第四章 『生活』
第四章「生活」をお送りします。
特別な出来事や激しい感情のあとにも、人はなお日々を生きていかなければなりません。
積み重なった痛みや記憶、消えきらない感情の先にあるものを、最後まで見届けていただければ幸いです。
その週の終わりには、Sの中で昼と夜の境目が曖昧になっていた。
目を覚ました瞬間、いま自分が何の続きを生きているのか分からない時がある。夢の終わりなのか、現実の始まりなのか、それともその逆なのか。大学の講義室に座っていても、ふいに「次に来るのは館内放送だ」と思う。介護施設の廊下を歩いていても、角を曲がった先に図工室がある気がする。スマートフォンを開けば、送っていない文面が既読になっているのではないかと一瞬だけ思い、次の瞬間にはそんなはずがないことを知る。
分かっている。
分かっているのに、分からなくなる。
朝の光は薄かった。窓の外は晴れているのに、部屋の中だけが曇っているように見える。Sは顔を洗い、鏡を見た。そこには寝不足の大学生が立っていた。目の下にうっすら影が差し、頬の線は以前より少しだけ細い。
普通の顔だ。
少なくとも、そう見える。
タオルで顔を拭いていると、不意に玄関の方で小さく物音がした。靴が床を擦るような、柔らかい音だった。Sは振り返った。もちろん誰もいない。部屋は狭く、誰かが隠れられる場所などない。
それでも、Sはしばらくその場に立ち尽くした。
鏡の中の自分も、同じように立っていた。
大学へ向かう途中、コンビニの前で小学生の集団とすれ違った。ランドセル。黄色い帽子。朝の匂い。彼らは騒がしく、普通に騒がしく、そのうちの一人が走りながら「鬼やる?」と叫んだ。別の子が笑って断る。何でもない光景だった。Sはその何でもなさの中で、自分だけが場違いに身体を強張らせていることを知っていた。
施設では、利用者の一人が昼食のメニューを見て「魚か」と呟いた。別の人が「今日はマグロやないか」と返した。厨房から揚げ物の匂いがした。Sは配膳車を押しながら、食堂のガラス窓に一瞬だけ青い光が差した気がして目を向けた。外はただの晴天だった。
何も起きていない。
その事実の方が、いまはもう信用できなかった。
夜になって部屋へ戻った時、Sは靴を脱いだまましばらく玄関に立っていた。部屋の奥は暗い。スイッチを入れればいつも通りのワンルームが現れるはずだ。カラーボックス、机、ベッド、干しっぱなしの洗濯物。分かっている。分かっているのに、その一歩が億劫だった。
ようやく明かりを点けた部屋は、やはり普通だった。
何も増えていない。何も減っていない。
ただ、静かすぎた。
Sは何となくスマートフォンを見た。通知は数件あった。大学から一件、バイト先から一件、どうでもいい広告が二件。欲しいものだけが来ていない。その空白の形に、Sはもう慣れているはずだった。慣れているはずなのに、画面を伏せる手つきだけが、以前より少し慎重になっていた。
眠りたくないと思った。
だが眠らなければ、翌日はもっと壊れる。Sはそれを、この一週間で嫌というほど知った。風呂もそこそこに済ませ、部屋の明かりを落とし、ベッドへ横になる。隣の部屋から、テレビの笑い声がかすかに聞こえる。人の生活の気配は、本来なら安心の材料になるはずだった。
Sは目を閉じた。
その瞬間、自分がどこへ落ちていくのかを、半ば知っていた。
気づけば、教室だった。
高校の教室。
最初にそう理解した時、Sはほとんど安堵しかけた。
木目調の机。窓際の席。黒板の上にかかった時計。後ろのロッカー。蛍光灯の白さ。どれも見覚えがある。いや、見覚えがあるというより、身体の方が先に懐かしさを思い出していた。ここで何度も眠気をこらえたこと。ここで何度もチャイムを聞いたこと。ここで、何でもないことで笑っていたこと。
廊下側の席から、誰かが消しゴムを借りる声がした。
前の方では、男子がくだらない話で笑っている。
後ろでは女子がスマートフォンを机の陰で覗いている。
