第十二章 『死体の傘』
Nに返信を返したのは、その日の昼だった。
《昨日は急に帰ってごめん。寝不足やっただけやから、気にせんといて》
送るまでに、何度も文章を消した。
大丈夫だと書くことに、少し抵抗があった。本当は大丈夫ではなかった。眠っている友人の首に手をかけていたことも、そのまま黙って部屋を出たことも、何一つ片づいていない。
それでも、何があったのかを説明できるはずがなかった。
Nからは、しばらくして返事が来た。
《そっか。無理せんといてな》
それだけだった。
責められなかったことに、Sはほっとした。同時に、何も知らないNにそんな言葉を言わせている自分が、ひどく卑怯にも思えた。
それから数日、Sは表面上だけは落ち着いていた。
悪夢を見ない夜が一度あった。深く眠れたわけではない。途中で何度も目を覚ましたし、目を開けるたびに、暗い部屋のどこかに誰かが立っているような気がした。
だが、朝になっても掌に灰は残っていなかった。
首元に、誰かの体温もなかった。
胃の不快感も、以前より少しだけ軽かった。
Sは、それを回復だと思いたかった。
自分はまだ壊れていない。眠れない日が続いただけで、気が張り詰めていただけだ。少し休めば、考えすぎることもなくなる。
そう思い込もうとしていた。
その日の夜も、Sは自室にいた。
時計は午後十一時を少し過ぎていた。机の上には、途中まで読んだ本と、飲みかけの水が置かれている。眠るにはまだ早いと思いながら、Sは携帯電話を眺めていた。
画面が震えた。
午後十一時十八分。
表示された名前を見て、Sは眉をひそめた。
高校時代にしていた武道系の競技で、五つ下だった後輩からの着信だった。
高校を卒業してからも、ときどき連絡は来ていた。競技で使う道具のことや、技術的に分からないことがあると、年上のOBであるSに訊いてくる。頼られること自体は嫌いではなかった。
むしろ、自分のことを覚えていてくれる後輩がいることには、少しだけ誇らしさを感じていた。
ただ、今は違った。
胃の奥に、冷たいものが溜まっているようだった。眠れていない頭で、誰かの悩みを聞く余裕があるとは思えない。
こんな時間に何だと思った。
だが、何かあったのかもしれないとも思った。
Sは数回鳴ったところで、通話を取った。
「もしもし」
「あ、S先輩。夜分遅くにすみません」
後輩の声は、いつもより小さかった。
「どうしたん」
「ちょっと、相談があって」
最初は、部内の人間関係の話だった。
同学年の部員と噛み合わないこと。自分だけが真面目にやっているように思えて、腹が立つこと。試合が近いのに、誰も危機感を持っていないように見えること。
Sは、相槌を打ちながら聞いた。
自分が高校生だった頃にも、似たような不満はあった。真面目にやっている者ほど、怠けている者に腹が立つ。結果が出ない時には、誰か一人を悪者にしたくなる。
後輩が話すたびに、Sの中には二つの感情が同時に浮かんだ。
五つも下の後輩が、自分に頼ってくれている。
今、それどころではない。
前者は、胸の奥をわずかに持ち上げた。
後者は、胃の中をゆっくりと掻き回した。
「お前が一人で抱え込んでも、たぶん余計しんどくなるで。言うべきことは、ちゃんと主将か顧問に言った方がええ」
「そうっすよね」
「ただ、感情のまま言ったらあかん。誰が悪いとかやなくて、自分が何に困っとるかだけ言え」
「分かりました」
後輩は何度も礼を言った。
続いて、競技で使う道具のことを訊かれた。
今使っているものが自分に合わなくなってきたこと。買い替えるべきか、直して使うべきか。最近うまくいかないのは、道具のせいなのか、自分の癖のせいなのか。
Sは、気づけば少しだけ早口になっていた。
道具は安い買い物ではない。自分に馴染ませるまでにも時間がかかる。周りが使っているものだけで決めるべきではない。
競技そのものの話になれば、Sはまだ言葉を選べた。
基本が崩れていないか。
身体の使い方に無理がないか。
