第十三章 『叡智』
時間だけは、Sの事情を知らないふりをして、いつも通りに進んでいた。
どれだけ眠ることが怖くても、朝になれば身体は起きる。食べたくなくても腹は減る。行きたくない場所があっても、約束した時刻は近づいてくる。
昨晩の夢を、Sは思い出そうとはしなかった。
思い出せないわけではない。目を向ければ、まだそこにある。湿った空気も、冷えた指先も、目を閉じる直前まで耳に残っていた声も、きちんと形を持っている。
ただ、朝からそれらを取り出してしまえば、一日が始まらない気がした。
Sは顔を洗い、着替え、机の上のスマートフォンを手に取った。高校へ行くつもりだった。
副顧問のことを、このまま曖昧にしておくつもりはなかった。自分について何を言われているのか。どうして、確かめもせずに他人へ話を広げられるのか。一度だけでも、きちんと異議を言わなければならないと思った。
そのために顧問へ送っていた連絡に、既読がついていた。
続けて、短い通知が表示された。
――今、話せるか。
Sは少し迷ってから、通話のボタンを押した。
「すみません。急に長い連絡を送ってしまって」
『ええよ。読んだ。今から聞くし、最初から話して』
顧問の声は、高校にいた頃より少し低く聞こえた。年齢のせいなのか、電話越しだからなのかは分からなかった。
Sは、送った文面よりもゆっくり話した。副顧問が、自分のことを聞いた覚えもない形で他の教員に話しているらしいこと。部活動に顔を出すこと自体が問題であるかのように扱われたこと。直接聞いても、何が事実で何が噂なのか、はっきり答えてもらえなかったこと。
途中で言葉に詰まっても、顧問は遮らなかった。
高校生だった頃なら、Sは途中で否定されると思っていた。
考え過ぎではないか。相手にも事情がある。そこまで気にしなくてもいい。そう言われれば、自分の方がおかしいのだと思うしかなかった。
だが、顧問はしばらく黙ったあと、静かに言った。
『……それは、あいつが悪いな』
Sは返事ができなかった。
『根拠のないことを他人に言って、しかも先生同士にまで広げる。教師である前に、人としてどうにかしてるわ』
「でも、俺ももう卒業してますし。わざわざ先生に言うようなことではないのかもしれなくて」
『関係ない。お前の名前を使って、事実じゃない話をするなら話は別やろ』
顧問は一度、息を吐いた。
『正直に言うと、あいつは他の先生からもあまり好かれてへん。昔から、余計なことを言うからな』
それを聞いて、Sの胸の奥にあったものが、ほんの少しだけほどけた。
副顧問の言葉が、学校にいる全員の考えではないのかもしれない。
そんな当たり前のことを、Sは今まで考えたことがなかった。
『お前はもう大人やろ』
顧問の声は、叱るようではなかった。
『言われたことを、いつまでも気にせんでええ。今日、部活に行くなら普通に行け。あいつとは話さんでいい。俺から話す』
「……はい」
『副顧問のことは、任せとけ』
通話が終わってからも、Sはしばらくスマートフォンを見ていた。
誰かに最後まで話を聞かれただけで、ここまで気持ちが変わるとは思わなかった。完全に楽になったわけではない。副顧問の顔を思い出すと、胃のあたりが鈍く重くなった。
それでも、行かない理由は少しだけ減っていた。
◇
高校の正門をくぐると、午後の熱気が校舎の壁に溜まっていた。
見覚えのある廊下。古い掲示板。窓際に置かれた植木鉢。何年も通ったはずの場所なのに、Sにはどこか借り物の建物のように見えた。
部活動の場所へ近づくにつれ、声と足音が大きくなる。後輩の一人がSに気づき、軽く頭を下げた。
「こんにちは」
「おう。久しぶり」
それだけのやりとりで、少しだけ肩の力が抜けた。
顧問は、以前と同じように練習を見ていた。Sの姿を見つけると、大げさに何かを言うこともなく、短く頷いた。
その近くで、副顧問と目が合った。
相手の口が一瞬だけ開いた。何か言うつもりだったのかもしれない。
Sは視線を逸らさなかった。ただ、その人を見ていないことにした。
