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第三章 『再上映』

第三章「再上映」をお送りします。

過ぎ去ったはずのものは、時に形を変え、何度でも眼前に立ち現れます。

忘れたつもりでも消えてはいない感情や記憶、その残響を感じていただければ幸いです。

 それから数日、Sはまともに寝た気がしなかった。


 眠っている時間はあったはずなのに、起きた時には最初から疲れている。疲労が身体の外側ではなく、もっと深いところ、骨の隙間か、歯の裏か、そういう説明しづらい場所に沈殿(ちんでん)している感じだった。講義中に目を閉じれば仮面の列が見え、食堂で味噌汁の湯気を見れば水槽の青い光を思い出す。施設で配膳車を押していると、後輪が廊下の継ぎ目を越えるたび、学校のチャイムが遠くで鳴った気がした。


 日常の方が、少しずつ夢に似てきていた。


 ある日、大学の共用スペースに置かれた小型のアーケード筐体の前で、Sは足を止めた。


 学生が自由に使える休憩スペースの隅に、それは前からあったのかもしれない。だが、Sはその日まで意識したことがなかった。古いゲームセンターに置かれていそうな、背の低い、箱型の筐体(きょうたい)だった。画面は小さく、スピーカーは左右に丸く張り出し、コイン投入口のあたりだけが不自然に磨かれている。液晶には、何のゲームか分からない簡素な画面が映っていた。黒い背景。白い線で描かれた迷路のようなもの。右下に、小さく「PRESS START」と出ている。


 通り過ぎる学生たちは誰も見向きもしなかった。


 Sだけが、その前に立っていた。


 胸騒ぎがした、というより、先に知っていた感覚に近かった。今夜の夢にこれは出てくる、と、理由もなく分かった。分かったからこそ、今この現実の中で見ておきたくなかった。だが見ないまま通り過ぎれば、そのこと自体が夜にもっと悪い形で戻ってくる気もした。


 Sは目を逸らした。逸らして、そのまま歩き去ろうとした。


 その瞬間、筐体(きょうたい)のスピーカーから、ごく小さく音が鳴った。


 単音ではなかった。何か旋律(せんりつ)の断片だった。()んでいて、冷たく、子守歌めいた不穏さを持つ音。Sは足を止めた。聞いたことがある。どこで聞いたのかはすぐに思い出せなかったが、音だけが先に記憶の奥を引っかいた。


 振り返ると、画面は暗転していた。


 それだけだった。


 誰もそこに立っていない。誰もプレイしていない。液晶は黒く沈み、ただSの姿だけをぼんやり映している。Sはしばらくそれを見つめ、それ以上近づかずにその場を離れた。


 その日の夜、スマートフォンに新着通知はなかった。


 大学の連絡も、バイト先のグループ通知も、よく分からない広告メールも、その日ばかりは何も来ていなかった。画面の上部は空白で、時刻だけが妙にくっきりしていた。


 Sはメッセージアプリを開き、すぐ閉じた。


 開くたびに、最上部に固定された一つのトーク欄が視界へ入る。もう何年も動いていないやり取り。最後の数行だけを読み返す癖は、とっくにやめたはずだった。それでも、たまに指が勝手にそこへ伸びる。


 送らない。


 連絡しない。


 待つ。


 その約束だけで、ここまで来た。


 ベッドに横たわり、部屋の暗さに目を慣らしながら、Sは自分がいま何を支えにしているのかを考えないようにした。考えて言葉にしてしまえば、それが希望ではなく執着であることに名前がついてしまう気がしたからだ。


 眠りは、考える前に来た。


 気づけば、Sは小さなゲームセンターのような場所にいた。


 ただし、どこにも外の気配がなかった。商業施設の一角のようでもあり、駅ビルの屋上の古びたゲームコーナーのようでもあり、学食の隅に無理やり作られた娯楽室のようでもある。蛍光灯は点いているのに、明るくはない。床は安いタイルカーペットで、ところどころ踏み潰されて毛が寝ている。空気にはわずかに埃と鉄の匂いが混じっていた。


