sはさらに息ができなくなった。


 怖かった。


 これまでにも、意味の分からない夢は見てきた。


 濡れた畳。


 仮面。


 名前のない名簿。


 仏像の並ぶ寺。


 だが、目の前にあるものは、それらとは何一つ似ていなかった。


 自分が何をしたから、ここにいるのかも分からない。


 何の示唆なのかも分からない。


 ただ、死体だけがあった。


 Sは震える足で立ち上がった。


 霧の向こうに、人影のようなものがいくつか見えた。


 人がいるなら、道を()けるかもしれない。


 そんなことを考えた自分が、ひどく滑稽だった。


 それでも、Sはそちらへ歩いた。


 一歩進むたび、裸足が土へ沈んだ。


 近づくにつれて、人影は動かないことが分かった。


 木だった。


 いや、木に吊られた死体だった。


 一本の木に、一人ではなかった。


 二人。


 三人。


 枝という枝から縄が下がり、その先に、人間の身体がいくつも揺れていた。


 顔は腐り、皮膚は水に浸けた紙のように剥がれている。口から垂れた黒い液体が、顎を伝い、地面へ落ちていた。目の穴からは白い蛆がこぼれ、(ほほ)の裂け目を小さな虫が出入りしている。


 霧の中に立っていた人影は、すべて死者だった。


 森林は、死体の傘で覆われていた。


 Sは喉の奥から、獣のような声を出した。


 振り返る。


 どちらが出口かは分からなかった。


 ただ、右手の方だけが急な斜面になっていた。


 下へ行けば、どこかへ出られるかもしれない。


 Sは走った。


 背後で、縄が軋む音がした。


 何百もの死体が、同じ速さで揺れ始めたような音だった。


 Sは走りながら考えた。


 これは夢だ。


 そうでなければならない。


 夢なら、いつか目が覚める。


 それでも、なぜこんな夢を見るのか。


 自分は、何もしていない。


 少なくとも、誰かを殺したことはない。


 過去に非行と呼ばれるようなことをしたとしても、それはここまでの罰を受けるほどのことだったのか。


 教師たちに、何年も悪人として話され続けるほどのことだったのか。


 全部が業なのか。


 Sがそこまで考えた時、右足が木の根に引っかかった。


 身体が前へ投げ出された。


 斜面は、思っていたよりも急だった。


 Sは土の上を一度転がり、そのまま止まらなかった。


 肩が岩にぶつかった。


 骨の折れる音がした。


 次に、(ひざ)が木の根へ引っかかった。


 足があり得ない方へ曲がった。


 ズボンの布の下で、(すね)の骨が皮膚を押し上げるのが見えた。


 痛みが、遅れて全身へ広がった。


 夢なのに、痛かった。


 喉が裂けるほど叫んだ。


 口の中で歯が舌を噛み、鉄の味がした。


 背中を石で削られ、肋骨(ろっこつ)が一つずつ折れていく。手をつこうとした指は、地面に挟まれ、爪の下から血が噴いた。


 止まれと思った。


 誰か止めてくれと思った。


 だが、身体は斜面を転がり続けた。


 最後に、胸のあたりへ強い衝撃が来た。


 Sの身体は、死体の吊られた木へ叩きつけられた。


 枝から垂れた何本もの縄が、腕と胴へ絡みつく。


 落下は止まった。


 けれど、Sの身体は、木と死体の間に引っかかったまま、まともに動かせなかった。


 目の前に、吊られた女の顔があった。


 腐った唇が、Sの(ほほ)に触れていた。


 女の目の穴から落ちた(うじ)が、Sの首筋を這った。


 Sは泣いた。


 痛みと恐怖で、息が乱れた。


 助けを呼ぼうとしても、折れた肋骨(ろっこつ)が肺を押し、声はうまく出なかった。


「なんでや」


 ようやく出た声は、泣き声に近かった。


「なんで、俺がこんな目に遭わなあかんねん」


 霧の向こうに、何も答えるものはなかった。


 死体だけが揺れていた。


 Sは顔を上げた。


 木々の上には空があるはずだった。


 だが、そこにあったのは、黒く高い天井だった。


 どこまでも続く板張りの天井に、墨を水へ垂らしたような影が浮かんでいる。


 観音だった。


 輪郭だけが、かすかに見えた。


 顔は闇に沈み、目を閉じているのか、最初から目がないのかも分からない。


「俺、悪いことしたんは分かっとる」


 Sは天井へ向かって言った。


「でも、ここまでされるようなことはしてへん。人も殺してへん。何年も前のことで、ずっと悪人みたいに言われて、嘘まで混ぜられて」


 声が震えた。


