第六章 『てるてる坊主』
その日、朝から雨が降っていた。
Sは、目覚ましが鳴る少し前に目を覚ました。窓を細かく叩く音が、部屋の中まで入り込んでいる。昨夜はいつ眠ったのか、よく覚えていない。布団の中にいた時間だけが、頭から切り離されている。
寝返りを打とうとして、足首のあたりに妙なむずがゆさを感じた。
虫に刺されたのかと思った。だが、見ても何もない。肌は少し赤くなっているだけで、腫れも、傷も見当たらなかった。
Sは足首を一度だけ掻いた。
指先に残った感触が、妙に湿っていた。
◇
午前中の活動は、雨のため予定を変えることになった。
施設の食堂には、色紙やティッシュペーパー、輪ゴムが広げられていた。窓際のテーブルでは、利用者たちが白い紙を丸め、思い思いに紐を結んでいる。
「明日、晴れたらええのにな」
先輩職員が、窓の外を見ながら言った。
翌日は近所の公園へ散歩に出る予定だった。雨が続けば中止になる。誰かが「てるてる坊主を作ろう」と言い出し、いつの間にか工作の時間になっていた。
Sも、白いティッシュを二枚受け取った。
丸めた紙を包み、首のあたりを輪ゴムで留める。単純な形だった。頭と胴体を分けるだけで、人のようなものになる。
「Sさん、それ首締めてるみたいやな」
向かいに座っていた男性が、手元を見て言った。
冗談を言う時の、少しだけ笑った顔だった。
「確かに。もうちょっと優しく結びます」
Sはそう答え、輪ゴムを少し緩めた。
その時、隣で別の職員が笑った。
「てるてる坊主って、首を落とされた坊主の話が由来や、って説もあるらしいですよ」
誰に向けた話でもない口調だった。
「雨を止ませるって約束した坊主がおってな。約束どおり晴れへんかったから、首を切られて、白い布に包まれて吊るされたんやって」
「怖いこと言わんといてくださいよ」
別の職員が苦笑した。
「昔話みたいなもんです。ほんまの由来かどうかは知らんけど」
食堂には、いつものような笑いがあった。
紙を丸める音。色紙を切る音。誰かが飲み物をこぼし、職員が慌ててタオルを取りに行く音。
その中でSだけが、自分の手元を見ていた。
白い紙の首に、輪ゴムが食い込んでいる。
外すほどではない。少し力を入れれば、簡単に切れる程度の細い輪だった。
それでも、その輪の下だけが、ひどく窮屈に見えた。
◇
夕方になっても、雨は弱まらなかった。
仕事を終え、駅から自宅へ向かう坂道を歩いていると、靴の中へ冷たい水が染みてきた。傘の端から落ちる雫が、アスファルトに小さな穴を開けるように跳ねる。
Sは信号待ちの間、無意識に右手を握り込んでいた。
手のひらに、爪が食い込む。
昔の自分は、よく拳を握っていた。
怒っていたからではない。怒っているように見せるためだった。
中学生の頃、誰かに舐められたくないと思っていた。集まっていた連中の中で、弱い方に回りたくなかった。理由をつけては、誰かを突き飛ばした。肩がぶつかった、言い方が気に入らない、目が合った。今になって思えば、どれも理由ではなかった。
相手が転んだ時、周りにいた者が笑った。
その笑いに混じっていた自分の声だけは、なぜか覚えている。
ゲームセンターの裏口で、同級生の首に腕を回したこともあった。
最初はじゃれ合いの延長だった。相手も笑っていた。後ろにいた者たちも、面白がって囃していた。
けれど、相手が腕を叩き始めても、Sはすぐに離さなかった。
力を抜けば済むことだった。
それなのに、あと少しだけと思った。
苦しそうな息を聞いてから、ようやく腕を外した。
相手は咳き込み、しゃがみ込んだ。Sは謝らなかった。周りが見ていたからだ。代わりに笑って、「大げさやな」と言った。
帰り道、誰かの自転車の鍵を抜いて川へ捨てたこともある。閉まった店のシャッターに落書きをしたこともある。自分では手を出さず、隣で笑っていただけのこともあった。
大したことではない、と、その度に思っていた。
誰かに怒鳴られても、親に頭を下げさせても、次の日にはいつもの生活へ戻れた。
戻れたから、何も残っていないのだと思っていた。
Sは青になった信号を渡った。
雨水の中に、自分の顔が歪んで映っていた。
◇