 筐体(きょうたい)は一台しかなかった。


 中央に、ぽつんと。


 昼間に見たものと似ていたが、少しだけ背が高い。画面は既に点いていて、黒い背景の中央に白い文字が出ている。


 PLAYER : S


 Sは無言のまま近づいた。


 左右にあるはずのボタンは、色が剥げていた。レバーの先端はすり減り、長く使われたプラスチック特有の鈍い(つや)がある。コイン投入口には「100」とだけ印字された小さなシールが貼られている。


 画面の文字が変わった。


 STAGE 3


 意味が分からない、と思った瞬間、どこからともなく開始音が鳴った。


 ぴ、と小さく。


 それだけで、Sは自分がプレイしなければならない側に立たされているのだと理解した。夢の中では、ときどきこういう理解が先に来る。選択肢があるようで、最初からない。


 Sはレバーに触れた。


 冷たかった。


 画面の中には、白い点が一つあった。迷路のような線の中を動く、小さな白い点。敵も、目的地も、説明もない。Sがレバーを倒すと、その点だけがかすかに動く。右へ。上へ。左へ。単純なはずなのに、迷路の線は少しずつ形を変える。さっきまで通れたはずの道が塞がり、ないはずの壁が増え、画面の端にいた白点が一瞬で中央へ戻っている。


 スコアの表示はなかった。


 ただ、画面の上部に小さく、見慣れない語句が並んでいるだけだった。


 追跡

 保存

 再生

 記録


 Sは眉をひそめた。


 ゲームとして成立していない気がした。面白さも目的も見えない。ただ操作だけを要求されている。白点を動かしているうちに、それが自分自身なのではないか、という嫌な予感が生まれる。迷路の形はどこか廊下に似ていた。学校の。あるいは、デパートの売場の棚列に。


 画面の端から、黒い染みのようなものがにじみ始めた。


 白点は逃げるように動く。Sが動かしているのか、動かされているのかも曖昧になっていく。ボタンを押す。何も起きない。レバーを倒す。白点は思った方向と別の方へ流れる。


 その時、スピーカーからあの旋律(せんりつ)が流れた。


 前よりはっきりと。


 ゆっくりで、どこか祈りめいていて、けれど少しも安らかではない。Sは息を止めた。知っている。映画か舞台か、何かで聞いた覚えがある。名前も思い出せる気がした。マリー・アントワネット。そこに使われていた、たしか――


 思い出しきる前に、画面が真っ黒になった。


 音楽だけは続いている。


 Sはレバーから手を離した。離したのに、手のひらにはまだ筐体(きょうたい)の冷たさが残っていた。


 暗転した画面の中央に、白い文字が一行だけ現れた。


 REPLAY


 次の瞬間、映像が始まった。


 最初に見えたのは、夕暮れの色だった。


 校舎裏とも、公園の端ともつかない、曖昧な屋外。空の低いところだけが赤く、上へ行くほど鈍い青へ沈んでいる。フェンス。コンクリート。誰かの自転車。画面は少し引いた位置から、その場所を見ていた。


 Sの背筋が凍った。


 その場を知っていたからではない。知っているのに、そこに立っていた時の視点ではないからだ。これは自分の記憶ではない。少なくとも、自分の目から見た記憶ではない。誰か別の位置から撮られた映像だった。


 画面の左から、若い男が入ってくる。


 Sだった。


 今より幾分幼い。輪郭(りんかく)も、立ち方も、声を荒げる寸前の肩の張り方も、全部Sだった。夢の中でそれを眺めているSは、一瞬、自分自身に似た他人を見ているような気分になった。だがそれは逃避でしかなく、すぐに映像の中の少年が自分であることを認めざるを得なくなった。


 右側には、Hがいた。


 制服姿だった。髪は肩に触れる長さで、風が吹くたび少し揺れる。顔色は悪く、泣くのをぎりぎりで堪えている時の、人間の表情だった。目だけが赤い。さっきまで泣いていたのか、あるいはこれから泣くのか、その境目にいる顔。


