第十六章 『影法師』
Sは、床に座り込んだまま、自室の扉を見ていた。
外で聞こえた咳払いのあと、音は続かなかった。
誰かがいるのかもしれない。そう思うだけで、背中の汗が冷えていく。扉の向こうにいるのが人間なら、なぜ咳払いだけをして、何も言わないのか。人間でないのなら、そもそも扉の向こうという場所にいるのかどうかさえ分からなかった。
Sは立ち上がれなかった。
引き出しから落ちたノートは、床の上で開いたままだった。三行だった文字の下に増えた四行目は、照明の白い光を受けても、依然として読めなかった。
おかえり。
そう書かれているのだと分かったことが、何よりも怖かった。
Sはスマートフォンを掴み、時刻を見た。午前二時を少し過ぎている。Kへ連絡を入れることも考えた。しかし、こんな時間に、扉の外で咳がしたから怖いと送ったところで、何をしてほしいのか自分でも分からなかった。
警察へ電話するほどのことなのか。
いや、そもそも本当に聞こえたのか。
Sは息を殺して、しばらく待った。
廊下の床が軋む音も、足音も、二度目の咳払いもなかった。遠くで車が走る音と、冷蔵庫の低い駆動音だけが、部屋の静けさをかろうじて現実のものにしていた。
それでも扉へ近づくことはできなかった。
眠るのが怖い夜は、これまでもあった。だがこの夜は、眠る前にすでに何かが部屋へ入ってきているような気がした。
Sはベッドへ戻らず、朝まで床に座っていた。
◇
朝になってから、Sはようやく扉を開けた。
廊下には誰もいなかった。
隣室の前にも、階段の踊り場にも、何かがいた痕跡はない。玄関の鍵も、チェーンも、昨夜自分で確認した時のままだった。
何もなかった。
そのことが、安心にはならなかった。
人がいたなら、人がいなくなった理由を考えればいい。だが、最初から何もなかったのだとすれば、あの咳払いはどこから来たのか。自分の頭の中にしかなかったのだとすれば、これから先も、同じようなものを何度聞くことになるのか。
Sはノートを机の引き出しへ戻した。
四行目は、朝になっても消えていなかった。
東京から帰ってから、Sは眠れていなかった。
眠れば夢を見る。夢から覚めても、夢だったと言い切れないものが残る。だったら起きていればいいと思っても、身体は休息を求める。施設の勤務がある日には、疲労だけが正直に蓄積していった。
勤務中のSは、普段より丁寧に動いた。
声をかける。記録を確認する。頼まれたことを忘れないように、何度も頭の中で繰り返す。誰かを不快にさせないように、余計なことを言わない。失敗をしないために、いつもより慎重になる。
それでも、気持ちは少しも整わなかった。
人間関係は、どれだけ誠実にしても、必ずしも誠実に返ってくるものではない。仕事でも、かつて関わった競技の世界でも、Sはそのことを何度も知ってきた。自分の言葉が誰かの都合で曲げられ、こちらが何もしていないのに、悪意だけを向けられることがある。
丁寧に働けば、報われる。
人を大切にすれば、いつか同じように大切にされる。
そういうものを、Sはどこかで信じていた。
信じていたからこそ、現実がそうでないたびに、人生そのものが馬鹿らしく思えた。
怠惰に見える人間の方が、何も考えずに楽しそうに生きている。誰かを傷つけても、平気な顔で次へ進んでいる。努力や忍耐が必要な者だけが、最後まで自分を律し続けなければならないのなら、勤勉でいることに何の意味があるのか。
そんな考えが浮かぶたび、Sは自分で自分を軽蔑した。
誰かの幸せを、外から見える一場面だけで決めつけている。自分が苦しいからといって、他人の人生まで浅いものに見ようとしている。その醜さは分かっていた。
分かっていても、疲れている時には止められなかった。
◇
Hの名前を、検索欄へ打ち込むことがあった。
画面には、すぐに候補が現れる。
指は、そこから先へ進まない。
HのSNSを見ることは、Sにとって恐怖に近かった。何かを見つけるのが怖いのではない。見た後に、見なければよかったと思うことが怖いのだ。
Hが誰と会っているのか。
誰と笑っているのか。
誰かと付き合っているのか。
仮にそうだったとしても、Sには知る権利も、責める資格もなかった。それでも、知らないままでいることが正しいのかどうかも分からなかった。
Hが高校を卒業する頃に残した言葉を、Sは今でも覚えている。
私から連絡するまで、連絡してこんといて。
当時のHにとって、それはSをこれ以上傷つけないための言葉だったのかもしれない。曖昧に期待させるのではなく、自分から連絡する時まで待ってほしいという、Hなりの優しさだったのかもしれなかった。
