第八章 『精神病棟』
Sは、眠ることが怖くなっていた。
目を閉じるたび、どこかで濡れた畳が軋んだ。顔の見えない誰かが、すぐ耳元で名前を呼んだ。首元に触れる冷たい指や、足元から這い上がってくる黒い感触が、朝になっても肌の上に残っている気がした。
たまには、いい夢を見てもいいはずだった。
昔の友人と笑っている夢でもいい。何の変哲もない道を歩いて、何事もなく目を覚ますだけでもよかった。
Sは、夢の中で幸せになりたいわけではなかった。
ただ、起きたあとまで自分の身体が夢に捕まったままにならない夜がほしかった。
◇
大学が夏季休業に入ると、日中の連絡は急に減った。
同期の何人かは地元へ帰り、先輩たちも旅行や実家の予定を口にしていた。大学に行けば自然と埋まっていた時間が、夏休みに入った途端、広すぎる空白になった。
地元の友人も、まったくいないわけではない。
連絡先を見返せば、今でも会おうと思えば会える相手は十人ほどいた。ただ、その全員と深く関わっているわけではなかった。高校を出てから疎遠になった者もいる。会えば普通に話せるが、自分の夢のことまで打ち明ける相手ではない者もいた。
Sの今の人間関係は、大学の先輩や同期、高校時代の後輩、勤務先の人間に偏っていた。
大学へ通い、夜には介護施設で働く。
外から見れば、真面目で勤勉な学生に映るのかもしれない。予定を忘れず、頼まれたことはなるべく断らず、疲れていても笑って返事をする。
だが、その形を作っているのは、生活が充実しているからではなかった。
断れないだけだった。
誰かの機嫌を損ねないようにし、空気が悪くならないように言葉を選び、自分の都合は後回しにする。そうしているうちに、Sは自分が何に疲れているのかも、よく分からなくなっていた。
武道関係のつながりにも、気を遣う相手がいた。
何の武道かは、他人に話す気になれなかった。そこでは指導や上下関係の名目で、他人の人格にまで踏み込むような言葉が飛ぶことがあった。
S自身も、かつてはそういう言葉を使う側にいた。
厳しさだと思っていた。正しいことを言っているつもりだった。相手が黙ることを、納得したのだと都合よく受け取っていた。
けれど今は、自分が同じような言葉を受ける側になることがある。
短い一言でも、翌日まで頭の奥に残った。
眠れない理由など、一つではないのかもしれなかった。
夢のことも、過去のことも、人間関係のことも、胃のむかつきも。何が原因で、何が結果なのか、もうSには区別がつかなかった。
このままでは、日常生活にまで支障が出る。
起きているときに声が聞こえ始めてからでは遅い。見えてはいけないものが見え始めてからでは、もっと遅い。
そう考えて、Sは地元の友人の一人に、眠れていないことだけを送った。
返信は、思っていたより早かった。
《一回、病院に行ってみたら》
《内科でも心療内科でもええし。放っとく方がよくないやろ》
もっともだった。
Sはしばらく画面を見つめたあと、精神科と心療内科を標榜している病院を検索した。
◇
病院は、駅から少し離れた場所にあった。
建物の外壁は白かったが、長く雨に晒されたのか、ところどころ色がくすんでいた。入口の横にある案内板には、内科や整形外科と並んで、精神科・心療内科と書かれている。
その文字を見た時点で、Sは帰りたくなった。
受付を済ませ、待合室の端に座る。
長椅子の向かいには、紙コップを両手で抱えた男がいた。男は、誰もいない壁に向かって、ときどき頷いていた。少し離れた場所では、若い女が靴を脱いだり履いたりしながら、時計だけを睨んでいる。
何人かは俯いたまま、ほとんど動かなかった。
Sは、ひどく浅ましい考えが浮かぶのを止められなかった。
自分は、この人たちと同じものとして扱われるのだろうか。
そう思った直後、恥ずかしくなった。
勤務先では、支援を必要とする人たちと接している。うわべだけを見て、その人の中身まで決めつけてはいけないことくらい、分かっているつもりだった。
それでも、怖かった。
彼らが怖いのではなかった。
数日後の自分が、あの長椅子のどこかに座っているかもしれないと思ったことが、怖かった。
名前を呼ばれ、Sは診察室に入った。
医師は淡々と質問をした。
