第十八章 『隧道』
集中治療室を出て、病棟の個室へ移された翌日の午後、Sは家族と警察に面会した。
病室へ入ってきたのは、父と母、それから私服の警察官が二人だった。
父は入口のそばに立ったまま、ほとんど動かなかった。黒い上着の裾を握り、Sの方を見てはいるのに、そこに何の感情があるのかは分からない。怒っているのか、心配しているのか、それとも何も考えていないのか。昔から、父の顔はそういう時に限って、他人の顔のように見えた。
母は、Sのベッドの脇へ来るなり、しばらく言葉を失っていた。
やがて、布団の端へ額を伏せた。
「どうして、こんな……」
泣き声だけが、狭い病室に残った。
Sは母の後頭部を見下ろしていた。
何かを感じるべきなのだろうとは思った。自分のために泣いている母親を見て、申し訳なさや、安心や、少なくとも僅かな痛みくらいは抱くべきなのかもしれない。
だが、胸の内側は驚くほど静かだった。
涙に心が動かないことを、自分で冷たいと思う気にもなれなかった。
両親に対して抱えてきたものは、目の前で泣かれた程度で形を変えるようなものではない。長いあいだ蓋をしてきただけで、消えたわけではなかった。母の涙はSの中へ入り込まず、ベッドの白い布団の上で止まっているように見えた。
警察官の一人が、小さな手帳を開いた。
「昨晩のことについて、覚えている範囲で構いませんので、お話を伺ってもよろしいですか」
Sは頷いた。
腹部にはまだ鈍い痛みがあった。少し身体を動かすだけで、処置された場所の周囲が内側から引き攣る。息を整えてから、Sは言った。
「大家さんが来て、救急隊の人に運ばれたところまでは覚えています。そのあと、救急車の扉が閉まったところまでです」
「その前のことは」
「よく、分かりません」
嘘ではなかった。
自室にいたことは覚えている。扉の向こうの咳払い。床に落ちたノート。黒い影。自分と同じ顔をしたもの。そして、腹部へ走った痛み。
だが、それらを順番に並べて説明すれば、まともな話にはならない。
自分に似た何かが部屋へ入ってきて、夢で見た通りに自分を刺した。
そんな説明をした瞬間、警察官が何を考えるかくらい、Sにも分かった。事件の被害者ではなく、精神状態に問題を抱えた人間として扱われるだけだろう。最悪の場合、自傷をしたにもかかわらず、記憶を作り替えていると思われるかもしれない。
「お部屋の窓やドアに、無理に開けられたような跡はありませんでした。室内を荒らされた形跡も、今のところは確認できていません」
もう一人の警察官が、Sの顔色を窺いながら続けた。
「現時点で、第三者が侵入したことを裏づけるものは少ない状況です。ただ、お怪我をされている以上、確認を終えるわけにはいきません。後日、改めて詳しくお話を聞かせてください」
「はい」
「服用されているお薬についても、念のため確認させてください。普段と違う量を飲んだとか、処方されていないものを飲んだとか、そういうことはありませんか」
「ありません」
答えながら、Sは視線を落とした。
警察が何を疑っているのかは、言葉にされなくても分かる。薬物や、自傷や、意識が混濁するような何か。自分で自分を傷つけ、それを覚えていないのではないかと考えているのだろう。
それを否定する材料を、Sは持っていなかった。
警察官たちはそれ以上、踏み込んではこなかった。体調を気遣う言葉を残し、父母にも短く頭を下げて病室を出ていく。
母は最後までSの手を取ろうとした。
Sは、点滴の管が繋がれた左手を動かさなかった。
父は何も言わなかった。
病室のドアが閉まると、ようやく空気が軽くなった気がした。
Sは天井を見上げた。
白い照明。点滴の落ちる音。廊下を誰かが歩く、規則正しい足音。
現実に戻ったのだと分かるものばかりなのに、安心はなかった。病院の白さは、昨夜の夢で見た建物の内側を思い出させた。金属の台。白い布。一定の電子音。目を閉じれば、格子戸の黒い硝子に映った、もう一人のSの顔がすぐに浮かんだ。
自分が体験したことを、誰かに説明する気にはなれなかった。
夢の中の出来事だと言えば、現実の傷と結びつかない。現実に起きたことだと言えば、自分が異常者になる。怪異や霊のせいだとでも言えば、今度は得体の知れないものへ縋る人間だと思われる。
そう見られることだけは、どうしても嫌だった。