「もう、どうしたらええねん」


 観音は何も答えなかった。


 代わりに、天井の影から、無数の手が降りてきた。


 白い手だった。


 人間の腕よりも長く、細く、指の関節だけが異様に大きい。


 何十本も。


 何百本も。


 観音の影から垂れ下がった手は、それぞれの指に縄を結んでいた。


 縄の先には、死体がいた。


 首を吊った死体が、雨のように降りてきた。


 Sの上へ。


 左右へ。


 木々の間へ。


 死体は地面に落ちず、縄の先で止まり、Sの周りを埋め尽くした。


 腐った腹が裂け、中から黒い液体と白い虫がこぼれた。


 落ちてきた死体の腕が、Sの折れた肩へぶつかる。


 骨の欠片が肉の中でさらにずれ、目の前が白くなった。


 小蠅(こばえ)が、死体の口や鼻から一斉に飛び立った。


 羽音が、耳を塞いでも消えないほど近くで鳴った。


 Sは顔を背けようとした。


 だが、首に触れた(うじ)が、口元へ這い上がってくる。


 鼻の穴へ小蠅(こばえ)が入り、咳き込んだ瞬間、何匹もの虫が口の中へ飛び込んだ。


 吐き出そうとしても、吐く力がなかった。


 白い虫は、裂けた脇腹の傷へ集まり始めた。


 皮膚の下へ潜り込む感触があった。


 細い身体が肉の中を這い、内側から傷口を押し広げていく。


 Sは叫んだ。


 だが、叫ぶたびに、口の中の虫が喉の奥へ落ちた。


 吊られた死体たちは、誰も助けてくれなかった。


 腐った指だけが、Sの髪や(ほほ)に触れた。


 観音の無数の手は、救うためではなく、死者を運ぶために伸びていた。


 Sは目を閉じた。


 目を閉じても、虫の感触は消えなかった。


 自分の身体が、死体と同じ匂いになっていくのが分かった。


 やがて、痛みも、羽音も、泣き声も、遠くなった。


     ◇


 Sの意識が戻った時、Sは立ったまま鏡の前にいた。


 自室の姿見だった。


 部屋の電気は消えたままで、カーテンの隙間から、明け方前の弱い光だけが入っている。


 鏡の中には、青ざめた自分がいた。


 服は寝る前と同じだった。


 身体に、折れた骨はなかった。


 血もついていなかった。


 それなのに、Sは自分の足が動かなくなった。


 いつからここに立っていたのか、分からない。


 布団からどうやって出たのかも、鏡の前までどう歩いたのかも、何一つ覚えていなかった。


 とうとう夢遊病まで出たのだと思った。


 その考えが浮かんだ瞬間、腰から力が抜けた。


 Sはその場に座り込み、声を上げて泣いた。


 怖かった。


 夢の中で死ねなかったことも怖い。


 現実へ戻ってきたのに、自分がどこまで現実の自分なのか分からないことも怖い。


 それでも、生きていると思った。


 腕も動く。


 足も折れていない。


 息ができる。


 その事実だけが、泣くほど嬉しかった。


 Sは携帯電話を探した。


 床に落ちていた端末を拾う。


 画面には、午前四時三十一分と表示されていた。


 顧問へのメッセージは、まだ既読になっていなかった。


 当たり前のことだった。


 当たり前のことなのに、今は誰からも返事が来ないことが、世界から切り離されたように思えた。


 こんな時だけ、Hに救いを求めたくなった。


 Hなら。


 Hがここにいて、何でもないことのように名前を呼んでくれたなら。


 けれど、Hは帰ってこない。


 帰ってこないようにしたのは、自分だった。


 Sは自分の不幸を呪った。


 夜中に聞いた教師たちの話よりも、今は、あの森林の方が恐ろしかった。


 自分が誰かにどう言われているかよりも、自分が眠ったあとに何をするのかの方が、ずっと怖かった。


 Sは恐る恐る、もう一度鏡を見た。


 鏡の中の自分も、泣いていた。


 だが、鏡の中だけで、Sの首には黒い縄が掛かっていた。

第十二章をお読みいただき、ありがとうございます。


自分では何もしていないつもりでも、過去の選択や感情が、いつの間にか日常のふるまいにまで滲み出ていることがあります。Sにとっても、最近はそうした「覚えていないもの」が、少しずつ形を取り始めているのかもしれません。


まだ物語は続きます。よろしければブックマーク・評価・ご感想をいただけると励みになります。


引き続き、『匿S氏・カルマ連鎖』をよろしくお願いいたします。

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