第十四章 『深淵』
ノートに残された三行の文字は、翌朝になっても読めなかった。
細い線と丸が連なった、漢字でも仮名でもない文字だった。消えかけているわけではない。鉛筆で書かれたそれは、普通の文字より濃く、白い余白に沈んでいる。
夢の図書館で、受付の女は言った。
あなたが、まだ読めない文字です。
読めないのは、知識が足りないからではないのかもしれない。意味が外側にあるのではなく、自分の中にあるから読めないのだとしたら、何を調べればいいのかも分からなかった。
深淵を覗く時、深淵もまたこちらを覗いているのだ。
どこかで読んだニーチェの言葉が、唐突に脳裏を過ぎった。
自分が夢を覗いているつもりで、実際には夢の方から自分を見ているのだとしたら。夢の答えを探すのが自分自身なら、鍵を持っているのも自分自身なのだろうか。
だが、鍵を持つ人間が、鍵穴の場所すら分からないことがあるのか。
Sはノートを鞄に入れ、昼前に図書館へ向かった。
◇
市立図書館の棚には、夢に関する本が思ったより多くあった。
睡眠と脳の本。悪夢についての本。夢占いの本。古い翻訳の『夢判断』。Sはそれらを片端から開いた。
夢占いの頁には、落ちる夢は不安の表れだとか、知らない家は自分自身を表すだとか、短い説明が並んでいた。仮面も、名簿も、濡れた畳も、死体の傘も、そこにはなかった。あったとしても、それらしい言葉を当てはめて終わるだけなのだろうと思った。
寝不足や疲労、強い不安が悪夢と関係すること。生活を整え、必要なら専門家へ相談すること。どの本にも、もっともなことは書かれていた。
だが、Sが知りたいことはそこにはなかった。
夢の中で見たものが、起きたあとにも残るのはなぜなのか。
眠っている間の行動を覚えていないのはなぜなのか。
自分のノートに、知らない文字が書かれているのはなぜなのか。
どの索引にも、その項目はなかった。
Sは哲学の棚へも行った。存在、時間、倫理、自己。題名だけでは何の本か分からないものを何冊か開き、ニーチェの文庫本も手に取った。
哲学なら、夢をただの症状や偶然として扱わずに考える言葉があるかもしれないと思った。
しかし、Sには哲学が分からなかった。
難しい言葉の前では、自分の苦しみまで、ただ整理できていない感情として片づけられてしまう気がした。
窓の外が少しずつ橙色になっても、Sは席を立てなかった。何冊開いても、答えではなく、自分の知らない分野が増えていくだけだった。分からないことの多さに安心するより、夢の中の文字がいっそう自分だけのものになっていく気がした。
閉館前、Sは『夢判断』と眠りについて書かれた薄い本を借りた。答えを持って帰るというより、何も持たずに帰るのが怖かった。
翌日、Sはその二冊を鞄に入れ、夜行バスに乗った。
◇
大学は夏季休業に入っており、介護施設の方も一週間ほど休みを取れていた。
以前から約束していた高校時代の同期、Aと東京で会う。そのあいだ、中学時代からの友人であるKの家へ泊めてもらうことになっていた。
バスの座席は狭く、背もたれを倒しても眠るには中途半端だった。前の席とのあいだに膝が触れそうになり、隣の乗客が寝返りを打つたび、車体が小さく揺れた。
眠れば夢を見るかもしれない。
だが、眠らなければ、朝になった時にはもっと疲れている。
Sは首に枕を巻き、目を閉じた。
途中で何度か目を覚ました。サービスエリアの照明。自動販売機の前の人影。運転席の向こうの小さな話し声。どれも現実だった。
夢は見なかった。
あるいは、見ていたとしても覚えていなかった。
朝、東京に着いた時、Sは眠った実感のないまま、窓の外を見ていた。
◇
Kの住む部屋は、駅から少し歩いた住宅街の中にあった。
インターホンを押すと、すぐに扉が開いた。
「おお。ほんまに来たな」
笑ったKを見た瞬間、Sは少しだけ安心した。
高校生の頃から、Kはほとんど変わっていなかった。笑う時に一度だけ視線を逸らす癖も、相手の話を聞く時にわずかに首を傾けるところも同じだった。
SとKは同じ高校ではない。中学生の頃に共通の友人を介して知り合い、カラオケや観劇へ行くうちに、自然と付き合いが続いた。学校が違うことで途切れるような関係ではなかった。
「久々やな」
「久々。相変わらず、なんかでかいな」
「武道やってたら、ちょっとだけ」
「ちょっとの域ちゃうやろ。玄関開けて、一瞬怖い人来たんかと思ったわ」
