第十七章 『岐路』
Sは、車を運転していた。
ハンドルを握る両手に、革の冷たさが伝わっている。アクセルを踏めば、足裏からエンジンの微かな震えが上がってきた。前照灯は確かに山道を照らし、その光の届かない先には、黒い木々と斜面がどこまでも続いていた。
夢だ、とSは分かっていた。
大家の顔。救急隊員の声。担架に乗せられ、救急車の扉が閉じる直前までのことは覚えている。その先の記憶がなく、気がつけば自分は車の運転席にいた。
それでも、これはただの夢ではないように思えた。
以前読んだライトノベルに出てきた、完全没入型のVRゲームを思わせるほど、感覚が鮮明だった。シート越しに拾う路面の凹凸も、エアコンから流れてくる湿った空気も、窓の外から入り込む土と苔の匂いも、現実と何ら変わらない。
むしろ、現実よりも輪郭が濃かった。
車が自分のものなのかどうか、Sには分からなかった。見覚えのない黒い車だった。だが、運転の仕方は知っていた。どの程度アクセルを踏めばカーブを曲がれるのかも、ブレーキを踏むべき場所も、考えるまでもなく身体が理解していた。
ラジオはついていなかった。
聞こえるのはエンジン音と、タイヤが砂利を踏む音だけだった。
山道の両脇には、壊れかけた地蔵や、半ば土へ埋まった墓標が並んでいる。地蔵の首は落ち、いくつかは顔の部分だけが不自然に削れていた。墓標に刻まれた文字は、近づいても読めない。漢字のようにも見えるが、目を凝らすほど知らない形へ変わっていく。
ありそうで、なさそうな山だった。
墓地と山道が混ざり合い、誰かが古い記憶だけを寄せ集めて作った場所のように見えた。道の先には民家も、看板も、ガードレールもない。木々は鬱蒼と茂っているのに、風で枝が揺れることもなかった。
Sはただ、車を走らせた。
この山から出るしかない。
救急搬送されたあと、自分がどこにいるのかは分からない。もしかすると、手術中にでも見ている夢なのかもしれない。あるいは、あの傷で死にかけていて、ここが生と死のあいだなのかもしれなかった。
どちらにしても、この場所に留まりたくはなかった。
最初のうちは、同じような景色が続くだけだと思っていた。
だが、三度目に壊れた地蔵の前を通り過ぎた時、Sはハンドルを握り直した。
地蔵の左肩には、赤い布が巻かれていた。
その布を、さっきも見た気がした。
気のせいだと思い、さらに走った。曲がりくねった坂を下り、苔の生えた石垣の横を抜け、傾いた墓標の群れを通り過ぎる。
するとまた、赤い布を左肩に巻いた首のない地蔵が現れた。
Sは車を停めず、そのまま通り過ぎた。
次に現れた時、赤い布は地蔵の右肩に巻かれていた。
Sは、それから数えるようにした。
同じ地蔵。崩れた石垣。幹の中央が人の口のように裂けた木。何度走っても、同じものが現れた。順番まで同じだった。
十周を越えた頃には、数えること自体が怖くなっていた。
十五周目で、道路脇の墓標のあいだに、何かが蹲っているのを見た。
狐だった。
ただし、普通の狐ではなかった。
黄色い毛の上に、虎の縞模様のような黒い筋がいくつも走っている。顔つきも、狐らしい細さがなかった。頬は丸く膨らみ、鼻先は短い。目だけが不釣り合いに大きく、夜の中でも、こちらを見ていることが分かった。
Sが車を近づけると、狐は逃げなかった。
ただ、首を傾げて見送った。
二十周目には、放棄された畑の周りに、同じような虎柄の狐が何匹も集まっていた。
畑には何も植わっていない。土はひび割れ、畝だけが黒く残っている。その周囲で狐たちは、互いに寄り添うこともなく、一定の距離を保って座っていた。
一匹ごとに顔が違った。
目の位置が人間に近いもの。口元だけが異様に長いもの。片方の耳がなく、代わりに額のあたりが膨らんでいるもの。
どれも狐の姿をしているのに、狐であることを忘れたような顔をしていた。