窓の外は午後の色をしていた。授業と授業のあいだの、中途半端に平和な時間。教卓にはまだ教師が来ていない。
あまりにも普通だった。
Sはゆっくり息を吐いた。
夢の中で初めて、自分の肩がわずかに下がるのが分かった。ここまでの悪夢と違いすぎる。このまま何事もなく終わる可能性すら、少しだけ想像した。
「なあ」
隣の席の男子が、Sへ声をかけた。
顔は見知った誰かに似ている。だが、名前が思い出せない。高校時代の友人だったのか、大学で見た顔に記憶が寄っただけなのか、その境目が曖昧だった。
「次、移動教室やったっけ」
「……いや、普通ちゃうか」
Sがそう答えると、男子は「ああ、せやったか」と笑った。
自然な会話だった。
関西の抑揚も、ごく普通だった。
Sはそこでようやく、自分がいま“高校生としてここにいる”のだと気づいた。大学生の自分が夢の中へ紛れ込んでいるのではない。この場にいるS自身が、その年齢、その場所の一員として振る舞っている。そこが妙に不気味だった。普通すぎるものは、時に理解より先に恐怖へ近づく。
黒板の端には日付が書いてあった。
四月。
それ以上は、読み取ろうとすると滲んだ。
Sは机の中へ手を入れた。教科書とノートがある。筆箱もある。すべて自分のものだと分かるのに、手触りだけが少し新しすぎた。使い込んだ紙の柔らかさではなく、買ったばかりの文房具みたいな硬さがある。
廊下で足音が止まる。
教師が入ってきた。
年配の男だった。見覚えがあるような気もするし、ないような気もする。教卓にプリントを置き、クラスを見渡し、「ほな始めるぞ」と淡々と言う。誰もそれに違和感を示さない。教師は出席簿を開き、名前を読み始めた。
一人目。
二人目。
三人目。
皆、普通に返事をする。
Sはじっと待っていた。
だが、自分の番が来ない。
途中で聞き逃したのかと思った。だが教師はそのまま最後まで読み終え、何事もなかったようにプリントの説明へ入った。クラスメイトも誰一人としてそれを不自然に思っていない。
Sだけが、自分の名前を呼ばれていないことに気づいていた。
いや、それだけではなかった。
さっき隣の席の男子も、Sのことを名前では呼ばなかった。廊下で聞こえる会話にも、自分を指す名前が一度も混ざっていない。存在しているのに、呼ばれない。そこに座っているのに、出席に数えられていない。
Sは黒板へ視線を戻した。
チョークの粉が白く舞っている。
その白さが、一瞬だけ仮面の表面に見えた。
授業は普通に進んだ。
ノートを取る。教師の話を聞く。ページをめくる。眠気と戦う。高校生活の、何の変哲もない一時間。だがSの意識だけが少しずつ浮き始めていた。言葉が頭に入らないわけではない。むしろ入ってくる。だが一度入るたび、別の連想が追いついてくる。
教師が「保存」と言えば、ゲーム画面の文字が浮かぶ。
「生活」と書けば、職員室の予定表が浮かぶ。
窓の外で光が揺れれば、水槽の青を思い出す。
それでも教室は平穏だった。
休み時間になると、皆いっせいに席を立った。廊下へ出る者、購買へ向かう者、次の授業の準備をする者。Sも流れに乗って立ち上がった。行き先は分からない。だが、この夢の中では立ち止まることが一番まずいと、もう身体が学習している。
廊下は明るかった。
窓から午後の光が差し込んで、床に白い帯を作っている。向こうのクラスでは、誰かが笑いながら走って教師に怒られていた。階段の踊り場には、文化祭のポスターが貼られている。普通だ。どこまでも普通だ。
階段を下りようとした時、Sは一階へ続く踊り場の窓の外に、大きな看板が見えるのに気づいた。
校外の景色のはずだ。
民家や電柱が見えていていい場所だ。
なのに、そこには白地に赤い文字で、こう書かれた看板が見えた。
食べ放題
五割外国産
Sの足が止まった。
瞬きをする。
次の瞬間、窓の外には普通の住宅街が広がっていた。自転車が通り、電線に雀が止まり、何の異常もない午後の景色に戻っている。
「どうしたん」