部屋には演劇サークルの台本が積まれ、棚には舞台関係の本が並んでいた。Kは大学に入ってから演劇を始め、今は稽古のある日を楽しみにしているらしかった。
「横浜生まれのドイツ人は、困ってる友人を放っておけへんからな」
「どこの要素がドイツなんや」
「思想」
「お前、バリバリの日本人で、しかも関西人やろ」
「東京来た直後は、関西弁を使わんようにしてたんやけどな。最近は無理やと思って解禁した」
意味の分からないことを真面目に言うところも、昔のままだった。
荷物を置いたあと、二人は近況を話した。
介護の仕事のこと。夜勤が続くと朝と夜の感覚が曖昧になること。大学の単位は、今期たぶん全部取れそうなこと。
「フル単やん。普通にすごいな」
「落としたら後で面倒になるだけやし」
「それをちゃんとやるのがすごいんやろ」
Sが悪夢の話をすると、Kは冗談を言わずに聞いた。
眠るのが怖いこと。起きても疲れが取れないこと。寝ているあいだの記憶が抜けることがあること。
「それ、笑い話にしたらあかんやつやろ」
「うん」
「続くなら、ちゃんと診てもらい。気合いでどうにかする話ちゃうで」
Sは曖昧に頷いた。誰かに説明した瞬間、夢が現実の問題として形を持ってしまう気がして怖かった。
「僕から見たら、今のSはかなりちゃんとしてるで」
Kは台本の端を揃えながら言った。
「仕事して、大学も行って、何かあったら自分で考えてる。せやから余計に、寝られてへんことまで一人で抱え込まんくてええ」
Kは褒める時も、必要以上に大げさにはしなかった。Sが自分を低く見積もりがちなことを知っていて、その癖を否定しすぎない程度に言葉を置いた。
Sは礼を言う代わりに、「了解」とだけ答えた。
Kはそれ以上追及せず、鞄に台本を入れた。
「今日は昼から稽古。Sは友達と会うんやろ」
「池袋で」
「東京を甘く見た関西人は、だいたい迷子になるから気ぃつけて」
「横浜生まれのドイツ人が言うな」
二人は一緒に部屋を出た。駅で別れ、Kは稽古場へ、Sは池袋へ向かった。
◇
待ち合わせの少し前、Aからメッセージが届いた。
『着いたよ。どこにいる?』
Sは場所を送った。
数分後、近くを通り過ぎる人影の中にAらしい女性がいた。だが、AはSの前を一度通り過ぎ、スマートフォンを見ながら首を傾げた。
『ごめん、分からん。どこ?』
Sは笑って手を挙げた。
「……S?」
「そんな分からんかった?」
「分からんかった。何、その格好」
Sは七三に分けた髪を整髪料で後ろへ流し、サングラスをかけていた。高校の頃より身体つきも大きくなっている。
「普通の格好やろ」
「普通ではない。近寄ったらあかん人やと思った」
「失礼やな」
「でも、Sって分かったら安心した」
その言い方が、Sには嬉しかった。
二人は駅から少し離れたバーへ入った。まだ早い時間で、店内は静かだった。
最初は、この一年の報告をした。Aは自分の生活のことを必要な分だけ話し、Sは大学と仕事の話をした。夜勤があること。講義にも休まず出て、単位もたぶん全部取れること。
「それでも続けてるんでしょ」
「続けるしかないから」
「ちゃんと続けてるのは偉いと思う」
褒められることに慣れていないSは、少しだけ目を逸らした。
二杯目を頼んだ頃、話は自然と重い方へ流れた。
Sは最近の夢のことを話した。全部ではない。ただ、眠るのが怖いことと、起きても疲れが取れないこと、寝ているあいだの記憶が抜けることがあると話した。
Aの表情が少しだけ固くなった。
「それは、ちゃんと誰かに相談した方がいいんじゃない?」
「知り合いにもそれは言われた」
「他の人にも言われてる」
「多分大丈夫」
「それ、大丈夫じゃない」
Aは笑わなかった。
その真面目さが、Sには心地よかった。
酒が入っていたこともあり、Hのことまで口にしてしまった。
H以外の誰かを好きになってはいけないと思っていること。Hに連絡しないことと、他の女性に目を向けないことが、自分の中で一つの決まりになっていること。Aと二人で会っている今も、どこか後ろめたいこと。
手を出さないことだけで、何かを守れているような気がしていた。実際には、Aは何も求めていないし、Hも今の自分を見ているわけではない。それでもSは、誰かと会うたび、過去に対する試験を受けているような気分になった。
Aはグラスを置いた。
「私と会ったことまで、気にしなくていいよ」