顧問の方へ歩き、そのまま練習を眺めた。
副顧問がそこにいることを、身体のどこかではずっと意識していた。背中に刺さる視線のようなものもあった。だが、振り向かなかった。
今日は何かを言いに来たわけではない。
自分がここに来てもいいのだと、一度だけ確かめに来たのだ。
帰る頃、顧問はSを校舎の外まで送ってくれた。
『今日は来てくれてよかった。あとは俺がやる』
「すみません。面倒なことを」
『お前が謝ることちゃう。副顧問のことは任せとけ』
Sは頷いた。
その言葉を、信じて帰ることにした。
◇
アパートの扉を閉めた直後、Sは靴も揃えずにベッドへ倒れ込んだ。
足の裏が痛かった。足首も、歩いた距離以上に重く感じる。ずっと周囲に気を使っていたせいか、胃の奥がゆっくりと持ち上がってくるようだった。
吐くかもしれないと思った。
だが、それでも昨晩の不愉快さに比べればましだった。
足の痛みや吐き気には、少なくとも理由がある。歩いたから痛い。緊張したから気持ち悪い。理由が分かるものは、まだ耐えられる。
昨晩の夢にあった不快さには、理由がなかった。
Sは片腕で目元を隠した。
少しだけ横になるつもりだった。
◇
Sは、図書館にいた。
それだけは、すぐに分かった。
天井まで届く書架が並んでいる。本の匂いがする。机と椅子があり、誰かが静かに頁をめくっている。
だが、書架は石や木でできた壁に沿っているのではなかった。
太い木の幹に抱き込まれるように、本棚が立っていた。枝は高い硝子の天井を突き破り、その向こうの青白い空へ伸びている。床の隙間からは根が出ていて、古い本の間をゆっくり這っていた。
図書館と森が、無理に一つにされたような場所だった。
書架の上では、羽を畳んだ不死鳥が目を閉じていた。炎のように赤い羽毛は、火の粉を一つも落とさない。閲覧机のあいだを、背の高い半人半馬が静かに歩いていた。蹄は床に触れているのに、音がしなかった。
本棚の根元には、白い麒麟が伏せていた。長い角を本の背表紙へ近づけ、ときおり目を細めている。高い窓枠には、翼を畳んだ鷲獅子が止まり、金色の目だけをゆっくり動かしていた。さらに奥では、人面獅子が前脚のあいだに分厚い本を抱え、石像のように動かなかった。
どの幻獣も、Sを見ても怯えなかった。敵意もなかった。ただ、そこにいるのが当然であるように、少しだけ道を空けた。
中央の受付に、丸い眼鏡をかけた半人半馬の女がいた。黒い髪の下には人間の顔があり、その下には灰色の馬の身体が続いている。
Sは近づいた。
「すみません。ここは、何なんですか」
女は読んでいた本を閉じた。
「多くの叡智が集められた場所です」
「叡智」
「世の理も、眠りの理も。まだ名前のないことも、ここには本として置かれています」
女は眼鏡の位置を直した。
「あなたが見ている夢についても、知ることができるかもしれません」
Sの胸の奥で、何かが小さく光った。
眠るたびに、自分の中から何かが削られていく気がしていた。誰に話しても、夢だと言われれば終わる。自分でも、夢なのだから仕方がないと思いかけていた。
だが、ここには答えがあるかもしれない。
原因が分かれば、やめられるかもしれない。
「調べてもらえますか」
「あなた自身の夢です。探すのは、あなたです」
女が細い指で受付の奥を示した。
「ただし、手伝う者はおります」
その言葉の直後、近くにいた叡智を司る幻獣たちが一斉に動いた。
不死鳥が大きく羽を広げ、高い棚の奥から何冊もの本をくちばしで引き出した。鷲獅子は爪のあいだに目録の束を挟み、書架のあいだを音もなく滑った。白い麒麟は根の陰へ落ちた栞を鼻先で拾い、人面獅子は分厚い本を前脚で押さえて頁を開いた。半人半馬たちは、根のあいだを縫うように梯子を押していった。
Sは、言われるままに夢の中で見たものを口にした。
学校。
名簿。
仮面。
自分の名前が呼ばれないこと。
起きたあとにも残る、知らない感触。
ひとつ言うたびに、どこかの棚で本が動いた。