それでも、何も話さずに抱え続けることも、Sには耐え難かった。
◇
夕方、担当医が経過を確認しに来た。
痛みの程度。吐き気の有無。手足の感覚。眠れているかどうか。医師はカルテへ目を落としながら、ひとつずつ穏やかに尋ねた。
Sは、しばらく迷ってから口を開いた。
「……昨日、変な夢を見ました」
医師の手が止まった。
「どのような夢ですか」
「夢というより、臨死体験みたいなものかもしれません。車を運転していて、知らない山の中をずっと走っていました。感覚が、普通の夢と全然違っていて」
Sは、話せるところだけを選んだ。
ハンドルの冷たさ。タイヤが砂利を踏む感触。山道に並ぶ壊れた地蔵。何度走っても同じ場所へ戻ること。左手の感覚が薄くなり、最後には白い部屋で自分の身体らしきものを見たこと。
虎柄の狐や、顔のない白いものたちのことは言わなかった。
もう一人のSのことも、言わなかった。
「それで目を覚ましたら、ここにいたんです。今も、あれが夢だったという感じがあまりしなくて」
医師はすぐに否定しなかった。
「大きな怪我や処置の前後には、意識や記憶が途切れることがあります。強い恐怖や痛み、薬の影響が重なると、夢と現実の境目が曖昧になる場合もあります」
「幻覚とか、幻聴みたいなものですか」
「そう単純に決めつける必要はありません。ただ、危険な状態を経験した方が、とても鮮明な夢や、臨死体験に似た感覚を語ることはあります。体験が本物に感じられたことと、あなたが壊れていることは、同じ意味ではありません」
その言い方に、Sは少しだけ救われた。
医師は、Sの話を肯定したわけではない。山も、白いものも、夢の中にいたもう一人の自分も、実在したとは言っていない。
それでも、最初から嘘や異常として片づけなかった。
「こういう夢は、今までにもありましたか」
その問いに、Sは一度だけ息を詰めた。
濡れた畳。無縁堂。死体の傘。ノートに残された文字。夜の廃村。自室の扉の向こうにいた影。
ほとんど毎日のように、何かを見てきた。
だが、全てを話したところで、医師に理解できるとは思えない。理解されたとしても、それが自分にとって良いことなのかは分からなかった。
「……ここまで鮮明なのは、初めてです」
Sは嘘をついた。
医師は頷いた。
「今は身体を回復させるのが先です。眠れないほど怖い、同じものが何度も続く、起きている時にも感覚が残るといったことがあれば、隠さずに教えてください。必要なら、こちらで心の面も含めて一緒に考えます」
「分かりました」
Sは、もう少しだけ話そうと思った。
過去のことを。自分が誰かを恨み続けていることを。悪夢が、ただ恐ろしいだけではなく、自分のしたことや、しなかったことに触れてくるように思えることを。
だが、言葉にはならなかった。
人を簡単に信用してきた結果が、今の自分なのだと思った。
相手が少し寄り添ってくれたからといって、そこへ自分の一番見せたくないものまで差し出していい理由にはならない。
医師が病室を出たあと、Sは枕元に置かれたスマートフォンを手に取った。
画面には、大学や職場からの通知が溜まっていた。
必要な連絡は、家族がしているのかもしれない。休学の手続きや、職場への長期休暇の申請も、さすがに病床の自分が今すぐ処理することではないだろう。
そう考えても、気持ちは少しも楽にならなかった。
警察は、いつかまた来る。
部屋の中も調べられるだろう。ノートも、スマートフォンも、薬も。もし自傷や薬物の可能性を疑われているのなら、ここに長くいればいるほど、自分が何かの枠へ押し込められていく気がした。
早く退院したかった。
あの部屋へ戻ることが恐ろしいはずなのに、それでも病院に閉じ込められているよりはましだと思った。
Hのことを考える余裕は、もうなかった。
いや、考えようとしても、うまく考えられなかった。
自分がこんな窮地にいることを、Hは知らない。知らせてもいない相手に、助けを求める資格があるわけでもない。
何も知らず、何も助けてくれない存在に、いったい何を縋れというのか。
Sは傷口のあたりをそっと押さえ、俯いた。
◇
夕食のあと、看護師が薬を持ってきた時、Sは面会について尋ねた。
「すみません」
「はい」
「当面、面会は断ってもらえませんか」
看護師は手にしたトレーを見下ろし、それからSを見た。
「ご家族の方も、ということでしょうか」