「でも、苦しんでなかったら、忘れてしまいそうや」
「忘れることと、過去を反省しないことは別だよ」
Sは何も言えなかった。
「Hが望んだ距離を守ることと、Sがずっと自分を罰し続けることも別じゃない?」
「...まぁ」
「じゃあ、自分で自分を縛ってるだけじゃん」
「そうかもしれん。でも、苦しむのをやめたら、Hのことまで都合よく済ませたことになる気がする」
「HがSに望んだことは、距離を置くことだったんでしょ」
Aは少し間を置いた。
「だったら、その距離を守ることだけで、もう十分に苦しいと思うよ。自分を壊すことまで、Hへの反省だと思わなくていい」
責める口調ではなかった。
だからこそ、Sは返事に困った。苦しんでいる間だけは、自分が過去を忘れていない証明になる気がしていた。
「女の子と二人で酒を飲んだからって、それだけで何か悪いことをしたみたいに考えるの、私にもHにも失礼だと思う」
Aは少し笑った。
「Sが私に何かするつもりないのも、見てたら分かるし」
「ないよ」
「うん。だから、そんなに構えなくていい」
Sも笑った。
それからは軽い話に戻った。同期の近況や、昔は大人だと思っていた教師たちのこと。酒が進むうち、Sは久しぶりに、嫌なことを少しだけ忘れていた。
忘れていることに気づくたび、罪悪感が浮かんだ。
だが、そのたびにAの言葉を思い出した。
忘れることと、過去を反省しないことは別だよ。
店を出たあと、SはAを家の近くまで送った。
「今日はありがとう。久々にちゃんと話せたわ」
「こっちこそ。あと、水飲んで寝なよ。夜行バス明けで飲んでるんだから」
「分かった」
「夢のことも、ほんとに一回相談して」
「検討します」
「その返事、だいたい行かない人の返事だよ」
Aは呆れたように笑った。
◇
Kの部屋に戻ると、Kはすでに帰っていた。
「どうやった?」
Sは靴を脱ぎながら、少し得意げに言った。
「俺は手を出さなかった。紳士や」
Kは一度だけ瞬きをした。
「女性の友人と酒を飲んで、家の近くまで送って帰ってきた」
「そうや」
「それを紳士と呼ぶなら、世の中の大半は表彰されるで」
Sは今日Aに言われたことを話した。
Hのために苦しみ続けることと、Hを大事にすることは別ではないか、と。
「愛って、そんな簡単なもんちゃうやろ」
「出た。酒入ったSの愛の話」
「俺は真面目に言ってる」
「知ってる。せやから、今日はもう寝た方がええ」
Kは笑ってから、声を柔らかくした。
「苦しまんかったら、悪かったと思ったことまで消えるわけちゃうやろ」
その言葉だけが、Sの胸に残った。
正しいからこそ、怖かった。
自分が苦しむ理由まで失ってしまうような気がした。
Sは、Kが用意してくれた寝具に入った。
夜行バスの疲れと酒が身体に溜まっていた。Aの顔と、Hの泣いていた顔と、ノートに残された読めない文字が順番に浮かんだ。
いつ眠ったのか、Sは覚えていなかった。
◇
気がつくと、そこは廃村だった。
瓦の落ちた屋根。傾いた電柱。草に埋もれた軽自動車。窓ガラスの割れた家々が、狭い道の両側に並んでいる。
空は白く、朝なのか夕方なのか分からなかった。村の外へ続く道は霧に飲まれ、Sは裸足で、湿った土の上に立っていた。
すぐ近くの電柱には、錆びた防災無線のスピーカーが付いていた。電線は途中で切れている。それなのに、女の声が聞こえた。
『住民のみなさまに、お知らせします』
デパートでも、学校でも、夢の図書館でも聞いた声だった。
『帰る者は、苦痛を納めてからお帰りください』
放送は、それだけだった。
道は途中で二つに分かれていた。
左の民家の引き戸が、少しだけ開いている。その隙間から、Aの声が聞こえた。
『私と会ったことまで、気にしなくていいよ』
覗き込むと、畳の上に古いバーの丸椅子が一脚だけ置かれていた。テーブルの上には、溶けた氷のグラスが二つ並び、片方には黒い水が満たされている。
『忘れることと、過去を反省しないことは別だよ』
Sは引き戸を閉めた。
右の道の先には、もっと古い家があった。
玄関の前に立つと、Hの声が聞こえた。
『高校を卒業したら、私から連絡する』
Sの喉が詰まった。
『それまでは連絡してこんといて』
扉に手を掛けても、開かなかった。古い木の奥から、同じ言葉だけが繰り返される。
左にも右にも、入ることはできなかった。