だがSにとって、その言葉は時間が経つほど足枷になっていった。
Hから連絡が来るまで、自分は何もしてはいけない。
連絡が来ないという現実を受け入れることもできない。
連絡が来ると信じ続けることも、もうできない。
周りの人間は、ほとんど同じことを言った。
もう連絡は来ないと思う。
他の女の子を見た方がいい。
悪意で言った者はいなかった。Sを心配して、現実的なことを言ってくれているのだと分かっていた。大多数の人間から見れば、それが正しいのだろうとも思った。
HがSの人生を待っているはずがない。
Hの人生を、Sだけが六年間立ち止まって待っている。
希望はもう、希望と呼べるほどの大きさではなかった。指先に乗るほど小さく、それでも捨てきれないものとして残っているだけだった。
Sは候補からHの名前を消し、スマートフォンを伏せた。
他の誰かへ行けば楽になるのかもしれない。
そう思う夜はあった。
誰かの隣にいれば、Hのことを考えずに済むかもしれない。身体を重ねれば、愛されたいという飢えを、少しのあいだだけ誤魔化せるかもしれない。
しかし、それを愛と呼ぶことはできない。
Sは、H以外の相手に対して恋愛感情を抱かないことを、いつからか贖罪のように考えるようになっていた。自分には、それくらいしかできないと思っていた。
その考え自体が、Hにとっては迷惑でしかないかもしれない。
Hが求めていない苦しみを、勝手に抱え、勝手に自分を悲劇の中心へ置いているだけなのかもしれなかった。
それでも、離れることができなかった。
◇
六年前、一度だけ、Sは自分で自分が怖くなったことがある。
Hへの愛情が、ある日を境に、憎悪と区別できなくなった。
Hの家を焼けばいい。
Hを傷つけて、自分も消えればいい。
Hのそばにいる人間を、全員いなくしてしまえばいい。
そんな考えが、具体的な予定ではなく、何度も頭の中を巡る映像として現れた。思い浮かべるたびに吐き気がした。それでも、苦しさが頂点に達すると、その映像だけが自分を強くしてくれるようにも思えた。
それは愛ではなかった。
自分のものにならなかった人間を、誰のものにもしたくないという欲だった。
Sは、そのことを当時から分かっていた。
分かっていたからこそ、誰にも言えなかった。
Iにだけは、言った。
どこまで話したのか、Sはもう正確には覚えていない。電話口で言葉を選びながら、自分が何をしそうなのかを、遠回しに伝えたのだと思う。
Iは長いあいだ黙っていた。
それから、低い声で言った。
「今夜は、どこにも行くな」
責める声ではなかった。
「何をするつもりか、俺には全部は分からん。でも、今一人で決めるな。朝まで電話つないどくから」
その言葉だけで、Sはその夜を越えた。
IがSを救ったのかどうかは、今でも分からない。ただ、Iがいなければ、Sは自分の中にあるものを、止めるべきものだと思えなかったかもしれない。
あれから六年、Sは耐えてきた。
耐えることしかしてこなかった、とも言える。
Hに連絡しない。
Hの近くへ行かない。
Hの話を聞かない。
Hと関係のある異性の存在を、できるだけ知らない。
思い出さないようにして、思い出した時には自分を責める。
そうしていれば、いつか感情は薄くなると思っていた。
だが、薄くなったのではなかった。
長いあいだ蓋をしていただけだった。
唐突に襲ってくる不快感や虚無感の底には、いつも同じものが沈んでいた。一緒に死にたい。誰にも渡したくない。自分のように苦しめばいい。
そんな感情が、四六時中、完全に消えることはなかった。
Sは、それを口にしなかった。
口にしないことで、制御できているつもりでいた。
◇
夜が深くなるほど、部屋にいるのが苦しくなった。
酒を飲めば、少しは眠れるのかもしれない。
煙草を吸えば、気が紛れるのかもしれない。
賭博で大きな金を賭ければ、一晩だけは別のことを考えられるのかもしれない。
誰かと会えば、孤独を身体で忘れられるのかもしれない。
Sには競馬を楽しむ一面はあった。けれど、破滅するほど賭けることはできなかった。負ければ惜しいと思い、勝てばそこでやめる。煙草も、先輩に勧められた時や付き合いの時以外には吸わない。酒も同じだった。
自制心があるわけではない。
どこかで壊れることが、怖いだけだった。
女に逃げることなど、なおさらできなかった。
Sには、具体的なストレス解消法というものがなかった。怒りも悲しみも、外へ出す方法を知らないまま、身体の内側へ溜め込んできた。
深夜二時を過ぎた頃、Sは上着を羽織って外へ出た。