眠れているか。食欲はあるか。仕事は休めているか。気分が沈むことはあるか。自分を責めることはあるか。
Sは、答えられることだけを答えた。
夢については話さなかった。
眠ると、知らない場所に行くこと。
そこで見たものが、起きたあとも皮膚に残る気がすること。
夢の中のほうが、現実の自分をよく知っているように思えること。
そんなことを口にしたら、自分は本当にここへ預けられる側になる気がした。
医師は、Sの話を聞き終えてから、小さく頷いた。
「疲労が強くて、少し抑うつの傾向もありますね」
予想どおりだった。
「生活の中で、心の拠り所になるものを作った方がいいと思います。人に頼ることも必要ですし、もっと自分を解放してあげてもいい。今のままだと、ずっと気を張り続けることになります」
やはり、そう言われると思っていた。
誰かに相談しろ。好きなことをしろ。ストレスを発散しろ。
正しい言葉だった。
正しいからこそ、Sには何も返せなかった。
「必要なら、眠りを整える薬や、気分の沈みを軽くする薬も出せます」
医師の声は穏やかだった。
Sは少し迷ってから、首を横に振った。
「薬は……いったん、様子を見ます」
薬が悪いと思ったわけではない。
薬に助けられる人がいることも、Sは知っている。
ただ、自分の頭の中に錠剤が増えていくことが怖かった。何かを考えなくて済むようになったあとで、夢のほうだけが鮮明になったらどうすればいいのか、分からなかった。
結局、夢のことは最後まで話せなかった。
◇
帰宅したあとも、気分は晴れなかった。
診察を受けたのに、何も変わっていない気がした。
机の上に積んでいた文庫本を手に取る。途中まで読んで止めていた本だった。ページを開き、そこに書かれた他人の人生を追っている間だけ、Sは自分のことを考えずに済んだ。
本には、ちゃんと先があった。
頁をめくれば、物語は次へ進んでいく。
自分の人生にも、同じように次の頁があるのだとしたら、そこには何が書かれているのだろうと思った。
Sは本を閉じ、枕元に置いた。
今夜くらいは、何も見なければいい。
それだけを願って、目を閉じた。
◇
目を開けたとき、Sは最初、自室の天井を見ているのだと思った。
ただ、照明が低すぎた。
白い蛍光灯が、すぐ目の前にあった。冷たい光が視界を塗りつぶしている。
腕を動かそうとして、できなかった。
両手首が、白い拘束帯でベッドに固定されていた。胸元にも一本、足首にも一本。身体を起こそうとしても、少しも力が入らない。
鼻を刺す消毒液の匂い。
薄いカーテンの向こうから、誰かの咳が聞こえる。
壁際には点滴台があり、足元の名札には、黒い文字でSと書かれていた。
「起きられましたか」
声がした。
カーテンが静かに開く。
白い制服を着た人物が立っていた。看護師のように見えたが、顔の部分だけが妙に曖昧だった。透明な膜を一枚かぶせたように、目も鼻も、どこにあるのか分からない。
「ここは……どこですか」
「病棟です」
それだけを聞いて、Sの喉が詰まった。
「帰ります」
反射的にそう言った。
その人物は、何も表情を変えずに、ベッド脇の記録用紙を見下ろした。
「帰宅願望が強いですね」
「違う。俺は、そもそもこんな場所には来てない」
「ご自分で来られたことを、覚えていらっしゃらないのですね。記憶の欠落も、記録にあります」
記録用紙には、Sが口にした覚えのない文字が並んでいた。
――眠ると、あちらへ行く。
――起きても、夢が離れない。
――夢の方が、現実味がある。
「それ、誰が書いたんですか」
「私が書いた、あなたの記録です」
人物は、ごく自然な声で言った。
「先生には、もう伝わっています」
Sは拘束帯を引いた。
「外してくれ。俺は暴れてない」
「まだです」
その一言に、背中が冷たくなった。
カーテンの外で、どこかのナースコールが鳴り始めた。
ひとつだけではなかった。
病棟中の呼び出し音が、順番もなく、けたたましく鳴った。白い制服の人物は首を傾げ、ゆっくりとカーテンの外へ出ていく。
その瞬間、右手首の拘束帯が外れた。
金具が外れたのではない。
ベッドの下から、何かが帯を押し上げたように見えた。
Sは見なかった。
残る拘束帯を必死に外し、裸足のままベッドから転がり落ちた。
足の裏に、冷たい床の感触が張りついた。
