第十五章 『理性』
東京を出る新幹線は、街を離れるほど静かになっていくように思えた。
窓の外を流れていく建物の群れは、最初のうちは隙間なく続いていた。高架の向こうに見えるマンションも、看板も、名前の知らない駅も、すべてが誰かの生活を抱えたまま後ろへ遠ざかっていく。
Sは通路側の席に座り、膝の上に鞄を置いていた。
昨晩、Kの部屋で吐いた。
それだけのことを、もう何度も頭の中で繰り返していた。夢の内容は、起きてから少しずつ形を失っている。廃村も、井戸も、黒い水も、今は思い出そうとすれば思い出せる。しかし、Kの寝具を汚してしまったという現実だけは、曖昧になるどころか時間が経つほど重くなっていた。
発車してしばらく経ってから、Sはスマートフォンを開いた。
『昨日は本当にごめん。部屋も寝具も汚してしまったし、片づけまでさせてしまって申し訳ない。体調は今のところ大丈夫。改めてありがとう』
送信してから、短い文面に自分の情けなさだけが残った気がした。
すぐに既読がついた。
『もうええって。気にせんで大丈夫やから、帰ったらちゃんと寝ろ。着いたら一応連絡して』
Kらしい返事だった。
責めないからこそ、Sは余計に顔を上げられなかった。自分なら、同じように誰かの部屋を汚された時、あれほど自然に「気にするな」と言えるだろうか。相手が具合を悪くしていると分かっていても、内心では迷惑だったと思ってしまうのではないか。
Kは、そういうことを考えさせる人間だった。
昨晩、寝ながら何度も「帰らなあかん」と言っていたらしい。
今、実際に帰るために新幹線へ乗っているのに、Sにはまだどこにも帰れていないような気がした。
◇
自宅の最寄り駅へ着いた時には、空がもう薄い灰色になっていた。
東京で過ごした時間は長かったはずなのに、帰ってきてみれば、数日間の出来事がすべて他人の記憶のようだった。Kの部屋にあった台本。Aの前に置かれたグラス。池袋の雑踏。夜の廃村。
どれも手を伸ばせば触れられそうで、実際には一つも手元になかった。
部屋へ戻り、靴を脱ぎ、鞄を床に置いた。
洗面所で顔を洗ってから、荷ほどきを始めた。着替えを洗濯機へ放り込み、充電器を机の上へ置く。図書館で借りた本を重ね、鞄の内ポケットからノートを取り出した。
三行の文字は、変わらずそこにあった。
細い線と丸が連なった、知らない文字。
Sは一度だけそれを見て、すぐにノートを閉じた。読むことができないのに、見ていると、何かを読まされているような気分になる。
机の引き出しへしまい、Sはベッドの端に腰を下ろした。
部屋は、出発前と何も変わっていなかった。
変わっていないことが、急に恐ろしくなった。
留守のあいだにも、部屋はSがいないことなど知らないまま、同じように壁に囲まれ、同じように夕方を迎えていた。帰ってきたからといって、何かが戻ったわけではない。自分がここにいることも、いないことも、この部屋には大した違いではないのだと思った。
虚無感は、悲しいというより先に、身体の内側が空洞になっていく感覚だった。
胸の奥に穴が開いている。その穴から、疲れも、怒りも、反省も、全部が少しずつ抜けていく。何も感じないわけではない。むしろ、何かを感じるための力だけが残っていない。
人肌が恋しい、と思った。
そんな言葉が自分の中から出てきたことに、Sは嫌悪した。
Hがいれば、どれだけ楽だろうと思った。
Hがこの部屋にいるところを、Sは具体的には想像できなかった。Hは、今のSの部屋を知らない。知っていたとしても、ここへ来たいと思うはずがない。それでも、ただ同じ空間に誰かがいて、互いに何も話さず、呼吸しているだけで、この空洞は少し埋まるのではないかと思った。
それはHを求めているというより、Hという名前を使って孤独を都合よく形にしているだけなのかもしれなかった。
Aの顔も浮かんだ。
昨日、別れ際にAは何も疑わず、手を振って帰っていった。Sを信頼しているからこそ、家の近くまで送らせたのだろう。その信頼を、Sは一瞬だけ、自分の寂しさを埋めるための可能性として見てしまった。
もう一杯飲もうと言っていたら。
あのまま、帰さなかったら。
酒の勢いに任せて、紳士的な態度など捨てていたら。
考えが形になる前に、Sは目を閉じた。