道具に頼る前に、今の動きで何が崩れているのかを見なければならない。
自分が知っていることを伝えている間だけは、頭の中のざわつきが少し遠ざかった。
それでも、電話を切りたいという気持ちは消えなかった。
「ありがとうございます。先輩に聞いてよかったっす」
後輩が言った。
その言葉に、Sは短く息を吐いた。
「まあ、また分からんかったら聞き」
「はい。あ、そういえば」
後輩の声が、急にためらうように細くなった。
「今日の終礼で、顧問と副顧問がS先輩のこと言ってましたよ」
Sは、すぐには意味が分からなかった。
「……俺のこと?」
「はい。昔、結構荒れてたって」
胃の奥で、何かが音を立てた気がした。
「何を言うてたん」
自分でも分かるほど、声が低くなった。
後輩は少し間を置いた。
「顧問の先生は、先輩らの代は大変やったみたいな話で。S先輩も、昔は校則とか全然守らへんかったとか、先生と揉めてたとか」
Sは黙って聞いていた。
高校生だった頃の自分が、褒められた人間ではなかったことは分かっている。
教師に反発したこともある。
校則を破ったこともある。
周囲に迷惑をかけたことがなかったとは言えない。
そのことを、今さら自分だけが潔白だと言うつもりはなかった。
だが、それはS自身が抱えている過去だった。
とうの昔に引退したOBについて、現役生の前で、五つも下の後輩たちへ向けて語る話なのかと思った。
「副顧問は?」
Sは訊いた。
「副顧問の先生は、もっと……」
後輩は言いづらそうに言葉を探した。
「S先輩、ほぼ犯罪者みたいなこと言われてて。部の子らも、ちょっと引いてました」
Sの指が、携帯電話を強く握った。
「具体的に」
「先輩が昔、何かやらかして、いろんな場所出禁になったとか。警察にも目つけられてたとか。今もあんまり関わらん方がええ、みたいな」
それは、ほとんどが事実ではなかった。
出入りを断られた場所があったのは事実だった。S自身の行動が原因だったことも、なくはない。
しかし、いくつもの場所を出禁になったという話も、警察に目をつけられていたという話も、聞いたことがない。
何より、それを口にした副顧問は、Sが高校にいた頃にはまだその学校にいなかった。
着任してから二年も経っていないはずだった。
自分を直接知りもしない人間が、何を分かったように話しているのだと思った。
顔が熱くなった。
それに反して、胃だけが冷え切っていた。
「……その話、誰が聞いてたん」
「部員、ほとんど全員です。僕も、たまたま残ってて」
Sは目を閉じた。
終礼の場で、教師が一人のOBを悪い例として語る。
今の部員たちは、Sがどんな人間なのかを自分で知る前に、教師の言葉から想像することになる。
過去に悪いことをした者なら、いつまでも悪人として扱っていいのか。
事実と、尾ひれのついた話と、誰かが面白がって膨らませた憶測を、同じように並べていいのか。
Sにとって教師は、本来、中立であるべき存在だった。
少なくとも、子どもたちの前で、誰かの人生を見世物のように語る職業ではないと思っていた。
自分が嫌いな教員という存在が、また一つ、Sの中で形を持った。
もっともらしい言葉で生徒に何かを教えながら、実際には、気に入らない人間や扱いやすい悪人像を、何年も使い回している。
そんな人間が聖職者を名乗るのかと思った。
怒りは、首の後ろから頭の中へ上がっていった。
けれど、電話の向こうにいる後輩へぶつけるわけにはいかなかった。
「教えてくれてありがとう」
Sは、できるだけ普通の声で言った。
「お前が悪いわけやないし、気にせんでええ。副顧問にも、今は何も言わんでいいから」
「すみません。言わん方がよかったですか」
「いや。俺が顧問に聞く」
その言葉を口にした時には、もう決めていた。
「遅いし、今日はもう寝り。道具のことも、また時間ある時に話そ」
「はい。すみません、ありがとうございました」
通話が切れた。
部屋は、さっきまでよりも静かだった。
Sはしばらく、真っ黒になった携帯電話の画面を見ていた。
