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匿S氏・カルマ連鎖  作者: 杉田健壱楼
第一部 生活の摩耗
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第七章 『狐の間』

 悪夢を見る夜が増えた。


 一度きりではなかった。眠ったこと自体を忘れてしまうような夜もあれば、目を覚ました後まで、夢の中の匂いや温度だけが残る朝もあった。


 濡れた畳の匂い。


 古い木の廊下を、誰かが裸足で歩く音。


 顔の見えない相手に、何度も名前を呼ばれる声。


 内容は、起きてから少しすると抜け落ちた。思い出そうとすればするほど、別の記憶が混じる。中学生の頃の教室だったり、施設の薄暗い廊下だったり、まだ行ったことのないはずの場所だったりした。


 ただ、眠るたびに何かを削られているような感覚だけは、消えなかった。


 最近は、胃の調子も悪かった。


 食後になると、みぞおちの奥に小さな石を押し込まれたような重さが残る。空腹でも気持ちが悪く、食べても気持ちが悪い。朝、口に入れた味噌汁の湯気だけで、喉の奥がひっくり返りそうになることもあった。


 前日、実家に届いていた荷物を受け取るために帰っていた。その翌朝だった。


「また残すんか」


 食卓の向かいから、母が言った。


 Sは箸を置いたまま、首を横に振る。


「あとで食べる」

「夜勤もあるんやろ。そんなんで持つんか」

「持つ」

「自分で無理な予定ばっかり入れるからや。しんどいんやったら、ちゃんと考えなさい」


 心配しているようにも聞こえた。


 けれどSには、責められているだけに聞こえた。


 Hのことがあった時も、似たような声だった。何が起きたのかより、面倒なことにならないかを先に確かめる声。Sが何を怖がっていたのか、誰に追い詰められていたのかは、最後までまともに聞かれなかった。


