第五章 『名簿』
Sは、その朝、目覚ましが鳴るより先に目を覚ました。
夢を見た覚えはなかった。
ただ、眠れていた感覚もなかった。瞼を閉じてから開くまでのあいだが、抜け落ちたように短い。身体だけが何時間か横になっていたことを覚えていて、頭の方は何も引き受けていない。
枕元のスマートフォンを見る。
午前六時七分。通知が一件だけ来ていた。
知らない名前ではなかった。ただ、それを目にするのは、あまりに久しぶりだった。
中学三年三組(連絡用)
大学生になっても、グループだけは残っていた。誰も発言しないまま、誕生日の通知や、誰かが機種変更した時の表示だけが、ときどき流れる。Sは何年もそこを開いていなかった。
画面を押す。
既読の数が、一瞬で二十七件に増えた。
『久しぶり。急やけど、秋に同窓会やることになった』
『場所は駅前のホテル。出欠フォーム送るから、欠席でも回答だけ頼む』
続けて、いくつかの短い返信が並んでいた。
『行く!』
『先生にも声かけてるん?』
『仕事あったら途中からでもええ?』
どれも、もう自分には関係のない人間の言葉に見えた。
Sは画面を下へ送った。
フォームのリンク。その下に、出席予定者の一覧が小さく表示されている。まだ回答は少なかった。名前の横には、出席、欠席、未回答のいずれかが並んでいる。
指が止まった。
Hの名前があった。
Hとは、小学校から中学校まで同じだった。
同じ校区で育ち、同じ廊下を歩き、同じ教室で授業を受けた。思い返せば、Hの顔が自分の人生に混じっていない時間の方が短い。
その名前の横には、未回答とだけ書かれていた。
それ以上の意味はない。
来るかどうかは分からない。行くつもりがあるのかも、そもそもグループを見ているのかも分からない。ただ、名前がそこに残っている。それだけのことだった。
Sはスマートフォンを伏せた。
胸の奥に、昨日までとは違う種類の重さが生まれていた。夢の中で追われた時の恐怖とは違う。もっと現実的で、だからこそ逃げ道がない。
中学の同窓会は、これが初めてではなかった。
以前にも一度、似たような連絡があった。Sはその時、仕事を理由に断った。実際に勤務が入っていたわけではない。シフト表を見れば、代わってもらえる日だった。
行かなかったのは、Hがいるかもしれなかったからだ。
それを、誰にも言ったことはない。
◇
大学の講義中、Sは黒板をほとんど見ていなかった。
教授の声は聞こえている。だが、言葉が頭に入る前に、スマートフォンの画面が浮かぶ。H。未回答。出席、欠席、未回答。
たった三つの文字が、妙に整然と並んでいた。
隣の席の学生がノートを取る音がする。ページをめくる音。シャープペンシルの芯が折れる小さな音。どれも静かな教室にはよく響いた。
Sは自分の名前が、いま出席簿にあるのかを考えた。
その考えが浮かんだ瞬間、背中が冷えた。
以前の夢では、教師は最後までSの名前を呼ばなかった。クラスの中に座っているのに、誰も不思議に思わなかった。
Sは目を閉じかけて、やめた。
眠るのが怖いのは夜だけではなくなっていた。
◇
夕方、施設へ入ると、先輩職員が事務所の机から紙を一枚取った。
「Sくん、これ確認してくれる?」
差し出されたのは、その日の利用者の名簿だった。
入浴の順番、送迎の予定、服薬の確認。いつも見ているものと同じ書式で、名前が縦に並んでいる。Sは紙を受け取ったが、すぐには目を落とせなかった。
「今日、新しく来る人おるから。抜けがないかだけ見て」
「分かりました」
声は普通に出た。
紙の上の文字も、最初は普通だった。
Sは一行ずつ指で追った。知っている利用者の名前。いつもの部屋番号。食事形態。連絡事項。そこには何もおかしなところがない。
最後の方に、小さな空欄があった。
印刷のずれか、まだ書き込まれていない欄か、その程度のものだった。Sは一度だけそこを見た。二度目には、ただの罫線にしか見えなかった。
「Sさん」
食堂の方から、利用者の声がした。
Sが顔を上げると、いつも窓際に座る男性が、配膳前のテーブルを見ていた。
「俺の名前、ちゃんとあるか」
冗談のような口調だった。
Sは名簿へ視線を戻し、その名前を探した。すぐに見つかった。
「ありますよ」
男性はしばらく黙ってから、小さく頷いた。
「ほな、今日はここにおってええな」
それだけ言って、窓の外へ目を向けた。
Sは返事ができなかった。
その言葉を、ただの言葉として聞き流せなかった。
◇
帰宅してから、Sは部屋の明かりを点けずにベッドへ腰を下ろした。
カーテンの隙間から、向かいの建物の窓明かりが入っている。白く、四角く、部屋の床の一部だけを薄く照らしていた。