さらに走ると、急な斜面の上から一匹がこちらを見下ろしていた。
木の根に後ろ足を掛け、前足を揃えている。その姿勢は、山の中を走る車を見つけた獣のものではなかった。Sがどこへ行くのかを、最初から知っている者のようだった。
Sはアクセルを踏み込んだ。
現実でも夢でも、異世界転移でも何でもよかった。
ただ、この恐怖から解放されたかった。
その時だった。
山の奥から、ヒグラシの声が聞こえた。
カナカナカナ、と、夏の夕暮れに聞くはずの鳴き声が、暗い山の中に響く。
季節も、時刻も分からない場所だった。空は夜の色をしているのに、山の上の方だけが灰色に白んでいる。そこへヒグラシの声だけが、妙に明瞭に重なった。
Sが次の角を曲がると、唐突に道が開けた。
山道は二つに分かれていた。
Sは車を路肩へ寄せ、エンジンをかけたまま降りた。
左の道は、ほとんど勾配がなかった。木々のあいだを、舗装の剥げた道がなだらかに続いている。
そこから、香ばしい匂いが漂ってきていた。
最初は、焚き火か何かの匂いだと思った。炒った豆や、焼けた木のような、どこか懐かしい香りだった。
けれど、その奥には甘く腐った脂の匂いが混じっていた。鼻から入った匂いが、喉の奥に薄い膜を張る。Sは思わず口元を押さえ、吐き気をこらえた。
右の道は、すぐ先から急な斜面になっていた。
道の先には、山の上へ向かう階段が見える。とても車で上がれるような場所ではない。階段は暗闇の中へ延び、その頂上には、大きな屋根の建物が建っていた。
寺なのか、宗教施設なのか、Sには分からなかった。
屋根だけが見えている。寺院らしい反りを持つ屋根の下に、何本もの柱が並んでいた。窓には灯りがなく、建物そのものが夜より黒く沈んでいる。
Sは、周囲の木々を見た。
枝が揺れたわけではない。
それでも、木々が笑いながら自分を見ているように感じた。
幹の節や、剥がれた樹皮の下にある黒い窪みが、人間の目や口に見える。どの木も、口元だけを歪めているようだった。
樹木子。
Sの頭に、その名前が浮かんだ。
一時期、妖怪や怪異について調べ漁っていたことがある。人の血を吸った木が怪異になるという話を、どこかで読んだ記憶があった。もし本当にそれなら、この山の木々は、いったい何の血を吸って育ったのか。
Sは首を振った。
どちらへ行っても、ここにいるよりはましだ。
まずは左へ進むことにした。
◇
左の道を少し走ると、木々が途切れた。
そこには、葬式場があった。
建物ではなかった。山の中の空き地へ、白い布だけで形作られた式場が置かれている。四方に垂れた幕が、風もないのにゆっくりと蠢いていた。
入口の前には、白いものがいくつも集まっていた。
人の形をしているように見える。
だが、着物を着た人間ではなかった。
頭から足元まで白い布に包まれ、その下で何かが絶えず形を変えている。肩の位置が入れ替わり、腕らしきものが二本になったり、一本になったりする。布の隙間から覗く顔は、のっぺりと白く、目も鼻もなかった。
それらは、赤い彼岸花を一輪ずつ持っていた。
一体が祭壇の方へ進み、花を置く。
すると、集まったすべてのものが、同時に口を開いた。
『テンソウメツ』
声は低くも高くもなかった。
誰か一人の声ではなく、地面の下から響いてくるような音だった。
次の白いものが彼岸花を置く。
『テンソウメツ』
Sの背中を、冷たい汗が流れた。
ヤマノケ。
なぜその名を思い出したのか、自分でも分からなかった。山に関する怪談を読んでいた時、意味の分からない言葉だけを繰り返す怪異の話を見た気がする。正確な内容など覚えていない。
ただ、今ここで聞こえている声が、人間の言葉ではないことだけは分かった。
Sは車の中から、息を殺してその様子を眺めていた。
祭壇の中央には、棺らしきものが置かれていた。