後ろからクラスメイトの女子が訊いた。
Sは振り返る。「いや」とだけ答える。女子はそれ以上気にせず、友人と喋りながら下へ降りていった。そのうちの一人が、右手にだけ白い包帯を巻いていた。怪我をしているのだろう。珍しくもない。だが、その包帯の巻き方だけが、指の本数を曖昧にしていた。
Sは階段の手すりを強く握った。
昼休み、教室の後ろに小さな水槽が置かれていることに気づいた。
さっきまでは、なかった気がする。だが誰も何も言わないので、もしかしたら最初からあったのかもしれない。教室の隅にある、理科室から借りてきたような小型の水槽。中には小さな魚が数匹、ゆっくりと泳いでいる。ブクブクという気泡の音が、教室のざわめきの下で細く響いていた。
水は妙に澄んでいた。
澄みすぎていて、底砂のあいだに沈んだ白いものが、余計にはっきり見える。
貝殻か何かだろう、とSは思った。
近づいて見ようとはしなかった。
その時、教室の前の方で誰かがふざけて歌い出した。すぐに周囲が笑う。別の誰かが机を叩いてリズムを取る。高校生らしい、馬鹿っぽい昼休みの音だ。Sはそこに自分も混ざっていたはずの頃を、ほとんど他人のように眺めた。
ひどく遠い。
まだ数年前のはずなのに、ひどく遠い。
その遠さの中にだけ、Hの輪郭が一瞬、混ざった気がした。教室の窓際、あるいは廊下の角、あるいは笑い声の重なりの奥に。だが、Sが意識して探した瞬間にはもうどこにもいない。いるはずもない。この場面は“普通の生活”であって、誰か一人との思い出ではないのだと、夢の方が冷たく言っている気がした。
午後の授業が始まる。
その頃には、Sの中で何かが限界へ近づいていた。異常は小さい。看板も一瞬だけ。水槽も教室の隅にあるだけ。出席で名前を呼ばれなかったことも、気にしなければ流せる程度だ。なのに、それらが“普通”の形を壊さないまま滲んでいるのが何より悪かった。
この夢は、最初から崩壊していない。
だからこそ逃げ場がない。
黒板の端に、教師が何気なく今日の予定を書いた。
一時間目 古文
二時間目 数学
三時間目 現代文
四時間目 生活
Sは目を細めた。
生活。
それだけが、他の授業名より少し大きく見えた。
教師は何事もない顔で授業を始める。窓の外では風が吹き、カーテンが揺れ、遠くの校庭から笛の音が聞こえてきた。体育だろう。誰かが先生に当てられて立ち上がる。ノートを忘れたと言って周囲が笑う。全部、本当にありそうな、ありふれた学校の時間だ。
Sはふと、自分の机の上に置いた手を見た。
左手も右手も、いつも通りだった。
だが、視界の端で前の席の男子がノートをめくるたび、その右手だけが少しだけ滑らかすぎる形に見えた。指が一本多いのか少ないのか分からない、あの曖昧な白さが、一瞬だけそこへ重なる。
次に見た時には普通の手へ戻っている。
Sは顔を上げた。
教室の前方。教師の横。黒板。時計。窓。
全部がそのままの位置にあった。
ただ、教室の後ろの水槽だけが、いつの間にか少し大きくなっている気がした。
ブクブク、という音がさっきより近い。
いや、近いのではない。教室全体に広がっている。
Sは呼吸を浅くした。
教師の声が遠のく。クラスメイトの笑い声が、水の膜の向こうから聞こえるみたいに鈍る。黒板の文字が滲み始める。生活。生活。生活。チョークの粉が舞うたび、それが白い顔の輪郭に見える。
そして、誰かが後ろの席で言った。
「なあ、そろそろ鬼交代ちゃう?」
教室が一瞬だけ静まった気がした。
Sは振り向いた。
誰もそんなことを言っていない顔をしていた。後ろの席の男子はプリントをめくり、女子は窓の外を見ている。水槽の魚だけが、ゆっくりこちらへ向きを変えた。
Sは立ち上がった。
椅子が音を立てる。
教師がこちらを見る。クラスメイトも見る。視線が集まる。それなのに、誰一人としてSの名前を呼ばない。
「……トイレか」
教師がそう言った。
Sは答えなかった。