 今さら体調を案じるような言葉を向けられても、素直に受け取ることはできなかった。


 親として一番先に果たすべきものを、あの人たちは都合の悪い時に手放したのだと、Sは思っていた。


 もちろん、口には出さなかった。


 この家では、言葉を増やすほど、自分だけが悪いことになっていく気がした。


     ◇


 昼過ぎの講義を終え、Sが大学の建物を出ようとした時だった。


「S、今から少しだけ時間ある?」


 後ろから、先輩に呼び止められた。


 振り返ると、数人の先輩が階段の脇に立っていた。誰も悪意があるわけではない。むしろ、いつもSを気にかけてくれる人たちだった。


「飯でも行こうと思って。来る?」


 Sは一瞬だけ、駅の時刻表を思い浮かべた。


 このあと夜勤がある。家へ寄る時間はほとんどない。胃もまだ重い。断ればいいだけの話だった。


 それでも、すぐには言えなかった。


「夜勤なんで、長くは無理ですけど」

「一時間くらいでええって。社会人みたいやな、お前」


 先輩が笑った。


 Sも笑った。


 駅近くの店は、夕方前だというのに人が多かった。油の匂いと、湿った空調の風が混じっている。Sは冷たい水を何度も飲み、注文したうどんにはほとんど手をつけなかった。


「最近、顔色悪ない?」

「寝不足です」

「仕事、無理しすぎなんちゃう」

「まあ、夜勤明けはだいたい死んでます」


 適当に返すと、皆がまた笑った。


 話している内容そのものは、嫌ではなかった。講義のこと。後輩のこと。次の集まりのこと。誰かが失敗した話。誰かが最近付き合い始めたという話。


 Sはそのたびに、相槌を打ち、笑う場所を選び、相手の話が途切れないように短い言葉を挟んだ。


 それができないわけではない。


 できるからこそ、終わった後にひどく疲れた。


 悪い人たちではない。だから、逃げたいと思う自分の方が悪いような気がした。


「そろそろ行きます」


 Sが立ち上がると、先輩の一人が「気ぃつけてな」と言った。


 その言葉だけが、妙に長く耳に残った。


     ◇


 施設に着く頃には、空はもう暗くなっていた。


 夜勤の引き継ぎを受け、記録を確認し、食事や服薬の様子を見て回る。いつもと同じ流れだった。いつもと同じであることを、Sは少しだけありがたいと思った。


 夜勤は、静かな時間が長い。


 眠れない人の話を聞くこともある。トイレへ行く足音に気づき、転ばないように見守ることもある。何も起きないまま朝を迎えられれば、それでいい。


 その夜も、日付が変わるまではそうだった。


 最初に聞こえたのは、共用スペースの椅子を引く音だった。


 続いて、低い声がした。


「返して」


 Sが廊下へ出ると、二人の利用者が向かい合っていた。


 一人が、もう一人の部屋の前に立っている。手には、青いタオルが握られていた。どこにでもあるような、少し色の褪せたタオルだった。


「それ、俺のやろ」

「知らん。私勝手に取ってへん」

「さっき、お前のは部屋にあったやん」

「あったから何や。私のちゃうって、証拠あんのか」


 互いの声は、少しずつ大きくなっていった。


 発端は、夕方に洗濯物を干す場所を間違えたことだった。誰かが似た色のタオルを別の籠へ入れ、そのまま片方の部屋に置かれたらしい。けれど、そこに至るまでの話を説明しても、もう二人には届かなかった。


「一回、離れましょう」


 Sは二人の間に入った。


「誰のものかは確認します。今は、部屋に入ろうとせんといてください」

「でも、こいつが」


「取ってない」


 その言葉だけが、何度も繰り返された。


 取ってない。


 自分じゃない。


 知らない。


 Sは一人ずつ話を聞いた。いつ、どこで見たのか。誰がいたのか。タオルに名前はあったのか。話は途中で何度も食い違い、二人とも、自分が責められていることだけには敏感だった。


 やがて片方が苛立ったようにドアを叩いた。


 もう一人が押し返した。


 大きな音がして、廊下の壁に掛けられた時計が揺れた。


 Sはすぐに間へ入った。何度か深く息を吸わせ、別々の場所へ移ってもらった。落ち着くまでそばに座り、同じ説明を繰り返した。


 誰か一人が、悪いわけではなかった。


 けれど、その場では、誰かを悪いことにしなければ終わらないような空気があった。


 Sの胃が、内側から強く掴まれた。


 夜が明ける頃には、二人ともひとまず眠っていた。


 その後も、Sは記録を書き続けた。いつから何が起きたのか。どちらが何と言ったのか。職員がどう対応したのか。読み返した時に誤解がないよう、余計な言葉を削り、必要な言葉だけを残していく。