Aの意思を数えるより先に、Aを自分の孤独を埋めるための一人にしていた。そのことが、ひどく醜かった。
Sは、下世話な話が好きではなかった。
誰と寝たとか、どんな身体だったとか、そういう話を面白がって口にする人間を、品がないと思っていた。人間関係の中にあるはずの不安や信頼や責任を、ただの欲望の話へ縮めてしまえば、最後に何が残るのか分からなかった。
笑い話にするために誰かの身体を語ることも、相手を知らないまま消費することも、Sには理解できなかった。
だが今の自分は、Aに対して似たようなことを考えた。
実行しなかったことを理由に、自分だけは違う顔をするのは卑怯だった。頭の中で一度でも、相手を一人の人間ではなく、寂しさを埋めるための道具として扱ったのなら、その時点で何が違うのか。
一時的な感情に耐えられず、金銭が介在する関係へ逃げる人間もいる。酒場で出会った相手と、その夜だけの関係を結ぶ人間もいる。
Sには、どちらもできなかった。
愛情のない肉体関係に、Sはどうしても価値を見いだせない。金銭があればなおさら、人の身体と孤独が、交換できるものとして扱われてしまう気がした。金銭がなくても、相手の人生を何も知らないまま、その場の欲望だけで関係を結ぶことを、Sは恐ろしいと思った。
その恐ろしさの中には、軽蔑も混じっていた。
自分とは違う選択をする人間へ、乱暴な言葉を投げつけようとする感情が、胸の底にある。Sはその言葉を口にしなかった。口に出した瞬間、自分の孤独を隠すために誰かを下へ置こうとしていることが、あまりにもはっきりする気がしたからだった。
人間と他の生物の違いは、理性があるかどうかだと、Sは考えていた。
感情や欲望があること自体は、誰にでもある。怒りも、性欲も、寂しさも、完全になくすことはできない。だからこそ、それをそのまま他人へぶつけないための理性が必要なのだと思う。
理性が崩れた時、人は人ではなくなる。
そう考えていた。
だが、その考えは、自分がしていないことをすべて獣性と呼び、自分だけを人間の側に置くための、都合のいい線引きにも思えた。
Sは福祉の仕事をしている。
だからなのか、福祉を名乗る国や社会が、言葉だけで人を救ったような顔をすることにも、以前から苛立ちを抱いていた。誰かを支えることには、支える側の負担がある。制度を使うことにも、本来ならば、その人なりの節度や責任が必要なのではないか。綺麗事だけを並べ、何でも許すことを福祉と呼ぶのは、詭弁ではないのか。
若い人間の怠惰や、都合のいい権利の使い方を見聞きするたび、Sは腹を立てた。
だが、その怒りがどこから来るのか、自分でも分からなかった。
Sが福祉に求めていたのは、支える人の献身と、支えられる人の品位だった。どちらかだけが一方的に耐え続ける関係ではなく、誰もが自分の弱さに甘えすぎず、それでも必要な時には互いを支える社会。
それは理想としては正しいのかもしれない。
しかし、困った時に助けを求めることまで怠惰と呼んでしまえば、自分は何を見ているのだろうと思った。
自分だって、親を頼れない時には教授や祖父母に助けられてきた。誰にも迷惑を掛けず、一人で立っているつもりでいても、実際には誰かの言葉や手を借りてきた。
それを忘れ、他人の弱さだけを裁くのは、理性ではない。
自分が壊れないための意地だった。
Sは両手で顔を覆った。
Hに対しても、同じことをしていた。
Hの趣味を否定した。考え方を否定した。何気なく言った言葉の端を掴み、そこから相手を責める理由を作った。怒鳴りつけ、言い返せないようにして、自分が正しい側に立った。
最初から火種を作ったつもりはなかった。
Hが何かを仕掛けてきたと、自分が認識した時だけ、Sは喧嘩を買っていた。こちらから先に傷つけたのではない。やられたから、やり返しただけだ。そう思っていた。
しかし、それは後から付け足した言い訳だった。
相手の言葉を攻撃だと決めるのは、いつもSだった。
自分の中に少しでも不快さが生まれれば、それを正当な怒りへ変え、相手が先に間違えたことにした。喧嘩を買っているのではない。相手が断れない場所まで追い込み、勝てる形になってから殴り返しているだけだった。
卑怯だった。
やられたらやり返す。倍返しだ。