 Sは画面から目を逸らせなかった。


 映像に音が戻る。


 最初はよく聞こえなかった。雑音が混じり、声がところどころ途切れる。だが、耳に刺さるところだけは妙にはっきりしていた。


『……ごめん、って、何回も言ってるやん』


 Hの声だった。


 関西の抑揚はあるが、柔らかい。泣きそうなせいで、語尾が少し擦れている。


『あれはほんまに、冗談のつもりやってん。軽かった。最低やった。それは分かってる』


 画面の中のSは、壁にもたれたまま、視線だけを冷たく向けていた。


『冗談で済む思ってたんか』


 その声を聞いた瞬間、夢の中のSは胃の奥を掴まれたような感覚を覚えた。


 自分の声だった。若い。荒い。まだ何も失っていないと勘違いしていた頃の、無駄に輪郭(りんかく)の尖った声。


 Hは何かを言おうとして、唇を噛んだ。肩が小さく震える。


『済むなんて思ってない。でも、ずっと謝ってるのに……S、全然聞いてくれへんやん』


『聞く必要あるか』


 短い。


 短く、硬い。


 それだけで、人を追い詰めるには十分な声だった。


 映像は少し揺れた。撮っている誰かが、その場で息を()んだように。


 画面の中のSは続ける。


『お前、いつもそうやろ。軽いねん。考えが。言うてええこととあかんことの線も分からん。趣味もそうや。人のこと馬鹿にするみたいなもんばっか好きで、真面目に話しても全部逃げる』


 夢の中のSは、耳を塞ぎたかった。


 だが身体が動かなかった。


 自分が言った言葉だった。忘れたことはなかった。細かな順番は違っても、似たようなことをもっと何度も言った。相手の好きなものを下げて、自分の尺度に合わないものを幼稚だと切って捨て、人格と趣味を一緒くたにして責めた。正しいことを言っているつもりでいた時期すらある。だから余計に、いま見ると救いがない。


 Hが首を振る。


『そういう言い方、ほんまにやめて』


『何で? 図星やから?』


『違う』


『違わんやろ』


 BGMはまだ流れていた。


 あの、()んでいて冷たい旋律(せんりつ)が、映像の下に薄く敷かれている。悪趣味だった。誰の趣味なのか分からない。だが、昔の自分の醜さを眺めさせるには、あまりにもよく合っていた。


 映像が少し飛んだ。


 次に映った時、Hはもう泣いていた。


 声を荒げて泣くのではない。息を詰まらせ、言葉のあいだで何度も喉を塞がせながら泣く、逃げ場のない涙だった。頬に髪が張りついている。手にはスマートフォンが握られていて、画面にはひびが入っていた。


『私、ずっと、ちゃんと考えてた』


 音が少し途切れる。


『Sのこと、好きやったし、大事やったし、……初めてやったし』


 そこで映像の焦点が一瞬だけずれた。


 だが、その一言だけは十分すぎるほど鮮明だった。


 初めて。


 夢の中のSは目を閉じたくなった。


 できなかった。


 初めてだった。Sにとっても、Hにとっても。触れたことも、受け入れたことも、その重さを互いに知ることも、全部初めてだった。それが何を意味するのかも分からない年齢のくせに、自分たちだけは例外で、特別で、続いていくものだと思い込んでいた。


 映像のSは、しかし、そこでも黙らなかった。


『なら何であんなこと言った』


『だから、ごめんって……』


『謝ったら何でも終わるんか』


『そういう話してないやん……!』


 Hの声が初めて崩れた。


『私、謝ってるだけちゃうやん。ずっと、どうしたらええか考えて、何回も話そうとして、でもSが……Sが聞いてくれへんかった』


 その「聞いてくれへんかった」が、夢の中のSの胸の奥へ沈んだ。


 映像はまた少し飛ぶ。


 遠くで、車のドアが閉まる音がする。誰かの咳払い。視界の端に、大人の影が二つか三つ映り込む。顔は見えない。輪郭(りんかく)だけがある。親なのだろう、とSには分かった。あの時も、そうだったからだ。自分たちだけでは終われなかった。終わらせるだけの成熟が、どちらにもなかった。