「全員です」
少し間を置いて、Sは続けた。
「ただ、Hと名乗る人だけは通してください」
「Hさん、ですね。ご親族の方ですか」
「違います。もし来たら、それだけで分かると思います」
看護師は困ったように眉を下げたが、余計なことは聞かなかった。
「承知しました。担当医にも確認して、できるだけそのように対応します。ただ、警察の方からの面会や確認については、こちらだけではお断りできない場合もあります」
「それは、分かっています」
「ご家族には、面会を断っている理由をお伝えしますか」
「理由は言わないでほしいです。H以外の面会を断っていることも、周りには言わないでください。深く聞かないでほしいです」
看護師は、今度はすぐに頷いた。
「分かりました。お気持ちは担当医と共有します。今は、できるだけ静かに過ごせるようにしますね」
その言葉を聞いて、Sはかすかに頭を下げた。
Hへ連絡をするつもりはなかった。
来るかどうかも分からない。
それでも、誰にも会いたくないと決めた時、Hだけは完全に閉め出せなかった。その理由を、自分でも考えたくはなかった。
病院という場所は、とにかくすることがなかった。
窓の外の景色は変わらない。点滴が終われば看護師が来る。食事が運ばれ、薬が運ばれ、体温や血圧を測られる。昼と夜の境目さえ、カーテンの隙間から入る光でしか分からない。
何も起こらない時間が長く続くほど、Sの頭の中には余計なものばかりが浮かんだ。
病室の外を、足音が通る。
誰かが何かを落とす。
遠くで小さな声がする。
その一つ一つへ、意味があるように思えてしまう。
深夜に病棟を歩き回る人間がいる理由を、Sは少しだけ理解した気がした。
徘徊など趣味ではない。
ただ、何もすることのない場所で孤独と虚無に押し潰されそうになると、誰かの気配があるだけで、立ち上がりたくなるのだろう。誰かに構ってほしいという感情は、あまりにも無情だった。
消灯は早かった。
夜になっても眠れなかったSへ、看護師は処方された睡眠薬と鎮痛剤、それから不安を和らげるための薬を持ってきた。
小さな紙コップの水で、それらを飲み下す。
喉を通った薬が、身体の内側へ沈んでいく感覚がした。
Sは目を閉じた。
頼むから、身体を拘束されるような精神病棟へ入れられることだけは御免被りたい。
夢の中で自分を刺した、もう一人のSも怖かった。
それでも、薬が効き始めると、意識はゆっくりと遠のいていった。
◇
気がつくと、Sはトンネルの前に立っていた。
見渡す限り、山だった。
昨夜、車で走っていた山道とよく似ている。傾いた墓標も、道端の壊れた地蔵も見当たらないのに、土の匂いと、湿った木々の色だけで分かった。
ここは続きだ。
今まで、同じ内容の夢を二度見たことはなかった。
どれだけ不快な夢でも、目を覚ませば別のものになる。断片だけが現実へ残ることはあっても、夢の中の場所へ戻されることはなかった。
なのに、Sは昨夜の山へ戻ってきていた。
目の前には、古びたトンネルがあった。
入口の半分は、赤茶けた煉瓦で雑に塞がれている。煉瓦の隙間には黒い苔が詰まり、上の方には乾いた蔓が絡みついていた。人が無理をすれば通れそうな隙間だけが、中央に残されている。
見覚えのある景色だった。
インターネットで何度も画像を見た、旧犬鳴トンネルに酷似している。もっとも、これはあの場所そのものではないのかもしれない。入口の形も、周囲の山も、記憶の中の写真とは微妙に違っている。
似ているだけだ。
だからといって、中へ入る理由にはならない。
怖いもの見たさで、封鎖されたトンネルの隙間を通るような愚か者では、Sはなかった。
すぐに引き返そうとした。
その瞬間、背後で地面が鳴った。
低い唸りが山の奥から近づき、次の瞬間には、頭上の木々がまとめて揺れた。
落石だった。
石と土が道へ崩れ落ち、太い倒木がその上へ重なる。わずか数秒の出来事だった。土煙が落ち着いた時には、Sが来たはずの道は完全に塞がれていた。
Sはしばらく、その場を動けなかった。
振り返った木々が、こちらを凝視しているように見えた。
幹の節が目に見える。剥がれた樹皮が口に見える。風はないのに、葉だけが一斉に細かく震えていた。
また、閉じ込められた。
日に日に悪夢の質が上がっているように思えた。
それは、自分が日に日に悪いことをしているからなのか。