白い布で覆われている。その布の下に何があるのかは見えない。
けれど、布の盛り上がりは、人間一人が横たわっている形に見えた。
ふいに、一体の白いものがこちらを向いた。
顔のないはずの面が、Sのいる運転席を正確に捉えた。
その瞬間、車のボンネットへ、何かが落ちた。
鈍い音がした。
虎柄の狐だった。
狐はボンネットの上に四つ足で立ち、フロントガラス越しにSを見つめた。近くで見ると、その顔はますます狐らしくなかった。目の周りの毛が黒く落ち込み、頬だけが妙に人間じみている。
狐は、ゆっくりと前足を上げた。
爪のある獣の足ではなかった。
細い指が五本、濡れたようにガラスへ触れた。
Sは息を呑んだ。
狐の口が開いた。
声は出なかった。
それでも、口の形だけで何かを言っているのが分かった。
テンソウメツ。
Sはシフトを入れ、急発進した。
狐の身体がボンネットから落ちた感触はなかった。バックミラーを見ても、後ろの道には何も映っていない。
ただ、山道へ戻ったあともしばらく、フロントガラスに五本の濡れた跡が残っていた。
◇
分岐点へ戻るまでの道は、妙に短かった。
Sは今度、右の道へ車を進めた。
急な斜面を少し上がったところで、道路は途切れていた。その先は、途方もない数の階段だった。
階段の幅は広い。だが、一段ごとに高さが違っている。低い段の次には膝ほどもある段があり、そのまた次には、ほとんど地面と変わらないほど浅い段が続いている。
頂上の建物は、下から見るより大きかった。
寺院に似ているのに、山門も、扁額も見当たらない。屋根の下から何本もの白い布が垂れ、暗闇の中でゆっくりと揺れていた。
Sは車を停めた。
こんな意味の分からない場所で、わざわざ寺社仏閣巡りをする気にはなれなかった。
そもそも、ここが寺である保証もない。
山の中で、狐とも人間ともつかないものに見られ、葬式のようなものまで見せられたあとだった。階段を上がれば、さらに理解できない場所へ連れていかれる気がした。
Sは来た道を引き返した。
途中、一本の大きな木の前で、誰かが動いた。
女の子だった。
白いワンピースのようなものを着て、太い幹へ両腕を回している。頬を樹皮へ押しつけ、木に抱きつくような格好をしていた。
女の子は、ヒグラシの鳴き声を真似ていた。
「カナ、カナ、カナ」
声は幼いのに、妙に掠れていた。
機械が鳴き声を真似ているような、不自然な間隔だった。
Sはブレーキを踏みかけた。
女の子が、ゆっくりとこちらへ顔を向ける。
街灯もない山道で、その顔だけが白く浮かんだ。
Sは最後まで見なかった。
アクセルを踏み込み、視線を前へ戻した。
これまでにも、壮絶な夢は見てきた。
濡れた畳。冷たい指。無縁堂の石像。死体の傘。自分を追う影。
この程度で気が狂うほど、自分は弱くない。
そう思おうとした。
しかし、ハンドルを持つ手は震えていた。
背中には鳥肌が立ち、喉の奥には、左の道で嗅いだ香ばしい匂いがまだ残っている。夢の中で恐怖を感じることはあっても、ここまで身体が現実と同じように反応したことはなかった。
Sは分岐点へ戻った。
戻ったはずだった。
なのに、次の瞬間にはまた、赤い布を巻いた首のない地蔵の前を走っていた。
◇
それから、どれだけ走ったのか分からない。
左の道へ進んでも、右の道へ進んでも、引き返しても、道路を逆走しても、必ず同じ場所へ戻ってくる。
壊れた地蔵。
読めない墓標。
放棄された畑。
虎柄の狐。
ヒグラシの声。
分岐点。
Sは、もう何周したのか数えられなかった。三十周は越えていると思う。車内の時計は、最初から午前二時十七分を指したまま動かなかった。
スマートフォンを取り出しても、画面はつかなかった。
充電が切れているわけではない。黒い画面の中央に、細い白い線が一本だけ表示されていた。その線は、しばらく見ていると、ゆっくりと上下へ波打った。