目的地はなかった。
ただ、部屋にいると、あのノートと扉と、聞こえたはずの咳払いが、いつまでも自分を見ているような気がした。
住宅街は静かだった。
街灯の下だけが、必要以上に白い。道路脇の植え込みは黒く沈み、昼間なら何でもない電柱の影が、道の途中で誰かの足元のように伸びている。
Sは歩いた。
十分ほど歩いたところで、一度だけ振り返った。
少し離れた街灯の下に、人影があった。
フードを被っているように見えた。顔は暗くて分からない。Sが振り返った時には、その人影も動いていなかった。
たまたま誰かが立っているだけだ。
そう思って、Sはまた歩き始めた。
次の角を曲がり、信号のない横断歩道を渡った。車は一台も来なかった。
そこで、もう一度振り返った。
人影は、さっきより近くにいた。
同じように、街灯の下に立っている。
Sは歩く速度を上げた。
後ろから足音は聞こえなかった。聞こえないからこそ、追いつかれているのではないかと思った。
大通りへ出れば、人がいるはずだった。コンビニの明かりも見えた。そこまで行けば、少なくとも自分が一人で怯えているだけなのか、誰かに見られているのか、はっきりするかもしれない。
Sは大通りへ出る手前で、もう一度だけ振り返った。
人影はいなかった。
代わりに、街灯の下にS自身の影が二つ伸びていた。
一つは、Sの足元から素直に伸びている。
もう一つは、少し後ろから、Sの背中を追うように伸びていた。
Sは走って家へ戻った。
玄関の鍵を閉め、何度も確認した。自室の扉も、窓も、引き出しも確認した。
ノートは、机の中にあった。
それだけで、少しだけ吐き気がした。
◇
眠ることが怖いという感情よりも、憤りの方が勝っている夜がある。
なぜ悪夢が連続するのか。
なぜ、自分の知らない場所や、知らない文字や、ありもしない声が、現実の生活にまで入り込んでくるのか。
何も理解できなかった。
理解できないまま苦しみ続けることに、Sは腹が立っていた。
誰かを傷つけた罰だというなら、なぜ夢はHではなく、父親やKやAや、自分の周囲にいる人間の姿ばかり借りるのか。自分だけを罰すればいいはずなのに、なぜ関係のない人間まで、自分の罪の中へ引きずり込もうとするのか。
Sはベッドへ横になった。
目を閉じた時、眠りへ落ちる感覚はなかった。
ただ、誰かが背後から瞼を押さえたように、世界が急に暗くなった。
◇
中学の卒業式だった。
講堂の天井は高く、壇上に飾られた花だけが、異様に色濃く見えた。椅子に座る生徒たちの顔はぼやけている。教師たちの言葉も、遠い水の底から聞こえてくるようだった。
Sは、卒業証書の筒を持って立っていた。
隣にHがいた。
Hは笑っていた。
何が嬉しいのか、Sには分からなかった。卒業が嬉しいのか。これから先が楽しみなのか。それとも、Sと同じ場所から離れられることが嬉しいのか。
HはSの方を向いた。
「写真、撮るんやろ」
その声には、何の棘もなかった。
Sは頷いた。
誰かが、前へ並ぶように言った。SとHは並んだ。肩は触れていない。触れようと思えば触れられるほど近いのに、二人の間には、まだ名前のない距離があった。
フラッシュが光った。
白い光が、講堂のすべてを塗り潰した。
次に目を開けた時、Sは中学の通学路に立っていた。
夕方でも、夜でもなかった。
空は灰色で、街だけが先に暗くなっている。見覚えのある家々は、どこも窓を閉め、誰も住んでいないように静まっていた。
ここでHと何度も別れた。
ここで、くだらない話をした。
ここで、手を繋いだこともあった。
中学時代には、生徒指導の問題もあった。面倒な記憶も、嫌な人間関係もあった。それでも、この道そのものに不幸な記憶は多くなかった。
むしろ、Hと一緒にいた頃の方が、Sには少なかった。
なのに、なぜここなのか。
Hはいなかった。
卒業式で隣にいたはずの姿は、最初からこの場所に存在しなかったように消えている。
Sは歩き出した。
道の途中に、見覚えのない街灯が立っていた。
中学の頃、この場所に街灯はなかったはずだった。
その白い光の下に、誰かが立っていた。
Sは足を止めた。
相手も動かなかった。
制服を着ているように見えた。だが、どこの制服なのかは分からない。髪型だけが、今のSと同じだった。
Sは、一歩だけ近づいた。
街灯の光が、相手の顔を照らした。
そこにいたのは、Sだった。
中学生でも、高校生でもない。
今のSと同じ顔をしていた。ただし、目の下だけが深く黒く、何日も眠っていない人間のように窪んでいる。
「誰や」
Sは訊いた。