 Hは涙を拭こうともせず、必死に声を整えていた。


『もう、無理やと思う』


 その言葉が出た瞬間、映像の中のSの表情が変わった。


 怒りではなく、理解を(こば)む顔だった。自分が切り捨てられる側に回る可能性を、まだ現実として受け止めていない顔。


『は?』


『もう、私、無理』


『お前が決めることちゃうやろ』


『決めなあかんねん』


『何でや』


『しんどいから』


 Hはそう言った。


 短く、静かに。


 それまでのどの泣き声より、その一言が痛かった。


 しんどい。


 それは責めでも断罪でもなく、ただの事実だった。だからこそ逃げ場がない。夢の中のSは、その時の自分がその単語をまともに受け取らなかったことを知っていた。知っていて、それでも見るしかなかった。


 映像のSが一歩前へ出る。


『俺は納得してへん』


『分かってる』


『納得してへん言うてるやろ』


『分かってるって……』


『なら――』


 そこで映像に雑音が走った。


 言葉の後半は潰れた。だが、何を言ったのかは、見ているSの方がよく知っていた。納得していない。終われると思うな。勝手に決めるな。そういう意味の言葉を、もっと荒く、もっと未熟に吐いた。


 大人の影が一つ動く。


 誰かがHの肩を抱いた。画面の中のHが、そこで初めて小さく後ずさる。


『……高校卒業したら』


 唐突に、Hがそう言った。


 映像のノイズが減る。


 まるで、その言葉だけをきちんと記録するために、機械の方が息を潜めたみたいだった。


『高校卒業したら、私から連絡する』


 Sは凍りついた。


 画面の中の自分も、Hも、大人の影も、その一瞬だけ動きを止めたように見えた。


『それまでは連絡してこんといて』


 Hは泣きながら言う。


『必ず私からするから。……その時までに、Sがちゃんと変われるか、見るから』


 夢の中のSの喉が強く鳴った。


 これは自分が何度も何度も思い返した部分だった。後悔の核ではなく、それよりももっと危ういもの。救済がまだ完全には切られていないと信じるための、細い糸。Hは泣いていた。傷ついていた。限界まで追い込まれていた。それでも、あの時は最後にその言葉を置いた。


 映像のSはすぐには返事をしない。


 怒りと、納得のいかなさと、離れたくない感情と、自分が悪かったとはっきり認めたくない幼さが、顔のどこにも収まりきっていない。


『……ほんまやな』


 やがて、そう絞り出す。


 惨めな確認だった。


 それでもHは、涙を拭きながら頷いた。


『うん』


 その返事だけは、夢の中のSにとってあまりにも優しかった。


 映像がまた飛ぶ。


 次に映った時、二人はもう泣きながら離れていた。抱き合っているわけでもなく、手を繋いでいるわけでもない。ただ、数歩の距離を隔てて立ち、互いに泣いていた。あの時の空気だけが、妙に現実感を持って戻ってくる。冷えかけた夕方の風。フェンスの金属臭。遠くの車道の音。誰かが鼻をすすった気配。


 Hが顔を覆う。


 Sが一歩出かけて、止まる。


 その逡巡(しゅんじゅん)だけで、取り返しのつかなさが決まってしまった気がした。


 BGMの旋律(せんりつ)が、そこで少しだけ大きくなる。


 涙。


 夢の中のSは、ようやく題名を思い出した。だが思い出したところで何も救われなかった。その音楽は場違いなほど美しかった。美しいからこそ残酷だった。誰かの終わりに、こんなに澄んだ曲は似合いすぎる。


 映像の中で、Hが最後に何か言った。


 口の動きは見えた。だが音だけが消えていた。


 Sは必死にそれを読み取ろうとした。何て言った。何を言っていた。あの時、自分は何を返した。返せたのか。返せなかったのか。何度考えても、そこだけが曖昧だった。


 画面の中の自分が泣いている。


 Hも泣いている。


 大人の影がHを連れていく。


 Sは動けない。


 映像はそこで終わるはずだった。


 だが終わらなかった。


 暗転した画面の中に、次はメッセージの画面が映った。


 スマートフォンのトーク画面だった。上部にはアルファベット一文字の表示。


 H


 Sは息を呑んだ。


 実際のやり取りそのものではない。文字列は少しずつ滲み、読もうとすると解像度が落ちる。なのに、意味だけが分かる。返したくて返せなかった言葉。送ってはいけないと分かっていながら何度も打って消した言葉。変わったと思ってほしい、待っている、まだ好きだ、会いたい、ごめん。そんな類いの言葉が、送信欄の中で生まれては消えていく。