廊下へ出る。呼吸が速い。頭が痛い。普通の学校の匂い――チョーク、汗、ワックス、紙――の中に、潮の匂いが混じっている。廊下の掲示板には文化祭の写真が貼られていて、その生徒たちの顔のうち何人かは、見ているうちに白い面へ変わりかける。
階段を下りる。
一階へ。
下りたはずなのに、窓の外に見えるのはさっきと同じ二階の景色だ。廊下の端にある消火器の位置も同じ。渡り廊下の先に、見覚えのある売場案内のような板が立っている。白地に黒文字で、こう書いてある。
仮面
革製品
水族館
学校であるはずがない。
そう思うのに、通りすぎる生徒たちは誰一人それを見ない。
Sは後ずさる。
その足が何かに当たった。振り向くと、理科準備室の前に、古いモニター付きの台車が置かれている。ビデオを見る時に使うような、小さなテレビ。画面は黒い。だが電源は点いているらしく、うっすらと反射していた。
そこに、Sの顔が映っている。
いや、Sの顔ではなかった。
白くて、穴だけが開いた、何も描かれていない顔が映っていた。
Sは息を呑み、一歩下がった。
画面がぶれる。
次に見た時には、ちゃんと自分の顔に戻っている。青白く、寝不足で、若いくせに疲れた大学生の顔。高校生のSではなく、いまのSの顔だった。
その瞬間、世界の継ぎ目が外れた気がした。
高校の廊下に、大学生の自分の顔がある。
普通の生活の中に、いまの自分が侵入している。
いや、侵入しているのはどちらだ。
廊下の向こうで、チャイムが鳴った。
学校のチャイムではなかった。
ガラスを軽く叩くような、澄みすぎた音色。
Sは走った。
どこへ向かうでもなく、とにかく走った。廊下を曲がり、階段を上がり、渡り廊下を抜ける。途中で購買らしき場所を横切った。パンが並んでいる。メロンパン、焼きそばパン、コロッケパン。その奥に、なぜか食堂の入口が見えた。大きな看板に、赤い文字が出ている。
食べ放題
五割外国産
横には青い光が揺れていた。
水槽だ。
学校の中のはずなのに、水槽がある。魚が泳いでいる。泡が昇っている。ガラスの向こうに、白いものが沈んでいる。布か、紙か、掌か、見極める前にSは顔を背けた。
どこまで走っても、人とすれ違う。
皆、高校生の顔をしている。普通に笑い、普通に歩き、普通に生きている。なのに、そのうちの何人かはすれ違いざまにSを見て、ほんの一瞬だけ口元だけで笑う。その笑い方が、小学校のあの少年に似ていた。
Sはついに校舎の中央階段へ飛び込んだ。
踊り場で足を止め、手すりにしがみつく。心臓がうるさい。目の前が揺れる。上からも下からも足音が聞こえるのに、誰の姿も見えない。
その時、校内放送が入った。
スピーカーのノイズが一度だけ走る。
そして、あの女の声がした。
『生徒のみなさんにお知らせします』
丁寧で、抑揚のない声。
デパートで聞いた声。
小学校で聞いた声。
ゲーム筐体の終了音のあとに聞いた声。
その全部と同じ声。
『このままでは精神がのまれるぞ』
Sは動けなかった。
放送はそれだけだった。
それだけなのに、校舎の空気が一瞬で別物になる。笑い声が消える。足音が消える。教室のざわめきが消える。蛍光灯の低い唸りだけが、広い校舎の骨の中を這うように残る。
静寂の底で、Sは自分の呼吸だけを聞いた。
その呼吸すら、どこか他人のものみたいだった。
階段の下から、誰かが上がってくる気配がした。
子どもの軽い足音。
水滴の落ちる音。
レバーを倒す小さな機械音。
泣き声。
チャイム。
それら全部が混ざり合って、一つの足音になって近づいてくる。
Sは見下ろした。
階段の下には誰もいない。
だが、踊り場の壁には影だけがあった。
細長く、首へかかるような輪の影。
それが揺れている。
ゆっくりと、まるで天井から見えない何かが吊られているみたいに。
Sは声を出そうとした。
出なかった。
その影の向こう、校舎の窓ガラスに、自分の姿が映っている。高校生の制服ではない。大学生の服装でもない。どこの時期の自分ともつかない、輪郭の曖昧な人影。その顔だけが白く、何も描かれていない。