Sはスマートフォンを助手席へ投げた。
その時、左手の感覚が薄れていることに気づいた。
最初は、ハンドルを握り続けていたせいだと思った。だが、指を動かしても、指先が動いている実感がない。手のひらから手首、腕へかけて、冷たい水の中へ沈めたように感覚が遠のいていく。
Sは右手だけでハンドルを握った。
左手を太腿へ置く。
重さだけはあるのに、自分の腕ではないようだった。
現実の自分は、どうなっているのだろう。
救急車の中で意識を失った。そのまま手術を受けているのか。あるいは、もう手遅れになっていて、この山を走り続けることだけが残されているのか。
死んだ人間にも、こんなふうに恐怖は残るのだろうか。
そんなことを考えた時、フロントガラスの向こうで、赤い光が一度だけ点滅した。
救急車の回転灯のような赤だった。
Sは急いでブレーキを踏んだ。
しかし、光はすぐに消えた。
代わりに、道路の真ん中に虎柄の狐が一匹座っていた。
いつかボンネットへ乗ってきた狐だった。
狐は動かなかった。
前足を上げ、右の道――階段のある方を指しているように見えた。
Sは、長く息を吐いた。
左の道には、葬式場がある。
右の道には、何かの寺がある。
どちらもまともな出口には見えない。それでも、もう走り続けることにも意味がなかった。逃げるたびに、同じ場所へ戻されるだけだった。
Sは狐を避け、右の道へ車を進めた。
道路の終わりで車を停める。
エンジンを切った瞬間、山から音が消えた。
ヒグラシの声も、木々が葉を擦るはずの音も、狐の足音も聞こえない。
残ったのは、遠くで一定の間隔を刻む電子音だけだった。
ピッ、ピッ、ピッ、と。
Sは車を降りた。
左手は、ほとんど感覚がなかった。
階段の一段目へ足を乗せた時、背後で何かが鳴いた。
ヒグラシではなかった。
女の子の声でもなかった。
誰かが、Sの名前を呼んでいるような声だった。
振り返ることはしなかった。
Sは階段を上がった。
一段、二段と進むたびに、身体が重くなる。上を見上げても、建物は少しも近づかない。何十段上がっても、屋根は同じ場所にあるように見えた。
それでも、足を止めることはできなかった。
途中で、階段の脇に白い彼岸花が咲いているのを見た。
花弁は白いのに、茎だけが赤黒く濡れている。
そのそばに、虎柄の狐が座っていた。
狐はSを見上げ、何もせずに道を空けた。
やがて、Sは最上段へ辿り着いた。
建物の前には、大きな格子戸があった。
寺の戸に見える。だが、格子の向こうから漏れてくる光は、蝋燭や灯籠のものではない。白く、冷たく、目を刺すような光だった。
戸の前に立つと、内側から声が聞こえた。
『テンソウメツ』
Sは、格子戸へ手を伸ばした。
左手は動かなかった。
右手で戸を押す。
戸は、音もなく開いた。
中にあったのは、本堂ではなかった。
白い部屋だった。
天井には丸い照明がいくつも並び、壁際には金属の台や、見たことのない管が置かれている。部屋の中央には、白い布をかけられた細長い台があった。
その周りに、白いものたちが立っていた。
葬式場で見た、うねうねと形を変える存在だった。
それらは一斉に、台の方へ頭を下げている。
Sは、白い布の端から覗くものを見た。
血で濡れた、見覚えのあるTシャツだった。
自分のものだった。
Sは駆け寄ろうとした。
その瞬間、格子戸の黒い硝子に、自分ではない影が映った。
もう一人のSが、すぐ後ろに立っていた。
目の下だけが深く黒い。
だが、手にはもう刃物を持っていなかった。
「帰る道は、一つしかない」
その声と同時に、白いものたちが顔を上げた。
顔のない面に、次々と赤い線が浮かぶ。
目でも口でもない。彼岸花の花弁のように、赤い線だけがいくつも開いていく。
『テンソウメツ』
電子音が、急に大きくなった。
ピッ、ピッ、ピッ、ピッ、と、耳の奥を叩く。