 けれど、どれだけ正確に書いても、その場にいた者の気持ちまでは残らない。


 朝の引き継ぎが終わった時には、予定よりかなり遅い時間になっていた。


「ごめんな。長引いたな」


 交代の職員にそう言われ、Sは首を横に振った。


「大丈夫です」


 大丈夫ではなかった。


 それでも、そう答える以外の言葉が見つからなかった。


     ◇


 帰宅すると、家の中は静かだった。


 スマートフォンには、母から短い通知が一件だけ来ていた。


〈何か食べられそうなら、食べなさい〉


 Sは画面を閉じた。


 冷蔵庫を開ける気にはなれなかった。水だけを飲み、服もきちんと脱がないままベッドに横になる。


 目を閉じると、先輩たちの笑い声と、夜中の言い争いが、別々の場所から聞こえてきた。


 返して。


 取ってない。


 大丈夫です。


 言葉が頭の中で重なり、いつの間にか、誰の声だったのか分からなくなった。


     ◇


 気がつくと、Sは旅館の廊下に立っていた。


 畳と、古い洗剤の匂いがした。


 窓の外は暗かった。遠くで海が鳴っている。壁には、淡路島の観光地を写した色褪せたポスターが貼られ、その下に土産物の案内板があった。


 見覚えがあった。


 中学生の時の修学旅行で泊まった旅館だった。


 大広間で夕食を食べた。夜、部屋の布団の上で騒ぎ、教師に何度か注意された。朝は海の見える窓から、皆で外を覗いた。


 そういう記憶が、断片的に残っている。


 Sは自分の身体を見下ろした。


 制服を着ていた。


 袖は短く、肩のあたりが窮屈(きゅうくつ)だった。胸元には、当時使っていた名札が付いている。指は今より細く、手の甲には、まだ何の傷もなかった。


「S」


 廊下の向こうから、男の声がした。


 教師だった。


 顔を見れば分かるはずなのに、Sは誰なのか思い出せなかった。声だけが、何人かの教師のものと重なって聞こえる。


「ちょっと来い」

「なんですか」

「何をしたか、分かってるやろ」


 Sは眉をひそめた。


「分かりません」

「しらばっくれるな」


 教師は、少しも声を荒げなかった。


 その静かな言い方の方が、Sには嫌だった。


「もう、みんなから聞いてる」

「だから、何のことですか」

「お前がやったんやろ」

「俺、何もしてません」


 教師は答えなかった。


 何をしたことになっているのかさえ、教えようとしない。Sの足元へ、名前のない罪だけを置き、それを自分で拾えと言っているようだった。


 腹の奥が冷たくなった。


 過去に一度も、後ろ暗いことをしてこなかったわけではない。思い返したくないこともある。今なら謝るしかないこともある。


 けれど、今この場で言われていることについては、Sは何もしていない。


 それだけは、本当だった。


「俺ちゃいます」


 Sはもう一度言った。


「何を言われてるかも分からんけど、俺はやってない」

「お前は、そういうことをする」


 教師が言った。


 その言葉に、Sの息が止まった。


「……は?」


「人に迷惑をかける。後から言い訳をする。先生は、そういうのを何人も見てきた」

「俺のことなんも知らんくせに」


「知ってるから言ってる」


 教師の手が、Sの肩を掴んだ。


 指が食い込む。


 Sは反射的に、その手を振り払った。


「触んな」


 言った瞬間、教師の目が細くなった。


「ほらな」


 その一言で、何かが決まってしまった気がした。


 Sは踵を返した。


「待て」


 背後で、教師の声がした。


「逃げるんか」


 Sは走った。


     ◇


 最初のうちは、まだ知っている旅館の廊下だった。


 赤い絨毯。客室の番号。壁際に並んだ観葉植物。大浴場へ向かう矢印。


 けれど、曲がり角を一つ越えるたびに、何かが増えていった。


 廊下の隅に、古い行灯が置かれている。


 閉じた客室の前に、白い狐の面が一つずつ伏せられている。


 半開きの襖の向こうには、見知らぬ和服姿の人影が座っていた。全員、壁の方を向いている。誰も動かない。誰も声を出さない。


 狐の面には、赤い線で細い目と口が描かれていた。


 目の穴だけが、ひどく黒かった。


 Sは足を止めずに走った。


 後ろから、教師の靴音が追ってくる。


 こつ、こつ、こつ。


 だが、その音はいつの間にか、硬い靴音ではなくなっていた。


 畳の上を、何かが四つ足で擦るような音だった。


 次の角を曲がった時、廊下は途切れていた。


 行き止まりではない。


 そこから先だけ、見覚えのない古い屋敷の廊下になっていた。


 天井は低く、壁は(すす)けている。客室の札は消え、代わりに細い木札が下がっていた。どの木札にも、黒い墨で同じ文字が書かれている。


 狐の間。


 狐の間。


 狐の間。


 さっきまで旅館の客室だった場所が、すべて同じ名前の部屋に変わっていた。


 廊下の奥には、小さな赤い鳥居が立っている。


 建物の中にあるはずがないのに、その向こうには夜の森が見えた。雨に濡れた木々の間で、いくつもの白いものが揺れている。


 Sは、そこでようやく止まった。


 これ以上、進んではいけないと思った。