もう一人のSは、少し笑った。
「ずっと、お前の後ろを歩いてた」
その声を聞いた瞬間、深夜の住宅街にあった二つ目の影が、頭の中で重なった。
「お前が、俺をつけてたんか」
「そうやで」
もう一人のSは、首を傾げた。
「お前は、誰かに見られてると思ってた。でも、ずっと見てたのは俺や」
Sは後ずさった。
もう一人のSは、逃がさないように一歩だけ前へ出た。
「Hのところへ行かんでよかったな」
Sの喉が詰まった。
「何の話や」
「分かってるやろ」
もう一人のSは、笑っていなかった。
「火をつけようとした時も。傷つけて、一緒に消えようとした時も。あの子の周りを全部なくしてしまえばええと思った時も。お前は、ずっと俺が止めてた」
「Iが止めた」
「Iは、電話をつないでくれただけや」
街灯の白い光が、二人のあいだだけを照らしていた。
「止めたのは俺や」
もう一人のSは、右手を下げた。
そこに、細い刃物が握られているのを、Sは見た。
恐怖より先に、ひどく懐かしいと思った。
その手は、自分の手だった。
「何で」
Sの声は、震えていた。
「何で、俺を止めるんや」
もう一人のSは、しばらく答えなかった。
やがて、静かな声で言った。
「Hを傷つけんためや」
次の瞬間、冷たいものがSの腹へ入った。
痛みは遅れてきた。
腹の奥に、熱いものが広がっていく。Sは声を出そうとしたが、喉からは濁った息しか漏れなかった。
もう一人のSは、刃物を握ったまま、Sの身体を支えた。
抱きしめられているようにも見えた。
「お前がいなくなれば」
耳元で、もう一人のSが囁いた。
「誰も、傷つけんで済む」
Sは腹を押さえた。
手のひらが、すぐに濡れた。
街灯の光が滲む。
卒業式のフラッシュのように、世界が白くなった。
白い光の向こうで、誰かが言った。
おかえり。
◇
Sは、自分の叫び声で目を覚ました。
最初に感じたのは、腹の痛みだった。
夢の痛みではなかった。
息を吸うたびに、腹の奥が引き攣れる。Sは反射的に身体を丸め、震える手でTシャツの上から腹を押さえた。
指先が濡れた。
暗闇の中でも、それが血だと分かった。
Sは照明をつけようとして、ベッドから転がり落ちた。
腹部には、夢の中で感じた場所と同じところに、細い傷があった。傷の周囲から、じわじわと赤いものが滲んでいる。どこかをぶつけたような傷ではなかった。
刃物はなかった。
部屋の中に、自分以外の誰かが入った形跡もなかった。
Sは口元を押さえた。
吐き気が込み上げる。
次の瞬間、喉の奥からせり上がった赤黒いものを、床へ吐いた。
何が起きたのか分からなかった。
眠っていた。
夢を見ていた。
それだけのはずだった。
Sは這うようにしてスマートフォンへ手を伸ばした。画面を掴んだところで、身体から力が抜ける。床へ肩がぶつかり、鈍い音が部屋に響いた。
その音の直後、玄関の方で誰かが叫んだ。
「Sさん? 大丈夫ですか!」
大家の声だった。
Sは返事をしようとした。
だが、口を開くと、また血の味が広がった。
「Sさん、聞こえますか!」
大家は何度も扉を叩いた。
Sが答えないまましばらくすると、玄関の鍵が開く音がした。廊下を急ぐ足音が近づき、自室の前で止まる。
「開けますよ!」
扉が開いた。
大家の顔が、視界の端に見えた。
何かを叫んでいる。救急車、という言葉だけが聞き取れた。
Sは、自分の腹を見た。
夢の中で、もう一人のSに刺された場所だった。
とうとう夢が、現実へ傷を残したのだと思った。
その考えに戦慄した。
救急隊員が部屋へ入ってきた時、Sの意識はもう途切れかけていた。担架へ乗せられ、廊下を運ばれていく。天井が遠ざかり、部屋の外の明かりが、深夜の街灯と同じ白さで視界を流れていった。
救急車の扉が閉まる直前、Sは自室の前に立つ大家の後ろを見た。
廊下の突き当たりに、もう一人のSがいた。
濡れた手を下げたまま、こちらを見ていた。
そして、救急車のサイレンが鳴り始めるよりわずかに早く、Sの耳元で声がした。
『次は、起きている時に会おう』
第十六章「影法師」をお読みいただき、ありがとうございました。
今回から、夢はただSを苦しめるだけの領域ではなくなりました。Sが抱え続ける愛憎と何気ない日常の中へ、夢の側から初めて現実に介入してくる。今回は、夢と現実が実際に重なり始めた章です。
この先、Sの抱えるものと夢がどのように混ざり合っていくのか。引き続き見届けていただければ幸いです。
ブックマーク、評価、感想も励みになります。
今後とも『匿S氏・カルマ連鎖』をよろしくお願いいたします。