標準顔。
その単語が浮かんだ瞬間、窓ガラスの中のそれが、ゆっくりとこちらへ首を傾げた。
そこで、目が覚めた。
暗い天井。
いつもの部屋。
朝か夜か分からない、青黒い薄闇。
Sはしばらく、自分がどこにいるのか本気で分からなかった。ベッドの上。ワンルーム。大学生。一人暮らし。順番に名前をつけていって、ようやくいまの自分へ戻ってくる。それでも、戻りきった感覚はなかった。皮膚の内側に、まだ別の場所の湿度が残っている。
喉が痛い。
首筋が冷たい。
Sは身を起こした。部屋は静かだった。冷蔵庫の駆動音がかすかに聞こえる。カーテンの隙間から、朝とも夜明け前ともつかない薄い光が差している。スマートフォンに手を伸ばす。画面が点く。
午前五時五十八分。
通知はない。
何も、来ていない。
Sはその事実を、以前ほど大きく感じなかった。
痛みが薄れたわけではない。ただ、痛みに名前を与える力の方が先に摩耗していた。Hから連絡は来ていない。来る保証も、もうない。それでも待っている。待つことをやめれば何が残るのか、もう想像できないからだ。贖罪も、愛も、後悔も、時間の中で少しずつ形を変え、いまではただ一つの習慣みたいに心の中央へ居座っている。
Sは画面を伏せた。
部屋の隅を見る。
カラーボックス。机。積み上がった本。洗いきれていないマグカップ。どれも見慣れた物ばかりだ。だが、そのどれか一つでも長く見つめていると、輪郭の内側から別の像が滲み出してきそうだった。仮面の棚。水槽の青。教室の水音。画面の中で泣いていたH。異形の右手。名前を呼ばれない時間。
Sは立ち上がろうとして、やめた。
起きて大学へ行くことも、施設へ行くことも、できないわけではない。たぶん今日も行ける。昨日までがそうだったように、今日もまた普通の顔をして、普通に講義を受け、普通に働くことはできるだろう。
だが、その“普通”の中へもう一度戻ることが、ひどく遠いことのように思えた。
枕元の鏡に、薄く光が反射している。
Sはそれを見た。
鏡の中には、やつれた自分が映っていた。
ただ、それだけのはずだった。
それなのに、まばたきをした一瞬だけ、その顔の表面が平らな白に塗りつぶされて見えた。穴の位置だけが分かる、何も描かれていない顔。次に見た時には、もう消えている。
Sは目を逸らさなかった。
逸らしたところで、消える保証はないと思ったからだ。
部屋のどこかで、小さく水の音がした気がした。
あるいは、子どもの笑い声だったかもしれない。
あるいは、古いスピーカーのノイズ。
判別はつかなかった。
窓の外では、朝が始まりかけている。遠くで車が走り、誰かが出勤のためにドアを閉める音がする。世界は今日も律儀に続いていく。Sだけを置き去りにしたまま、何事もなかったような顔で。
スマートフォンは沈黙したままだった。
それが救いではないことを、Sはもう知っていた。
ベッドの端に座ったまま、Sはしばらく動かなかった。
次に眠れば、またどこかへ呼ばれる気がした。呼ばれるというより、もう半分のまれていて、残りを回収されるだけなのかもしれなかった。
そう考えても、不思議と強い恐怖は湧かなかった。
恐怖より先に、もっと鈍くて重いものが、心の底へ沈んでいた。
言葉にするなら、たぶん、終わりに近い諦めだった。
朝の光は少しずつ強くなっていく。
その白さの中では、Sの顔だけが、いつまでも鏡越しによく見えなかった。
第四章「生活」をお読みいただき、ありがとうございました。
そして、『匿S氏・カルマ連鎖』を最後まで見届けてくださり、心より感謝申し上げます。
本作では、人の内側にある欠落や執着、愛情への渇き、そして断ち切れない因果の連なりを描こうとしてきました。
その果てに残るものが、劇的な救いであれ、静かな諦念であれ、あるいはただ続いていく“生活”であれ、何か一つでも心に残るものがあったなら幸いです。
ここまでお付き合いいただき、本当にありがとうございました。