スマートフォンを開く。
グループの既読は、四十三件になっていた。
『Hも誘ったん?』
誰かが、そう書いていた。
その直後に、別の誰かがスタンプを送っている。猫が手を振っているだけの、小さな画像だった。質問への返事はなかった。
Sは画面を動かした。
出欠フォームを開く。
氏名の欄には、あらかじめSの名前が入っていた。出席、欠席、未定の三つの丸が、その下に並んでいる。
注意書きには、こうあった。
※欠席の場合も、必ずご回答ください。
Sはしばらく、その一文だけを見つめていた。
欠席することと、答えないことは違う。
そんな当たり前のことを、誰かに言われたような気がした。
高校を卒業したら、私から連絡する。
それまでは連絡してこんといて。
Hの声が、いまになっても頭の奥に残っている。
Sは約束を守っているつもりだった。
自分から連絡していない。送信欄に言葉を打って、消してきた。会いに行っていない。住んでいる場所も、働いている場所も、調べようとしなかった。
それだけなら、守っていることになるのだろう。
だが、Hが来るかもしれない場所から逃げ続けていることまで、約束のためだと言っていいのかは分からなかった。
Sは画面を閉じた。
しばらくしてから、もう一度開いた。
何も変わっていなかった。
◇
眠りに落ちた瞬間は、覚えていない。
気づけば、Sはホテルの廊下に立っていた。
床には深い茶色の絨毯が敷かれている。壁には金色の細い飾りがあり、天井からは小さな照明がいくつも下がっていた。駅前によくある、結婚式や宴会に使われるような古いホテルだった。空気は乾いていて、花と洗剤と、冷えた料理の匂いが混ざっている。
廊下の先に、白い案内板が立っていた。
市立中学校 三年三組 同窓会
会場 四階 桔梗の間
Sは、それを見た瞬間に夢だと分かった。
分かったからといって、戻れるわけではない。
会場の前には受付があった。白いクロスを掛けた長机。その上に名札とボールペン、出席簿が並んでいる。受付の女は紺色の制服を着ていた。胸元の札には、受付とだけ書かれている。
「お名前をお願いします」
女の声を聞いた時、Sは立ち止まった。
丁寧で、抑揚が薄い。
館内放送の女と同じ声だった。
「……Sです」
女は出席簿を開いた。
紙には、中学時代の名前が整然と並んでいた。知っている名前も、もう顔が思い出せない名前もある。どの名前の横にも、小さく丸印が付いている。
出席。
欠席。
未回答。
女の指が、ゆっくり紙の上を滑る。
Sは自分の名前を探した。
なかった。
最初から、どこにもなかった。
「俺の名前、ないですか」
「確認いたします」
女はもう一冊、同じような出席簿を開いた。
そこにもSの名前はなかった。
Hの名前はあった。
横には、未回答と書かれている。
Sはその三文字を見た。
現実の画面で見たものと、同じ文字だった。
「Hは来るんですか」
言ってから、自分が何を尋ねたのか分からなくなった。
女は顔を上げなかった。
「お問い合わせは、ご本人にお願いいたします」
「連絡、できないんです」
「それでは、お待ちになるのですね」
その言葉だけが、やけにはっきり聞こえた。
待つ。
それはSが自分で選んだ言葉だったはずなのに、他人の口から出ると、ひどく狭い場所に閉じ込められたような響きがした。
「俺は、来てます」
Sは言った。
「ここに」
女は名簿を閉じた。
「いま来られたことと、ご出席であることは別です」
それ以上、何も言わなかった。
会場の扉が開いた。
中から話し声が漏れてくる。笑い声。椅子を引く音。グラスの触れ合う音。どれも同窓会らしい、懐かしさを装った音だった。
Sは受付の横を抜け、会場へ入った。
丸いテーブルがいくつも並んでいる。料理の皿。飲み物のグラス。壁際に置かれた花。天井には、細い布が垂れ下がっていた。集まっているのは、確かに中学時代の同級生たちだった。
誰かがSの方を見て、手を上げた。
「久しぶり」
声は知っているような気がした。
だが、顔を見ようとした瞬間、その輪郭は薄く白くなった。目と口の位置だけがある、何も描かれていない顔。標準顔よりも、さらに平たい面だった。
Sは息を詰めた。
もう一度見ると、その人は普通の顔に戻っていた。笑いながら、隣の席の誰かへ何かを話している。
見間違いだと思いたかった。
テーブルの一つに、Hの名札が置かれていた。
席は空いている。
グラスには水が半分だけ入っていた。水面だけが、会場の照明とは違う深い青を映している。
Sはその席へ近づいた。
名札には、Hの名前が印刷されていた。文字は白い紙の上で、妙に濃く見える。触れようとした時、背後でマイクの音が鳴った。