画面には自分の顔が映っていた。
怒っている顔だった。
その顔を見るだけで、さらに腹が立った。
◇
Sはすぐに、顧問とのトーク画面を開いた。
文字を打っては消した。
副顧問に対する怒りを、そのまま書けばいいわけではない。後輩から聞いた話を、感情のまま問い詰めれば、ただの面倒なOBとして扱われる。
それだけは避けたかった。
自分の怒りが正当であるなら、なおさら、言葉は整えておかなければならないと思った。
何度か書き直した末、Sはこう送った。
《夜分遅くに失礼いたします。お疲れ様です。
今週中、都合がつきましたので、久しぶりに部活動へ参加させていただきたいと考えております。ご都合はいかがでしょうか。
また、副顧問の先生の件で少しご相談したいことがあり、もしご都合がよろしければ、今夜少しだけ通話のお時間をいただくことは可能でしょうか。夜分のお願いとなり大変恐縮ですが、難しいようでしたら、今週中にお伺いした際、お話しさせていただけますと幸いです。
よろしくお願いいたします。》
送信すると、画面の右端に時刻だけが表示された。
二十三時五十三分。
既読はつかなかった。
つくはずがないと思った。
こんな時間なのだから、寝ていて当然だった。
それでも、返事のない画面を見ていると、自分だけが怒りの中に取り残されたような気がした。
Sは携帯電話を伏せた。
そのまま布団に入ったが、眠気はまったく来なかった。
強い怒りや恐怖を感じると、身体は眠るための準備をやめる。
何かが身体の中で出て、目を冴えさせるのだと、Sは以前どこかで聞いたことがあった。
今の自分は、まさにそれだった。
身体だけが起きている。
頭の中には、さっき聞いた話が何度も戻ってくる。
犯罪者。
出禁。
関わらない方がいい。
数年前の自分のことを、今も学校の中で、そんなふうに話している人間がいる。
副顧問は、Sを直接知っているわけではない。
高校でSが何を考え、何に苦しみ、誰に腹を立てていたのかも知らない。
それなのに、誰かから聞いた断片だけで、自分を分かったように扱っている。
過去に間違いがあったからといって、永遠にその時の姿だけを吹聴されていい理由にはならない。
しかも、その中には嘘まで混じっている。
それが、Sには耐えがたかった。
いつか高校へ行く。
顧問に直接話を聞く。
副顧問にも、自分で話したことの責任を取らせる。
Sは、何度もそう考えた。
そう考えなければ、怒りの置き場がなかった。
午前一時を過ぎた。
午前二時を過ぎた。
窓の外を走る車の音が、少しずつ減っていく。
午前三時を過ぎても、Sの目は冴えたままだった。
時計を見た最後の時刻は、午前四時十三分だった。
それ以降のことを、Sは覚えていない。
◇
気がつくと、そこは山だった。
山の中というより、見渡す限りが木で埋め尽くされた大きな森林だった。
杉とも、檜とも分からない幹が、濃い霧の中から何本も立ち上がっている。空はどこにあるのか分からない。頭上まで枝葉が重なり、夜よりも暗い緑の天井を作っていた。
足元には、濡れた土があった。
靴を履いていなかった。
裸足の裏へ、冷たい泥と小石が食い込んだ。
Sは立ち尽くした。
自分がなぜ山にいるのか、すぐには考えられなかった。
口の中が乾いていた。
鼓動だけが、耳のすぐそばで鳴っている。
Sは一度、目を閉じた。
深く息を吸う。
湿った木の匂いが肺に入った。
目を開けて、上を見た。
すぐ目の前の枝から、死体が逆さに吊られていた。
頭が、Sの顔の高さにあった。
首には太い縄が食い込み、紫色に膨れた顔は、口を半開きにしていた。目は大きく開いているのに、どこも見ていない。両足は枝より高いところへ不自然に伸び、膝から先だけが、何かに引かれたように葉の闇へ消えていた。
首吊りで死んだはずの人間が、なぜか逆さに吊られている。
その奇妙さを考える前に、Sは叫んだ。
声は霧に吸い込まれた。
腰が抜けた。
尻餅をついた瞬間、下腹部が熱くなった。
自分が失禁したのだと分かって、Sはさらに息ができなくなった。