病棟の廊下には誰もいなかった。
ナースステーションの机に並んだモニターには、いくつものベッドが映っている。そのどれにも、眠っているSの姿があった。
ひとつは、いま逃げ出したばかりのベッド。
ひとつは、自室の布団。
ひとつは、目を閉じたまま、口元に白い泡を浮かべていた。
Sは目を逸らし、廊下を走った。
「さっき、先生に言わなかったね」
すぐ後ろで、声がした。
振り返ると、病衣を着た男が立っていた。
男は廊下の真ん中で、首だけを不自然に傾けている。手首には、Sと書かれた名札が巻かれていた。
「言えばよかったのに」
男は笑った。
笑っているのに、口だけが動かなかった。
Sは走った。
背後で、裸足の足音が追ってくる。
廊下の角を曲がった瞬間、腕を掴まれた。
男の指は冷たかった。
振り払おうとしたSの手首に、舌が触れた。
ひどく長く、冷たい舌だった。
手の甲から指の間、腕の内側まで、何かを確かめるようにゆっくりと舐め上げられた。Sが叫んでも、男は笑いながら、今度は頬の汗に口を寄せた。
「まだ、外の匂いがする」
Sは男の肩を押し、どうにか身体を引き剥がした。
廊下の先は、照明が落ちていた。
暗闇へ近づくほど、病棟は病棟ではなくなっていった。
病室の引き戸が、少しずつ開いている。
その隙間から、手だけが伸びていた。
老いた手。子供の手。包帯の巻かれた手。爪のない手。
どの手も、指先を同じ方向へ向けていた。
暗闇の奥へ。
曲がり角には、人体模型が車椅子に座っていた。
透明な胸部の内側にあるはずの臓器はなく、代わりに何枚もの記録用紙が詰め込まれている。紙には、Sの名前と、見覚えのある出来事が細かく書かれていた。
Hの名前。
教師の声。
井戸の底の黒い水。
首を絞めた指の跡。
人体模型の頭部が、ゆっくりと持ち上がった。
胸の空洞から、昼間の医師の声が聞こえた。
「もっと、自分を自由にしてあげた方がいい」
次の瞬間、廊下の奥にある闇が、それに答えた。
「もっと自由に、出てきていい」
何人もの声が重なっていた。
Sは後ずさった。
足元の床が、いつの間にか古い木の廊下に変わっていた。さらに奥には、病棟にはあるはずのない札が、赤い文字で掛かっている。
――保護者控室。
その扉の隙間から、黒いものが溢れていた。
「いい夢を見たいんでしょう」
誰かが言った。
男の声でも、医師の声でもなかった。
「だったら、夢でなくなればいい」
黒いものの中から、いくつもの手が伸びてきた。
Sの足首を掴み、腕に絡み、首元へ触れる。
逃げなければならないのに、身体が動かなかった。
息ができない。
叫ぼうとしても、声が出ない。
そのまま視界が白くなっていく。
夢の中で気を失うなど、初めてだった。
Sは、何も分からなくなった。
◇
朝、Sは自分の叫び声で目を覚ました。
身体中が汗で濡れていた。
枕元のシーツには、唾液が乾いたような白い跡が残っている。泡を吹いていたのではないかと思ったが、確かめる方法はなかった。
両手首が痛んだ。
見れば、拘束帯の跡のような赤い線が、薄く残っていた。
Sはしばらく、それを見つめた。
夢だ。
夢だった。
そう言い聞かせても、昨夜の舌の冷たさだけが、手首に残っている気がした。
枕元に置いたはずの文庫本は、床に落ちていた。
その間には、昨日病院でもらった診察券が挟まっている。
Sはそれを取り出し、裏返した。
白い余白に、見覚えのない青い文字が書かれていた。
――次回は、病棟でお待ちしています。
Sは、その紙を破れなかった。
破れば、誰かに説明を求めなければならなくなる気がした。
朝の光が部屋に入っても、病棟の呼び出しベルは、耳の奥で鳴り続けていた。
第八章「精神病棟」を読んでいただき、ありがとうございます。
眠ることそのものが怖くなっていくSの姿を書きました。夢の中で起きていたはずのことが、少しずつ日常の側へ滲み出してくる。その境目が曖昧になるほど、人は何を信じればいいのか分からなくなるのかもしれません。
Sが抱えているものが何なのか、そして過去がどのように今へ繋がっているのか。今後も静かに追っていただければ幸いです。
ブックマーク、評価、感想も励みになります。
今後とも『匿S氏・カルマ連鎖』をよろしくお願いいたします。