Sはすぐに、その考えを否定した。
そんなわけがない。
夢が罰を与えるほど、自分は何かをしているのか。そもそも誰が、何を基準に罰を与えるというのか。
もしこの夢を見せている存在がいるのなら、その存在へ強い憎悪を抱いた。
ただ、トンネルへ入る勇気だけは持ち合わせていなかった。
Sは入口の前に腰を下ろした。
現実で目を覚ますまで、ここで待つつもりだった。
夢の中では、眠気も空腹も訪れなかった。
周囲には、ヒグラシの鳴き声だけが続いていた。
カナカナカナ、と、暗い山に似合わないほど澄んだ声だった。昼になっても、夜になっても、鳴き方は一つも変わらない。Sは何度もスマートフォンを確かめた。
画面はついた。
時刻も進んでいた。
最初に確認した時から、二十四時間が経過していた。
しかし、目を覚ます気配はなかった。
Sはトンネルを見上げた。
これは、ただの夢ではない。
何かをしなければ終わらない。選択肢を選ばなければ先へ進まない、悪趣味なゲームのイベントのように、ここには始まりと終わりが用意されている。
物語性がある。
そう認識したこと自体が、Sには気味悪かった。
自分の頭が勝手に作った夢なら、なぜ自分をこんな場所へ閉じ込めるのか。誰かの作った物語なら、誰が読んでいるのか。
Sは立ち上がった。
煉瓦の隙間へ身体を横にして入る。
服が湿った苔に触れ、肩が煉瓦の角へ擦れた。通り抜ける直前、背後で再び石が転がる音がした。
もう、戻る道はないのだと分かった。
◇
トンネルの中は、外よりも明るかった。
天井に一定の間隔で並ぶ小さな灯りが、青白く足元を照らしている。電灯というより、古い非常灯に近い光だった。壁は濡れており、細い水が何本も地面へ落ちている。
ぽた、ぽた、と水滴が落ちる音が、やけに大きく響いていた。
Sは、入口の方を見た。
煉瓦の隙間は、もう見えなかった。
背後には、濡れた壁だけが続いている。
前へ進むしかなかった。
しばらく歩くと、壁に古い掲示棚のようなものが埋め込まれていることに気づいた。
曇った硝子で覆われた、細長い箱だった。
最初の箱の中には、片方だけの上履きが入っていた。泥で汚れた白い上履きの甲には、油性ペンで何かが書かれている。近づいても、名前の部分だけは黒く滲んで読めなかった。
次の箱には、錆びた鍵が一本。
その次には、ひび割れた眼鏡。
さらにその先には、電源の入らない携帯電話。
どれも、誰かが落とした忘れ物のように見えた。
箱の下には、それぞれ小さな札がついている。
返却先未定。
Sは足を止めた。
その時、トンネルの奥で、機械的な音が鳴った。
古い館内放送が入る時の、短い電子音だった。
そして、女の声が聞こえた。
『お帰りの方に、ご案内申し上げます』
Sの背中が強張った。
聞き覚えがあった。
デパートでも、ホテルでも、図書館でも、廃村でも聞いた声だ。
丁寧で、抑揚がなく、どこにでもあるはずの案内放送の声。
『当通路は、お帰りになる方のお忘れ物をお預かりしております』
水滴の音が止まった。
『外へ出られる方は、持ち帰らないものを一つ、お選びください』
Sは、壁の箱を見た。
上履き。鍵。眼鏡。携帯電話。
どれも知らない物のはずだった。
何を置いていけというのか、意味が分からなかった。自分は何も持っていない。持ってきたものといえば、服とスマートフォンくらいだ。
仮に何かを置けば、この通路から出られるのだとしても、得体の知れない場所へ自分の物を預ける気にはなれなかった。
Sは返事をせず、奥へ歩き出した。
『未申告の方は、お進みいただけません』
女の声が、背後から聞こえた。
Sは足を止めなかった。
数分ほど歩いたはずだった。
だが、壁の箱は途切れず、出口らしいものも見えてこない。同じ青白い灯りと、濡れたコンクリートだけが、どこまでも続いている。
やがて、Sは一つの箱の前で動けなくなった。
中に入っていたのは、白い病院用のリストバンドだった。
透明な留め具で輪になっている。そこには、黒い印字で患者番号と生年月日らしき数字が並び、その一番下に、Sの名字だけが記されていた。
自分が今、病院でつけているものと同じだった。
Sは反射的に左手首を見た。
病院のリストバンドは、そこになかった。
夢の中にいるのだから、なくて当然だと思った。
それでも、箱の中にあるものが自分の名前を持っていることは、妙に現実味があった。