振り返ると、さっき歩いてきた道は消えていた。代わりに、村の中央へ続く細い坂道が現れている。
坂の先には、古い井戸があった。
石を積み上げただけの深い井戸で、縁にはノートに残されたものと同じ文字が、無数に刻まれていた。
読めない。
それでも、何が書かれているのかだけは分かった。
苦しむことをやめるな。
Sは井戸の中を覗き込んだ。
底には、黒い水があった。
水面には今の自分だけでなく、小学生の自分、中学生の自分、泣きながらHの前に立っていた高校生の自分、サングラスをかけて東京へ来た自分が並んでいた。
全員が、こちらを見ていた。
誰一人として、悲しそうな顔をしていなかった。
泣いていたはずの高校生の自分も、怯えているはずの小学生の自分も、同じ無表情で井戸の底に立っている。自分の過去が、苦しみのためだけに形を与えられ、そこに並べられているようだった。
深淵を覗く時、深淵もまたこちらを覗いている。
その言葉を思い出した瞬間、水の底にいるSたちが、一斉に目を開けた。
「何のために苦しんでいる」
声がした。
井戸の底からではなかった。
自分の喉から出ていた。
「Hのためや」
「違う」
水の底にいるSが言った。
「お前は、Hのために苦しんでいるんじゃない。自分は今も罰を受けているのだと、思っていたいだけだ」
「違う」
「忘れることが怖いのではない。許されることが怖いのだ」
水面が揺れた。
左の民家からAの声がした。
『私と会ったことまで、気にしなくていいよ』
右の民家から、Hの声がした。
『それまでは連絡してこんといて』
どちらも、Sを呼んでいなかった。
それを勝手に結びつけ、苦しむ理由に変えているのは自分だった。
そのことが分かる方が、Sには怖かった。
「それでも、苦しみ続けなあかん」
水の底にいるSが、ゆっくり笑った。
「なら、帰るな」
Sは井戸から目を逸らし、村の出口を探した。だが、左右にあった家はいつの間にか井戸のすぐそばまで迫り、Aの家もHの家も、壁だけの黒い箱になっていた。
錆びたスピーカーが、遠くでもう一度鳴った。
『帰る者は、苦痛を納めてからお帰りください』
井戸の水が溢れ出した。
黒い水は石の縁を越え、土の上を這い、Sの裸足へ触れた。足首から膝へ、腰へ、腹へと上がってくる。
逃げようとしても、足が動かなかった。
水面の下から、小学生の手、高校生の手、今の自分の手が伸びてきた。どれもSの足首を掴み、井戸の方へ引いた。
最後に、水の底のSが口を開いた。
その口から、黒い水が一気に溢れ出した。
◇
Sは、吐いていた。
喉が焼けるように痛かった。身体を横向きにされ、背中を誰かが撫でている。酸っぱい匂いが鼻に入り、自分が何をしているのか理解するまでに数秒かかった。
「S。大丈夫。横向いて、息して」
Kの声だった。
Sは咳き込み、もう一度吐いた。Kが洗面器を支え、もう片方の手で背中をさすっている。眠る前にはなかったタオルと、水の入ったペットボトルが枕元に置かれていた。
自分がKの家で吐いている。
その事実が分かった瞬間、ひどく情けなくなった。
「ごめん」
「謝らんでええ。今は水飲めるか」
Kは嫌そうな顔をしなかった。
そのことが、かえって申し訳なかった。
「夢、見たん?」
Sは目を閉じた。
廃村。Aの声。Hの声。井戸の底でこちらを見ていた、いくつもの自分。
「見た」
「さっき、寝ながら何か言うてたで」
「何て」
「帰らなあかん、って」
Sの背中が冷えた。
「ここにおるのに、ずっと言うてた」
Kはそれ以上訊かなかった。片づけるために立ち上がり、Sには横になっているよう言い残して、部屋の扉を静かに閉めた。
扉が閉まったあとも、廊下の向こうから水を流す音が聞こえていた。その音が止まるたび、Sには井戸の底で黒い水が揺れる音のように聞こえた。
一人になると、Sは自分の手を見た。
爪の隙間に、黒い土が詰まっていた。
夜行バスにも、Aを送った道にも、Kの部屋にも、そんな土がつく場所はなかった。
Sは指先を何度も擦った。
それでも、湿った土の匂いだけは落ちなかった。
第十四章「深淵」をお読みいただき、ありがとうございます。
調べても答えが見つからないものほど、Sの内側に深く残っていくのだと思います。今回は、夢と現実の境目、そして自分でもまだ読めないものを描きました。
物語は少しずつ先へ進んでいきます。引き続きお付き合いいただければ幸いです。