 背後の音も、いつの間にか消えていた。


 振り返る。


 教師はいなかった。


 代わりに、さっきまで閉じていた襖が、すべて少しだけ開いていた。


 暗い隙間の中に、狐の面が並んでいる。


 一つや二つではない。


 部屋ごとに、何十枚も。


 白い面。黒い面。金色の面。片方の耳が欠けた面。口元だけ赤く塗られた面。


 どの面も、Sの方を向いていた。


「お客様」


 女の声がした。


 旅館の仲居のような、丁寧な声だった。


 Sは動けなかった。


「お連れ様がお待ちです」

「……誰ですか」

「H様のことも、保護者様とお話しいただきます」


 その言葉を聞いた瞬間、胃の奥が激しく縮んだ。


 Sは、目の前の襖を見た。


 いつの間にか、その一枚だけに札が掛かっていた。


 保護者控室。


 そんな部屋が、この旅館にあったはずがない。


「……今さら、何を話すんですか」


 返事はなかった。


 (ふすま)が、ひとりでに開いた。


 部屋の中央に低い卓があり、その向こうに三人分の座布団が置かれていた。


 座布団の上には、それぞれ狐の面が乗っている。


 大きな白い面が二つ。


 その間に、小さな面が一つ。


 小さな面の耳には、黒い汚れが付いていた。


「私たちは、ちゃんと見ていた」


 どこからか、声がした。


 母の声に似ていた。


「ちゃんと、してきた」


 今度は、父の声に似ていた。


 Sの喉が震えた。


「嘘や」


 声は小さかった。


 それでも、部屋じゅうの狐の面が、その言葉を聞いたように見えた。


「Hのことも、聞いたやろ」


 Sは言った。


「何も、ちゃんと聞いてへんやろ」


 返事の代わりに、廊下のあちこちから笑い声がした。


 子供の笑い声。


 教師たちの笑い声。


 大学でさっきまで聞いていた、先輩たちの笑い声。


 全部が混ざり、どこかで誰かが咳き込んだ。


「先生の話を聞きなさい」


 背後で、教師の声がした。


 Sは振り返れなかった。


「大人が決めたことに、子供が口を出すな」

「俺は、何もしてない」


 Sは言った。


 今度は、はっきりと。


「これは、俺じゃない」


 胃がひっくり返るように痛んだ。


 Sはその場に膝をついた。口の中へ、酸っぱい唾液が一気に上がってくる。畳に手をつくと、指先が濡れた。


 水ではなかった。


 何かの毛だった。


 白く短い毛が、畳の目から何本も生えている。


 それはゆっくりと増え、Sの手の甲へ触れた。


 その感触に、背筋が粟立った。


 (ふすま)の隙間にあった狐の面が、同時に口を開いた。


 描かれたはずの赤い線の下に、濡れた唇があった。


「誰が、それを決めるん」


 何十もの声が、同じ言葉を言った。


「誰が、お前を信じるん」


 Sは首を振った。


 けれど、身体は動かなかった。


 首筋に、冷たいものが触れた。


 柔らかく、細い指だった。


 後ろから、誰かがSの喉を撫でている。


 触れているだけなのに、息が吸えなくなった。


 Sは自分の首を掴んだ。


 指の下で、脈が速く跳ねている。そのすぐそばに、もう一組の指が重なっていた。


 Sは振りほどこうとした。


 だが、狐の面の一つが、畳の上を音もなく滑ってきた。


 白い面が、目の前で止まる。


 目の穴の向こうにあったのは、暗闇ではなかった。


 そこには、S自身の目があった。


「お前は、いつも言うな」


 面の口が動いた。


「俺はやってない、って」


 その瞬間、喉へ食い込んでいた指に力が入った。


     ◇


 Sは、息を詰まらせて目を覚ました。


 部屋は薄暗かった。


 夕方の光が、カーテンの隙間から細く差し込んでいる。


 両手が、自分の首を掴んでいた。


 慌てて手を離すと、掌は汗で濡れていた。喉の奥には、胃液のような酸っぱい味が残っている。噛みしめていたのか、口の内側が少し切れていた。


 スマートフォンを見ると、午後六時四十七分だった。


 眠っていたのは数時間のはずなのに、何日も眠っていなかったように身体が重い。


 Sはベッドから降り、洗面所へ向かった。


 鏡を見ると、首には前から残っていた五本の赤い跡があった。


 そのすぐ下に、新しい細い傷が並んでいる。


 爪で掻いた跡ではない。


 細く、短い毛の束で擦られたような、赤い線だった。


 Sは蛇口をひねった。


 何度もうがいをした。


 水を吐き出しても、口の中から潮の匂いが消えなかった。


 ふと、廊下の奥で音がした。


 畳の上を、何かがゆっくり擦るような音だった。


 この家に、畳はない。


 Sは顔を上げず、蛇口を握ったまま動けなかった。

第七章をお読みいただき、ありがとうございました。


日常の中にある疲弊や、言葉にできない過去が、少しずつSの内側に溜まっていく章になったと思います。逃げているつもりでも、眠りの中まで逃げ切れるとは限らないのかもしれません。


これからも、Sが何を見て、何から目を逸らしていくのかを、静かに追っていただければ幸いです。


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