会場の照明が、一度だけ小さく明滅する。
『ご出席の皆様に、お知らせいたします』
女の声だった。
デパートで聞いた声。小学校で聞いた声。ゲーム筐体の前で聞いた声。
『ただいまより、出席者の確認を行います』
会場の中にいた人々が、ゆっくりと席へ着いた。
誰も不思議そうな顔をしない。
誰もが、当然のことのように自分の名札の前へ座る。
放送が、名前を読み始めた。
一人目。
返事がある。
二人目。
また返事がある。
聞き覚えのある名前が、順番に会場へ落ちていく。呼ばれた者は皆、短く答える。声はあるのに、返事をする顔だけが、どこか白く見えた。
Sは立ったまま、自分の名前を待った。
Hの席は、ずっと空いている。
やがて、放送がHの名前を呼んだ。
返事はなかった。
水の入ったグラスが、かすかに揺れた。
青い水面の下に、白い何かが沈んでいるように見えた。紙か、布か、細い手のひらか。Sは確かめなかった。
『未回答の方は、お席を離れないでください』
女の声が告げた。
それでも誰も動かなかった。
放送は、さらに何人もの名前を読み上げた。
Sの名前は、最後まで呼ばれなかった。
確認が終わると、会場に短い拍手が起きた。
誰かが乾杯のグラスを持ち上げる。誰かが笑う。さっきまでのざわめきが戻ってくる。
その中で、Hの席だけが空いていた。
Sは名札を見つめた。
白い紙の上に、Hの名前がある。
それだけが、現実に残っている証拠のように思えた。
「その席、空いてんの?」
声がした。
Sが振り返ると、背の低い少年が立っていた。
小学校の校庭で会った少年だった。半ズボンではなく、白いシャツに黒いズボンを穿いている。ホテルの子ども用の正装みたいな、場に合っているようで合っていない服装だった。
右手だけが、あの時と同じだった。
指が五本あるのか、四本なのか、見ているほど分からなくなる。
「お前...あの時の...」
Sは低く言った。
少年は首を傾げた。
「名簿にない人参上」
「ふざけんなや」
「怒らないでよ」
少年は笑った。
「多分やけど、H来てへんやろ」
「来る」
「嘘つけ、待ってるだけやん」
言い返す言葉がなかった。
少年はHの空席を見た。
「お前の席ないで」
その瞬間、会場の中にいた全員が、同時にこちらを見た。
笑っていた顔が、ひとつずつ白くなる。
目と口の穴だけが並ぶ。
誰も立ち上がらない。
ただ、席に座ったままSを見ている。
Sは後ずさった。
踵が、受付の方へ伸びる廊下の壁に当たる。壁には大きな出席簿が貼られていた。さっき受付で見たものより、ずっと大きい。
そこには、全員の名前があった。
出席。
欠席。
未回答。
Sは自分の名前を探した。
最下段に、小さくあった。
S 欠席
その文字の隣に、誰かが鉛筆で丸をつけていた。
『欠席の場合も、必ずご回答ください』
女の声が、すぐ耳元で聞こえた。
Sは振り返った。
そこには誰もいない。
代わりに、ホテルの廊下の床が、足元からゆっくり濡れていた。茶色い絨毯へ黒い水が染み込み、靴底を冷たく濡らしていく。
会場の扉の奥で、誰かが笑った。
子どもの声だった。
Sは走った。
◇
目が覚めた時、スマートフォンの画面が光っていた。
午前四時四十六分。
グループの通知が一件、増えている。
『名簿、明日までに頼む。欠席でもええから』
それだけだった。
Sはしばらく、ベッドの上で動かなかった。
部屋は静かだった。冷蔵庫の音。遠くを走る車の音。どこかの部屋で水が流れる音。
ホテルの絨毯の冷たさだけが、まだ足の裏に残っている。
Sは出欠フォームを開いた。
氏名の欄には、自分の名前が入っている。
出席、欠席、未定。
Hの回答は、まだ未回答のままだった。
Sは「欠席」の丸に指を置いた。
押せば終わる。
少なくとも、この同窓会については終わる。
それでも指が動かなかった。
画面の明かりに、自分の顔が薄く映っている。
白く塗りつぶされてはいない。ただ、そこにいるのが自分なのかどうか、少しだけ分からなかった。
Sは画面を伏せた。
回答は、まだ送られていなかった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
一度は幕を下ろした『匿S氏・カルマ連鎖』ですが、本章から改めて物語を動かしていきます。
Sの「生活」は、何事もない日常に見えても、過去から切り離されたものではありません。忘れたつもりのこと、見ないふりをしてきたこと、誰にも言えなかったことが、少しずつ現在へ触れ始めます。
再開後も変わらず、Sの内側と、その周囲に連なるものを描いていければと思います。
引き続きお付き合いいただければ幸いです。