 送信ボタンだけが、ずっと押せる色をしていた。


 Sは筐体(きょうたい)の前で手を伸ばしかけた。


 自分が夢の中でゲームを見ているのか、映像の中のスマホを操作しようとしているのか、もう分からなかった。レバーはない。ボタンもない。ただ、目の前に「押してはいけない色」だけがある。


 その時、画面の上に白い文字が重なった。


 NOT YOUR TURN


 Sの手が止まる。


 同時に、スピーカーから女の声がした。


『再生を終了します』


 丁寧で、感情のない、あの声だった。


『記録は保存されました』


 何が保存されたのか分からない。


 いや、分かりたくなかった。


 画面が完全に暗くなり、黒い液晶にSの顔だけが映った。その(ほほ)は涙で濡れていた。夢の中で泣いているのか、現実で泣いているのか、もう区別がつかなかった。


 そこで、目が覚めた。


 部屋は暗かった。


 Sは仰向けのまま、しばらく動けなかった。胸の真ん中が鈍く痛い。寝起きの混乱ではない。もっと直接的な、思い出したくない記憶を無理やり皮膚の表へ出された後の痛みだった。


 (ほほ)に冷たいものが残っていた。


 涙だった。


 Sは片手で目元を拭い、荒い呼吸を何度か繰り返した。喉が詰まっている。鼻の奥が熱い。泣いて目が覚めること自体は、別に初めてではない。だが、あそこまで具体的な形で、あの場面を“見せられた”のは初めてだった。


 枕元のスマートフォンに手を伸ばす。


 画面が光る。


 午前四時二十六分。


 通知は、ない。


 Sは一度、それを見つめたまま止まった。


 指先だけがわずかに震えている。いま開けば、Hとのトーク画面は確かにそこにある。最後のやり取りも、そのまま残っている。何一つ増えていないことも、開く前から分かっていた。それでも見ずにはいられなかった。


 アプリを開く。


 最上部にHの欄がある。


 何年も変わらない位置に。


 押す。


 画面が切り替わる。


 当然、何も来ていない。


 それだけの事実なのに、Sの胸は、まるで今この瞬間に見捨てられたように痛んだ。約束の期限など、とっくに過ぎている。高校卒業どころではない。大学三回生になっても、連絡は来ていない。来ないこと自体が答えなのかもしれないと、頭では何度も考えた。だが、その考えはいつも途中で止まる。止めてしまう。Sの中では、まだ「待つ」が壊れていない。


 返信欄にカーソルを置く。


 白い空欄が、一行分だけ開く。


 Sはそこに、何も打てなかった。


 ごめん。


 の一文字目すら出てこない。


 謝罪は遅すぎる。愛情は重すぎる。近況報告は軽すぎる。どの言葉も正しくなく、全部が自分勝手だった。結局、Sは何も送らずに画面を閉じた。


 スマートフォンを伏せる。


 暗い天井を見る。


 耳の奥では、まだあの曲が鳴っていた。澄んでいて、冷たくて、異様に美しい旋律(せんりつ)が、夢の中の映像と一緒にこびりついて離れない。


 部屋の隅で、何かが小さく反射した気がした。


 Sはそちらを見た。


 何もない。


 ただ、カラーボックスの上に置いた鏡の縁が、街灯の光を少し拾っただけだ。


 それでも一瞬、その反射が古い筐体(きょうたい)の画面に見えた。黒く、沈んだ液晶。そこに、今の自分ではなく、泣いていた頃の自分の顔が映っている気がした。


 Sは目を閉じた。


 閉じても、映像は消えなかった。


 泣いているH。


 泣いている自分。


 言えなかった最後の言葉。


 送れないまま保存され続ける文面。


 朝が来ても、そのどれも薄まらない予感だけが、暗がりの中でゆっくり形を持っていった。

第三章「再上映」をお読みいただき、ありがとうございました。

本章では、ただ過去を振り返るのではなく、一度刻まれたものがいかにして現在へ影を落とし続けるのかを意識して描きました。

因果はまだ途切れず、物語はさらにその深部へと進んでいきます。

引き続きお付き合いいただけましたら幸いです。

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