夜、風呂を出てからも、身体のあちこちが落ち着かなかった。
湯で温まったはずなのに、足首とふくらはぎだけが冷たい。服を着る時、腕の内側に何かが触れたような気がして、何度も袖を払った。
もちろん、何もいなかった。
部屋の照明を消すと、雨の音だけが残った。
Sは目を閉じた。
眠りたくないと思った。
それでも、雨の音を聞いているうちに、意識はゆっくり沈んでいった。
◇
気づけば、Sは泥の道に立っていた。
見覚えのない村だった。
道の両側には低い木造の家が並び、瓦屋根の端から、絶え間なく雨水が落ちている。電柱も車もない。遠くの山は濡れた墨のように黒く、雲と地面の境目が分からなかった。
雨は細かった。
細いのに、服の中まで濡れる。
Sは自分が傘を持っていないことに気づいた。シャツは肌に張り付き、靴の中には最初から水が入っている。息を吐くたび、白い靄ではなく、湿った土の匂いが口の中に広がった。
軒下に、白いものがいくつも吊るされていた。
てるてる坊主だった。
どの家にも、一つずつではない。五つ、十、二十。白い布を丸めた頭が、濡れた風に合わせて揺れている。顔が描かれているものは一つもなかった。
首の紐だけが、どれも黒かった。
「おい」
声がした。
Sが振り返ると、道の向こうに女が立っていた。
年齢は分からない。頭から白い手拭いを被り、濃い色の着物の裾を泥で汚している。雨の中に立っているのに、顔だけはほとんど濡れていなかった。
「井戸を見たか」
「……知りません」
「見たら、絶対覗いたらあかん」
女はそれだけ言った。
だが、Sが返事をする前に背を向け、村の奥へ歩いていく。
Sは女を追った。
理由はなかった。ここに一人で残る方が怖かった。
道を進むほど、吊るされたてるてる坊主は増えていった。雨に濡れた白布は重く垂れ下がり、頭の形を保てずに潰れているものもある。そのたび、首の紐だけがきつく締まって見えた。
やがて、古い屋敷の前へ出た。
庭の中央に、石で囲まれた井戸があった。
女は井戸のそばで足を止める。
「坊主は、晴れると言うた」
唐突に、女は話し始めた。
「明日は晴れる。畑も乾く。みんな助かる。そう言うた」
井戸の上には、古びた木の梁が渡されていた。縄と滑車があり、その先に桶が一つぶら下がっている。
桶ではないものも、そこにあった。
白い布に包まれた、丸いもの。
雨に打たれながら、ゆっくりと揺れている。
「けど、雨は止まらんかった」
女はそれを見上げなかった。
「約束を守れん坊主は、首を落とされた。頭だけ白い布に包んで、空へ吊った。せめて、雨雲によう見えるようにな」
Sは喉の奥が冷たくなるのを感じた。
「それが、てるてる坊主や」
「……ただの噂話やろ」
Sは言った。
言葉にした瞬間、自分の声がひどく弱いことに気づいた。
女は初めて、こちらを見た。
顔には目も口もなかった。
雨に濡れた白い面が、一枚あるだけだった。
「お前は、何を約束した」
Sは答えられなかった。
井戸の水面に、雨粒がいくつも落ちていた。
その黒い水の中で、何かが動いた。
最初は、濡れた葉だと思った。
細く、黒く、平たいものが、水面の下をくねっている。
それが石の隙間から這い上がり、Sの靴に触れた。
ヒルだった。
Sは反射的に足を引いた。
だが、もう一匹が靴の甲へ張り付いている。さらに一匹。泥の中から、石の隙間から、雨水の流れる道から、黒いものが次々と現れた。
靴の中に、何かが入る。
冷たく、柔らかい感触が、足の指のあいだを這った。
「やめろ」
Sは靴を脱ごうとした。
その時、井戸の水面が揺れた。
そこに映っていたのは、今の自分ではなかった。
制服を着た中学生のSがいた。
濡れた廊下で、誰かの胸ぐらを掴んでいる。相手の顔は、水面の歪みで見えない。Sの拳が振り上がる。周りには何人かが立っていて、止める者はいない。
拳が下りる前に、水面が弾けた。
別の場面が浮かぶ。
ゲームセンターの裏口。
自分の腕が、誰かの首に回っている。
相手の手が必死に腕を叩いている。
水面の中のSは笑っていた。
Sは目を逸らした。
「もう、してへん」
口から、勝手に言葉が出た。
「もう、そんなことしてへん」
「してない、は」