怖かった。
これまでにも、意味の分からない夢は見てきた。
濡れた畳。
仮面。
名前のない名簿。
仏像の並ぶ寺。
だが、目の前にあるものは、それらとは何一つ似ていなかった。
自分が何をしたから、ここにいるのかも分からない。
何の示唆なのかも分からない。
ただ、死体だけがあった。
Sは震える足で立ち上がった。
霧の向こうに、人影のようなものがいくつか見えた。
人がいるなら、道を訊けるかもしれない。
そんなことを考えた自分が、ひどく滑稽だった。
それでも、Sはそちらへ歩いた。
一歩進むたび、裸足が土へ沈んだ。
近づくにつれて、人影は動かないことが分かった。
木だった。
いや、木に吊られた死体だった。
一本の木に、一人ではなかった。
二人。
三人。
枝という枝から縄が下がり、その先に、人間の身体がいくつも揺れていた。
顔は腐り、皮膚は水に浸けた紙のように剥がれている。口から垂れた黒い液体が、顎を伝い、地面へ落ちていた。目の穴からは白い蛆がこぼれ、頬の裂け目を小さな虫が出入りしている。
霧の中に立っていた人影は、すべて死者だった。
森林は、死体の傘で覆われていた。
Sは喉の奥から、獣のような声を出した。
振り返る。
どちらが出口かは分からなかった。
ただ、右手の方だけが急な斜面になっていた。
下へ行けば、どこかへ出られるかもしれない。
Sは走った。
背後で、縄が軋む音がした。
何百もの死体が、同じ速さで揺れ始めたような音だった。
Sは走りながら考えた。
これは夢だ。
そうでなければならない。
夢なら、いつか目が覚める。
それでも、なぜこんな夢を見るのか。
自分は、何もしていない。
少なくとも、誰かを殺したことはない。
過去に非行と呼ばれるようなことをしたとしても、それはここまでの罰を受けるほどのことだったのか。
教師たちに、何年も悪人として話され続けるほどのことだったのか。
全部が業なのか。
Sがそこまで考えた時、右足が木の根に引っかかった。
身体が前へ投げ出された。
斜面は、思っていたよりも急だった。
Sは土の上を一度転がり、そのまま止まらなかった。
肩が岩にぶつかった。
骨の折れる音がした。
次に、膝が木の根へ引っかかった。
足があり得ない方へ曲がった。
ズボンの布の下で、脛の骨が皮膚を押し上げるのが見えた。
痛みが、遅れて全身へ広がった。
夢なのに、痛かった。
喉が裂けるほど叫んだ。
口の中で歯が舌を噛み、鉄の味がした。
背中を石で削られ、肋骨が一つずつ折れていく。手をつこうとした指は、地面に挟まれ、爪の下から血が噴いた。
止まれと思った。
誰か止めてくれと思った。
だが、身体は斜面を転がり続けた。
最後に、胸のあたりへ強い衝撃が来た。
Sの身体は、死体の吊られた木へ叩きつけられた。
枝から垂れた何本もの縄が、腕と胴へ絡みつく。
落下は止まった。
けれど、Sの身体は、木と死体の間に引っかかったまま、まともに動かせなかった。
目の前に、吊られた女の顔があった。
腐った唇が、Sの頬に触れていた。
女の目の穴から落ちた蛆が、Sの首筋を這った。
Sは泣いた。
痛みと恐怖で、息が乱れた。
助けを呼ぼうとしても、折れた肋骨が肺を押し、声はうまく出なかった。
「なんでや」
ようやく出た声は、泣き声に近かった。
「なんで、俺がこんな目に遭わなあかんねん」
霧の向こうに、何も答えるものはなかった。
死体だけが揺れていた。
Sは顔を上げた。
木々の上には空があるはずだった。
だが、そこにあったのは、黒く高い天井だった。
どこまでも続く板張りの天井に、墨を水へ垂らしたような影が浮かんでいる。
観音だった。
輪郭だけが、かすかに見えた。
顔は闇に沈み、目を閉じているのか、最初から目がないのかも分からない。
「俺、悪いことしたんは分かっとる」
Sは天井へ向かって言った。
「でも、ここまでされるようなことはしてへん。人も殺してへん。何年も前のことで、ずっと悪人みたいに言われて、嘘まで混ぜられて」