そういう言葉は、聞いている時には分かりやすい。耐えるだけでは駄目だという意味にも取れる。実際、理不尽に傷つけられた時、何もしないことが正しいとは限らない。
だが、やり返した先に残るのが争いだけなら、それにどれほどの生産性があるのだろうと思った。
何かを守るためではなく、自分が負けたくないという感情のために相手を傷つけるのなら、それは正義ではない。ただの報復だ。
人間は、合理性や生産性だけで生きることはできない。感情がある。怒ることも、悲しむことも、愛することも、理屈だけで片づけられるものではない。
それでも、感情を抑えるために理性はある。
Sはずっと、そのことを分かっているつもりだった。
実際には、感情を否定していたのではない。感情にもっともらしい名前をつけ、それを理性と呼んでいただけだった。
涙が出た。
最初は、何に対して泣いているのか分からなかった。Hのことか。Aに一瞬でも抱いた考えか。Kの部屋を汚したことか。親への怒りか。それとも、全部を分かっていながら、結局何一つ変えられない自分に対してなのか。
Sは一人で、声を殺して泣いた。
この先も、後悔を抱えたまま生きていかなければならないのだろうか。
Hにしてきたことを、一生忘れずにいるべきなのだろうか。
自分は、幸せになってはいけないのだろうか。
考えるほど、答えは遠ざかった。
苦しみ続ければ、過去を大切にしていることになるのか。少し楽になれば、Hを都合よく忘れたことになるのか。
Hはもう、Sに何も求めていないかもしれない。
それでもSは、何かを求められている気がしていた。
夕方が終わり、部屋の中が暗くなっても、Sは照明をつけなかった。
◇
胃の調子を悪くしてから、Sは外食を避けるようになっていた。
誰かと店へ入れば、料理を待つ時間に会話をしなければならない。食べられなかった時には、相手に気を遣わせる。疲れている日は、そのどちらもできなかった。
簡単なものだけを口にして、薬を飲んだ。
Kへ無事に着いたと連絡すると、すぐに「よかった。今日は早よ寝ろ」と返ってきた。Sは短く礼を返し、スマートフォンを伏せた。
人と会いたくなかった。
誰かの声を聞けば、さっきまでの孤独が嘘だったことになるような気がした。孤独に浸っている自分を、見つけられるのも嫌だった。
眠ろうとして、ベッドに入った。
身体は疲れていた。
その一方で、身体だけが別の要求をしていることにも気づいた。
Sも人間であり、男だった。寂しさとは別のところで、唐突に欲望が湧く夜がある。今なら、現代的にはムラムラするとでも言うのだろう。もっと古い言葉なら、発情と呼ぶ方が近いのかもしれない。
辞書的に言えば、自慰行為や手淫という言葉になるのだろうか。
Sは、そのこと自体に強い嫌悪を抱いていたわけではない。
ただ、自分一人の身体を慰めることで、今夜の空洞まで急いで処理してしまうような気がした。寂しさも、Hへの後悔も、Aへ向けた醜い想像も、すべてを欲望の中へ押し込めて終わらせるようで、耐えられなかった。
何かに負ける気がした。
何に負けるのかは、自分でも分からなかった。
Sは目を閉じた。
眠りは休息ではない。
そのことだけを、身体が覚えていた。
◇
気がつくと、そこは実家の居間だった。
見慣れたはずの部屋だった。
低いテーブル。少し黄ばんだ壁紙。テレビの前に置かれた座椅子。子どもの頃から変わらない配置のはずなのに、部屋全体が水の底に沈んでいるように暗かった。
父親と母親が、Sの前に座っていた。
二人とも、怒っていた。
「いつまで自分だけが被害者みたいな顔しとるんや」
父親が言った。
「何でも人のせいにして。Hさんのことも、結局はあんたが勝手にこじらせたんやろ」
母親が続けた。
Sは、すぐに言い返そうとした。
だが、声が出なかった。
「親に向かって、何やその目は」
父親の声だけが、大きく響いた。
Sは二人を親だと思っていなかった。
Hのことで揉めた時も、都合よく自分を巻き込み、必要がなくなれば切り捨てた。困っている時に助けてくれるのは、いつも教授か祖父母だった。父と母は、Sが何かを選んだ時だけ、その選択の責任を問うために現れるような気がしていた。
それでも、目の前にいる二人は、Sを子どもとして扱うことだけはやめなかった。