女が言った。
「因果を返したことにならん」
足首に張り付いていたヒルが、急に膨らんだ。
引き剥がそうと指で摘まむ。だが、触れた瞬間に、もう一匹が手の甲へ移った。ぬるりとした身体が指の間を抜け、手首へ上がる。
Sは振り払った。
黒いものは、雨の中へ落ちなかった。
腕の内側に貼り付き、脈の上でゆっくり蠢いた。
その感触に、身体の奥が痒くなった。
皮膚の表面ではない。筋肉の下を、小さなものが何匹も動いているような、逃げ場のない痒みだった。
Sは腕を掻いた。
爪が皮膚を擦る音がした。
掻いても、痒みは消えない。むしろ、掻いた場所から黒いものが増えていく。肘の内側。脇腹。太もも。首筋。
服の中へ入り込んだヒルが、身体中にまとわりついていた。
「やめろ……」
Sは地面へ膝をついた。
雨が顔を打つ。泥の中で、白いてるてる坊主の一つが転がっていた。誰かに踏まれたのか、頭の部分が潰れている。
その白布の奥から、低い男の声がした。
「明日は晴れるか」
Sは顔を上げた。
梁から吊るされた白い包みが、先ほどより低い位置にあった。
布の下から、黒い僧衣が垂れている。
首のあるべき場所には、雨で濡れた白い断面だけがあった。
「晴れると言え」
頭のない坊主が、言った。
「お前が言えば、雨は止む」
「俺には、そんなことできへん」
「できると言うたらええ」
坊主の声は、さっきまでの女の声にも、昔の自分の声にも似ていた。
できる。大丈夫。大したことではない。
言えば、その場は過ぎる。
Sは首を振った。
その瞬間、首筋に冷たいものが巻き付いた。
ヒルではなかった。
濡れた縄のような、細い腕だった。
後ろから誰かが、Sの首に腕を回している。
力が入る。
息が詰まる。
目の前の井戸の水面に、首を絞められている自分が映った。
けれど、水面の中でSの首に腕を回しているのは、昔のSだった。
制服の袖。笑っている横顔。腕を離さなかった時と同じ顔。
Sは叫ぼうとした。
声は出なかった。
両手で自分の首を掻きむしる。
爪の下に、柔らかいものが触れた。
それが皮膚なのか、ヒルなのか、もう分からなかった。
井戸の中で、雨に濡れた白い包みがゆっくり浮かんだ。
誰かの頭のようにも、てるてる坊主の頭のようにも見えた。
その口のない白い面が、Sへ向いた。
次の瞬間、井戸の水が溢れた。
黒い水がSの足元へ広がり、膝を越え、胸まで登ってくる。
無数のヒルが、水の中で身体に触れた。
◇
Sは、自分の喉から漏れた声で目を覚ました。
部屋は暗かった。
雨の音が、現実の窓を叩いている。
両手が、胸元と首筋を掻きむしっていた。
Sは息を吸い込み、慌てて手を離した。腕の内側、脇腹、太ももには、赤い掻き傷が何本も走っている。爪の間には、薄く剥がれた皮膚が詰まっていた。
身体中がまだ痒かった。
服の内側に何かがいる気がして、Sは布団を跳ね除けた。シーツをめくり、枕の下まで確かめる。
何もいない。
黒いヒルも、濡れた泥も、井戸の水もない。
スマートフォンを見ると、午前三時十八分だった。
Sは洗面所へ行き、蛇口をひねった。
冷たい水で手を洗う。何度も指の間をこすった。それでも、土と雨水が混じったような匂いが、指先から消えなかった。
ふと顔を上げると、鏡の中の自分が見えた。
首には、赤い跡が残っていた。
五本の指で、強く押さえつけられたような跡だった。
Sは鏡の中の自分を見たまま、しばらく動けなかった。
窓の外では、夜明けまでの雨が、まだ降り続いていた。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
今回の第六章では、雨の日とてるてる坊主を題材にしました。晴れを願うための小さな人形が、見方を変えればどこか残酷な形をしている。その違和感が、Sの抱えている過去や、「約束」という言葉に少しでも繋がっていれば幸いです。
悪夢は、眠っている間だけのものではなくなりつつあります。少しずつ日常へ滲み出していくSの生活を、引き続きお付き合いいただければ幸いです。
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