声が震えた。
「もう、どうしたらええねん」
観音は何も答えなかった。
代わりに、天井の影から、無数の手が降りてきた。
白い手だった。
人間の腕よりも長く、細く、指の関節だけが異様に大きい。
何十本も。
何百本も。
観音の影から垂れ下がった手は、それぞれの指に縄を結んでいた。
縄の先には、死体がいた。
首を吊った死体が、雨のように降りてきた。
Sの上へ。
左右へ。
木々の間へ。
死体は地面に落ちず、縄の先で止まり、Sの周りを埋め尽くした。
腐った腹が裂け、中から黒い液体と白い虫がこぼれた。
落ちてきた死体の腕が、Sの折れた肩へぶつかる。
骨の欠片が肉の中でさらにずれ、目の前が白くなった。
小蠅が、死体の口や鼻から一斉に飛び立った。
羽音が、耳を塞いでも消えないほど近くで鳴った。
Sは顔を背けようとした。
だが、首に触れた蛆が、口元へ這い上がってくる。
鼻の穴へ小蠅が入り、咳き込んだ瞬間、何匹もの虫が口の中へ飛び込んだ。
吐き出そうとしても、吐く力がなかった。
白い虫は、裂けた脇腹の傷へ集まり始めた。
皮膚の下へ潜り込む感触があった。
細い身体が肉の中を這い、内側から傷口を押し広げていく。
Sは叫んだ。
だが、叫ぶたびに、口の中の虫が喉の奥へ落ちた。
吊られた死体たちは、誰も助けてくれなかった。
腐った指だけが、Sの髪や頬に触れた。
観音の無数の手は、救うためではなく、死者を運ぶために伸びていた。
Sは目を閉じた。
目を閉じても、虫の感触は消えなかった。
自分の身体が、死体と同じ匂いになっていくのが分かった。
やがて、痛みも、羽音も、泣き声も、遠くなった。
◇
Sの意識が戻った時、Sは立ったまま鏡の前にいた。
自室の姿見だった。
部屋の電気は消えたままで、カーテンの隙間から、明け方前の弱い光だけが入っている。
鏡の中には、青ざめた自分がいた。
服は寝る前と同じだった。
身体に、折れた骨はなかった。
血もついていなかった。
それなのに、Sは自分の足が動かなくなった。
いつからここに立っていたのか、分からない。
布団からどうやって出たのかも、鏡の前までどう歩いたのかも、何一つ覚えていなかった。
とうとう夢遊病まで出たのだと思った。
その考えが浮かんだ瞬間、腰から力が抜けた。
Sはその場に座り込み、声を上げて泣いた。
怖かった。
夢の中で死ねなかったことも怖い。
現実へ戻ってきたのに、自分がどこまで現実の自分なのか分からないことも怖い。
それでも、生きていると思った。
腕も動く。
足も折れていない。
息ができる。
その事実だけが、泣くほど嬉しかった。
Sは携帯電話を探した。
床に落ちていた端末を拾う。
画面には、午前四時三十一分と表示されていた。
顧問へのメッセージは、まだ既読になっていなかった。
当たり前のことだった。
当たり前のことなのに、今は誰からも返事が来ないことが、世界から切り離されたように思えた。
こんな時だけ、Hに救いを求めたくなった。
Hなら。
Hがここにいて、何でもないことのように名前を呼んでくれたなら。
けれど、Hは帰ってこない。
帰ってこないようにしたのは、自分だった。
Sは自分の不幸を呪った。
夜中に聞いた教師たちの話よりも、今は、あの森林の方が恐ろしかった。
自分が誰かにどう言われているかよりも、自分が眠ったあとに何をするのかの方が、ずっと怖かった。
Sは恐る恐る、もう一度鏡を見た。
鏡の中の自分も、泣いていた。
だが、鏡の中だけで、Sの首には黒い縄が掛かっていた。
第十二章をお読みいただき、ありがとうございます。
自分では何もしていないつもりでも、過去の選択や感情が、いつの間にか日常のふるまいにまで滲み出ていることがあります。Sにとっても、最近はそうした「覚えていないもの」が、少しずつ形を取り始めているのかもしれません。
まだ物語は続きます。よろしければブックマーク・評価・ご感想をいただけると励みになります。
引き続き、『匿S氏・カルマ連鎖』をよろしくお願いいたします。