「俺が何をされたか、何も知らんくせに」
ようやく声が出た。
「何も知らんくせに、親みたいなこと言うな」
父親の顔が、ゆっくり変わった。
怒っているのに、口元だけが笑っていた。
「親みたいなこと?」
次の瞬間、父親が立ち上がった。
Sも立とうとした。
しかし、足が動かなかった。
父親の手が胸元を掴み、そのまま床へ引き倒した。背中に畳の硬さが当たる。父親の体重が腹の上に落ち、息が一度に押し出された。
拳が振り下ろされた。
痛みより先に、見覚えがあると思った。
夢ではない。
あるいは、夢の中でしか見られない形にされた現実だった。
いつだったのか、何がきっかけだったのか、細部はもう覚えていない。Hのことだったのか。進路のことだったのか。ただ、父親に馬乗りになられ、言葉より先に身体で黙らされる恐怖だけは、ずっと残っていた。
父親の拳が何度も落ちてくる。
Sは腕で顔を庇った。
その腕の隙間から、母親が見えた。
母親は止めなかった。
口を開いて、何かを言っている。
『住民のみなさまに、お知らせします』
聞こえたのは、夢の中で何度も聞いた、受付の女の声だった。
『帰る者は、苦痛を納めてからお帰りください』
「違う」
Sは叫んだ。
父親の手が、口元を覆った。
息ができない。
父親の顔が近づく。
目の奥が、井戸の底のように黒かった。
「お前が苦しんでいるのは、誰のためや」
声は父親のものではなかった。
水の底にいた、自分自身の声だった。
「Hのためや」
そう答えようとした。
だが、父親の手の下では、何も言えなかった。
「違う」
黒い目が、すぐ近くで瞬いた。
「お前は、苦しむことでしか、自分を人間だと思えない」
居間の天井に、ノートの文字が浮かび上がった。
三行のはずだった文字が、父親の拳が落ちるたびに増えていく。細い線と丸が、白い天井を埋め尽くし、読めないまま、Sの上へ降ってくる。
苦しい。
父親の手が、さらに強く口と鼻を塞いだ。
Sは暴れようとした。
腕も、脚も、少しも動かなかった。
◇
気がつくと、Sは窒息しかけていた。
暗い部屋の中で、口と鼻の前に何かがあった。
息を吸おうとしても、空気が入ってこない。胸の上に重いものが乗っているようで、腕も動かなかった。目だけを開けても、視界には天井の輪郭がぼんやり浮かんでいるだけだった。
金縛りに近い状態なのだと、頭のどこかでは分かった。
分かっているのに、身体は言うことを聞かなかった。
父親の手の感触が、まだ口元に残っている。
Sは指先だけを動かそうとした。
一度。二度。何も動かない。
肺の奥が熱くなり、耳の奥で血の音が鳴った。
その時、部屋のどこかで、男が息を整える音がした。
自分の呼吸ではなかった。
Sはもう一度、指を動かした。
右手の小指が、わずかに跳ねた。
その瞬間、身体がほどけた。
Sは横へ転がり、口元を覆っていた布団を掴んで、床へ投げた。冷たい空気が喉へ流れ込み、激しく咳き込んだ。
しばらく、床に手をついたまま動けなかった。
部屋の中には、自分以外に誰もいない。
それでも、さっきの息遣いだけが、耳から離れなかった。
震える手で照明をつけると、机の引き出しが開いていた。
閉じたはずのノートが、その前の床に落ちている。
Sは立ち上がれないまま、這うように近づいた。
ノートは開かれていた。
三行だった文字の下に、四行目が増えていた。
やはり、読めない文字だった。
細い線と丸が、黒い水の跡のように余白へ沈んでいる。
Sには読めなかった。
それでも、それは「おかえり」と書かれているのだと、なぜか分かってしまった。
部屋の外で、誰かが一度だけ、咳払いをした。
Sは息を止めた。
自室の扉は、内側から鍵が掛かっていた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
今回は、Sがこれまで他者へ向けてきた言葉や判断を、自分自身にも返されるような章になりました。理性で整えていたはずのものの下に、どのような感情や衝動が残っているのか。本人にも、まだはっきりとは見えていません。
静かな場面が続きますが、ここから少しずつ物語は動いていきます。
今後とも『匿S氏・カルマ連鎖』をよろしくお願いいたします。