札には、さっきまでなかった文字が増えている。
返却先未定。
預かり品――氏名。
Sは硝子から一歩離れた。
『お忘れ物を確認しました』
女の声が言った。
『お名前を、お返しいたします』
「何のことだよ」
声に出した瞬間、トンネルの灯りが一つだけ消えた。
背後が暗くなった。
Sは振り返った。
さっきまで上履きや鍵が入っていた箱の中で、何かが動いている。
上履きの中から、細い指が伸びていた。
眼鏡の奥で、見えないはずのまぶたが瞬いた。
携帯電話の黒い画面が膨らみ、内側から誰かの顔が硝子へ押しつけられる。
それらは叫ばなかった。
ただ、口だけを開いていた。
カナ、カナ、カナ。
ヒグラシの鳴き声が、壁の中から聞こえた。
Sは走った。
自分の名前が、あの箱に預けられている。
何を意味するのかは分からない。ただ、このまま立ち止まっていれば、自分まであの棚の中へ入れられるような気がした。
青白い灯りが、頭上でひとつずつ消えていく。
背後から闇が追ってくるのではない。灯りが消えた場所から、誰かが歩いてくる足音だけが聞こえる。
濡れた足で、ゆっくりと。
ぺたり、ぺたり、と。
Sは息を切らしながら走り続けた。
すると、突然、トンネルが途切れた。
行き止まりには、白い扉が一枚だけあった。
病室の扉のように、中央に細い硝子窓がついている。
扉の横には、古い呼び出しボタンと、小さなプレートがあった。
プレートには、こう書かれていた。
帰還者確認室。
Sは、呼び出しボタンに触れた。
押していない。
それでも、ボタンの奥から電子音が鳴った。
ピッ、ピッ、ピッ、と。
病院で聞いたものと同じ音だった。
硝子窓の向こうに、白いベッドが見えた。
その上で、誰かが眠っている。
顔までは見えない。だが、腹部に白い布がかかり、左手には点滴の管が繋がれていた。
Sは扉へ近づいた。
眠っているのは、自分だった。
そのベッドの脇に、もう一人のSが立っていた。
黒い服ではなかった。病院の薄い寝衣を着ている。目の下だけが深く暗く、顔色は死人のように白かった。
もう一人のSは、硝子越しにこちらを見た。
そして、唇へ人差し指を当てた。
静かにしろ、というように。
『確認ができません』
女の声が、すぐ耳元で聞こえた。
『帰還を希望される方は、お名前をお申し出ください』
Sは扉の前で固まった。
自分の名前を言えばいいだけだった。
それだけで、病室へ戻れるのかもしれない。
しかし、声が出なかった。
自分の名字も、下の名前も、口の中で形にならない。思い出せないわけではない。知っているのに、それが自分のものではないような感覚だけがあった。
さっき、壁の箱にあった。
あれはもう、自分の手元にはないのかもしれない。
背後の足音が、止まった。
気配が、すぐ後ろに立った。
「おまえが帰ったら、あっちは空く」
低い声だった。
もう一人のSの声ではなかった。
父の声にも、警察官の声にも、医師の声にも似ていた。
Sは振り返った。
トンネルの闇の中に、無数の箱が並んでいた。
硝子の向こうから、何人もの顔がこちらを見ている。
その全ての口が、Sの名前を呼ぼうとしていた。
けれど、声は一つも出なかった。
◇
目を開けると、病室には朝の日差しが差し込んでいた。
清々しいほど強い光が、白い壁とシーツを照らしている。
Sは、それが現実の朝だと認識するまで、一分ほどかかった。
自分の手。点滴。腹部の痛み。窓の外を走る車の音。
ひとつずつ確かめても、自我はうまく戻ってこなかった。
考えることに、疲れ切っていた。
やがて看護師が病室へ入ってきた。
「おはようございます。よく眠れましたか」
Sは答えなかった。
看護師は体温計を差し出し、もう一度だけ柔らかく尋ねた。
「何か、嫌な夢でも見られましたか」
Sは窓の方を見ていた。
換気のために少しだけ開いた窓の隙間から、どこか遠くでヒグラシが鳴いているような気がした。
カナ、カナ、カナ。
季節は、もう夏ではなかった。
それでも終始、Sが口を開くことはなかった。
第十八章『隧道』をお読みいただき、ありがとうございます。
今回は、救急搬送後のSが、自分に何が起きたのかを整理しようとする回になりました。病院での時間と、眠りの中で見たものが、Sに何を残すのかも少しずつ描いていければと思います。
次回もよろしくお願いいたします。