Sは白い台へ手を伸ばした。
誰かが、現実のすぐ近くで叫んだ。
「Sさん、聞こえますか!」
世界が、白く弾けた。
◇
目を開けた時、Sは集中治療室にいた。
最初に見えたのは、白い天井だった。
次に、顔を覗き込む医師と看護師の姿が見えた。誰かが自分の名前を呼び、もう一人が何かを記録している。声は近いのに、しばらく意味として頭へ入ってこなかった。
「聞こえますか。今、病院です」
Sは瞬きをした。
腹部に重い痛みがあった。夢の中で刺された場所よりも鈍く、広い痛みだった。呼吸をすると、身体の内側まで引き攣る。
左手には点滴の管が繋がれ、指先には何かを挟む小さな機械がついていた。
感覚が薄かった理由を、Sはそこでようやく理解した。
それでも、安心はできなかった。
白い部屋。金属の台。一定の電子音。
さっきまでいた建物と、あまりにもよく似ていた。
「処置は終わっています。まだ無理に動かないでください」
医師の言葉に、Sはかすかに頷いた。
喉が乾いていた。声を出そうとすると、掠れた息しか出ない。
看護師が水分を含ませた綿を口元へ寄せる。その優しい手つきさえ、夢の中で彼岸花を置いていた白いものの動きに見えて、Sは反射的に顔を背けた。
「大丈夫です。ここは病院ですから」
その言葉を聞いても、Sは何も返せなかった。
病院だということは分かる。
分かるからこそ、あの山が何だったのか分からなかった。
夢の中で刺され、目を覚ましたら腹に傷があった。救急搬送され、意識を失ったあとには、死者の山を車で走っていた。
これを誰に説明すればいいのか。
警察に話せば、夢の中で自分に刺されたと言うことになる。そんな話をすれば、傷のことより先に、精神状態を疑われるだろう。夢で見た精神病棟の白い廊下が、一瞬だけ頭をよぎった。
Sは目を閉じた。
閉じると、格子戸の向こうで、もう一人のSがこちらを見ていた。
すぐに目を開けた。
しばらくして、看護師が小さな声で訊いた。
「ご家族の方と、警察の方が面会を希望されています。お話しできますか」
Sはゆっくりと首を振った。
喉を絞るようにして、声を出す。
「……今は、無理です」
看護師は頷いた。
「分かりました。落ち着かれてからで大丈夫です」
「親も……警察も、後にしてほしいです」
自分でも驚くほど、はっきりとした言葉だった。
今は誰の顔も見たくなかった。
親に何を言われるかを考えるだけで、胸の奥が重くなる。警察に対しては、何を話せばいいのかすら分からない。部屋へ誰かが侵入したのか。自分が寝ぼけて傷つけたのか。刃物はどこにあるのか。
どの問いにも、Sは答えを持っていなかった。
唯一、確かに言えることがあるとすれば、夢の中で自分が刺されたということだけだった。
そんなことを言えるわけがなかった。
看護師が去ったあと、Sは枕元の小さな台へ目を向けた。
そこには、大家が救急隊へ渡したのだろう、Sのスマートフォンが置かれていた。
画面には、何件もの着信と通知が表示されている。
Sは震える右手で、それを取った。
通知の下に、見覚えのない画像が一枚だけあった。
撮影時刻は、午前二時四十七分。
Sが救急車の中で意識を失っていたはずの時刻だった。
画像を開く。
夜の山道が映っていた。
前照灯に照らされた、壊れた地蔵。赤い布。道路の先にある二つの分かれ道。
そして、写真の中央には、虎柄の狐が一匹座っていた。
第十七章『岐路』をお読みいただき、ありがとうございます。
今回は、これまで積み重ねてきた夢の不穏さが、より鮮明な形でSの前に現れる章になりました。夢と現実の境界がどこにあるのか、その曖昧さを意識して書いています。
Sが目にしたものは何だったのか。現実では何が起きているのか。次章以降も少しずつ描いていければと思います。
引き続き、よろしくお願いいたします。