最後に、首に手を掛けた感覚のことを言おうとした時だけ、声が出なかった。
代わりに、受付の女が一冊の本を受け取った。
黒ずんだ革表紙に、細い文字で題が書かれていた。
――『睡界考』。
「これです」
女はそう言った。
Sは本を受け取った。見た目よりも重かった。頁の端は茶色く変色しているのに、文字だけは妙に濃かった。
最初の数頁には、眠りについて書かれていた。
古い言い回しだったが、読むことはできた。
『現の人、夢路をただの眠りと思うことなかれ。
夢の景、現に滲み、現の手、夢に残る時、
その者の魂は、既に半ば、夢の国へ渡りぬ。
渡りし魂を返さず、なお名を失い、顔を失い、
見ぬ刻の行いを重ねる者、
肉は現にありながら、魂は夢の住人となるべし。』
Sの指が、頁の端で止まった。
夢の景が現に滲む。
見ぬ刻の行いを重ねる。
そこに書かれていたことは、ただの夢の話ではなかった。
Sは次の頁をめくった。
そこには、かろうじて読める見出しがあった。
『夢路に渡る因は、』
その先から、文字が変わっていた。
漢字でも、仮名でもなかった。細い線と丸が連なり、虫の脚のような記号が頁の上を埋めている。見たことのない字だった。
さらに頁をめくる。
『魂を現へ帰す術は、』
その後も、同じだった。
原因と、戻る方法。
いちばん知りたいところだけが、Sには読めなかった。
「何ですか、これ」
Sは受付の女を見た。
「何語なんですか」
「あなたが、まだ読めない文字です」
「読める本はないんですか」
「ございます」
女は、書架のさらに奥を見た。
「では、そこへ行かせてください」
「それはできません」
声は優しかった。
だからこそ、Sは苛立った。
「なんでですか。これを読めないと、俺は」
「お帰りの時間です」
女は、さっきと同じ調子で言った。
その瞬間、図書館のあちこちで本を閉じる音がした。
不死鳥が目を開けた。鷲獅子は翼を閉じ、白い麒麟は角を伏せた。人面獅子は抱えていた本を閉じ、半人半馬たちは通路の両側に並んだ。
誰もSを見ていなかった。
それなのに、全員がSを帰そうとしているのだと分かった。
「まだ読んでいない」
Sは本を抱えたまま、書架の奥へ走った。
根の下に、細い螺旋階段があった。上へ続いている。階段の先には、見たことのない文字の背表紙が、夜空のように並んでいた。
Sは一段目に足を掛けた。
「待ってください」
返事はなかった。
二段、三段と上がったところで、背中に誰かの手が触れた。
軽い力だった。
だが、Sの身体は簡単に前へ傾いた。
踏み外したのではなかった。
押された。
手から『睡界考』が抜け落ちた。頁が開き、読めない文字が無数の羽虫のように揺れた。
Sは階段を落ちながら、最後に受付の女の声を聞いた。
「読めないまま戻ることにも、意味があります」
◇
Sは、ベッドの上で跳ね起きた。
喉が乾いていた。胸が速く上下している。窓の外はもう暗く、部屋にはスマートフォンの画面だけが光っていた。
通知が一件、届いていた。
顧問からだった。
『今日は来てくれてありがとう。あとは任せとけ』
Sはその文を、しばらく見ていた。
それから、机の方へ目を向けた。
大学から持ち帰ったノートが、一冊だけ開かれていた。
寝る前に開いた覚えはなかった。
白い余白に、鉛筆で三行ほど何かが書かれている。
漢字でも、仮名でもなかった。
夢の本で読めなかった文字と、同じだった。
Sは近づき、震える指でその一行をなぞった。
一字も読めなかった。
それでも、それが自分に向けて書かれた続きを示していることだけは、なぜか分かった。
第十三章「叡智」
お読みいただき、ありがとうございます。
Sの中で、これまで曖昧だった不安や恐れが、少しずつ言葉や形を持ちはじめています。理解することは救いになるのか、それとも自分を追い詰めるだけなのか。そんなことを意識しながら書きました。
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