第二章 『鬼の番』
第二章「鬼の番」をお送りします。
静かに積もっていた感情や違和感が、少しずつ輪郭を持ち始める章となっています。
人の内側にあるものが、必ずしも理性だけで制御できるとは限らない――そんな空気を感じていただければ幸いです。
翌日、Sは講義の最初から集中を失っていた。
黒板に書かれる文字が、妙に遅れて頭へ入ってくる。教授が何か統計の説明をしているのは分かった。標準偏差、分散、中央値。聞いたことのある単語ばかりのはずなのに、どれも一度、自分の中で別の文字へ置き換わってから戻ってくる。
標準偏差。
そう書かれたはずの文字列が、一瞬だけ、標準顔に見えた。
Sは目を瞬いた。次に見た時には、ちゃんと偏差と書いてある。周囲の学生たちは何も気づかずノートを取っていた。誰一人として、黒板の字が別の意味へねじ曲がったことなど知らない顔をしている。
Sはペンを置いた。
昨夜の夢は、目覚めた直後よりも、むしろ時間が経つほど鮮明さを増していった。細部は曖昧なのに、嫌な感触だけが落ちない。白い仮面。濡れた床。耳元で響いた、あの妙に丁寧な声。
講義が終わり、Sは人の流れに混じって教室を出た。廊下は昼休み前のざわつきで満ちている。友人同士の笑い声、階段を駆け下りる足音、自販機の電子音。そのどれもが現実の証拠のはずだった。だが、Sの中ではそれらが薄いガラス一枚向こうの出来事に聞こえていた。
中庭へ抜けると、どこか遠くから子どもの声がした。
大学の裏手には小学校がある。風向きによっては、昼休みの運動場のざわめきがそのまま流れてくることがあった。今日もそれだけのことだ、と理解はできた。理解はできたが、身体は理解に従ってくれなかった。
「鬼そっち!」
「逃げろって!」
金網越しの向こうから聞こえたその声に、Sの足が止まった。
胸の奥が一拍だけ強く縮む。喉に薄い膜が張ったように息がしづらい。たったそれだけの言葉だ。どこにでもある、子どもの遊び声だ。なのに、その二文字が、昨夜の夢とまだ見ていない次の夜を、一本の線で繋いだ気がした。
Sは金網の方を見なかった。見たところで、ただの昼休みが広がっているだけだと思ったからだ。もしそこに何か別のものが混じっていたら、その方がよほど困る。
施設へ向かうまでのあいだ、Sは何度も自分の手を見た。
右手も左手も、見慣れたままの形をしている。関節の位置も、爪の色も、皮膚の薄い傷跡も、全部いつも通りだ。なのに、見ているうちに、自分の手が「本来あるべき本数」でそこにあること自体が、急に不自然に思えてくる瞬間があった。
施設の業務は単調であるほど助かった。決まった時間に利用者を食堂へ誘導し、薬の確認をし、トイレ介助をし、夕方には居室へ戻す。身体を動かしていれば、余計なことを考える暇は減る。少なくとも、そう思っていた。
だがその日、Sは配膳の最中に一度だけ皿を落としかけた。
食堂の端で、男性利用者がむせこんだ。Sが慌てて駆け寄ると、その利用者は涙目のまま咳をしながら、それでも妙に愉快そうに笑った。
「わし、昔はなあ、よう鬼ごっこしたんや」
脈絡のない一言だった。
Sは背中をさすりながら、「そうなんですね」とだけ返した。利用者はまだ笑っていた。
「追いかける方はええけどな、追われる方は、しんどいな」
それだけ言って、老人はまた味噌汁へ視線を戻した。
たまたまだ、とSは思った。老人の言葉に深い意味はない。過去の遊びの記憶がふと出ただけだ。そう思いながら、Sは自分の手の動きがわずかにぎこちなくなっていることに気づいていた。
夜、帰宅してからも、眠るのが嫌だった。
だが眠らないわけにはいかない。スマートフォンを見ても、見たい通知は一つも来ていない。部屋の中にいても、何かが解決する気配はない。風呂へ入り、髪を雑に乾かし、部屋の明かりを消す。ベッドへ横になり、壁の方を向く。眠気が来るまでのわずかな時間だけ、Sは子どもの頃のことを思い出さないようにした。
それでも、夢は待っていた。
気づけば、校庭の砂を踏んでいた。
夕方でも朝でもない、時間の色が抜けたような空だった。雲は薄いのに太陽が見えない。小学校の校舎は、見覚えがある気もするし、全く知らない建物のようでもある。三階建ての白い校舎。鉄棒。錆びかけた雲梯。花壇の端に立つ二宮像。どれも小学校という言葉に必要な部品は揃っているのに、配置だけが少しずつおかしい。
たとえば、校庭が広すぎた。
走れば走るほど端が遠ざかりそうな広さで、それでいて遊具は妙に近く見える。校舎の窓の数は三階までしかないのに、見上げるたび四階分の高さがある気がする。朝礼台の横には水たまりがあり、乾いた砂の中でそこだけが黒く濡れていた。
Sは一人で立っていた。
周囲には子どもの笑い声が満ちているのに、姿だけが見えない。どこかの教室で椅子を引く音がして、すぐ近くでボールが弾む音がして、そのどちらも視界には入らない。
「おっそ」
声は、すぐ後ろからした。
Sが振り向くと、少年が立っていた。
小学校高学年くらいだろうか。短く切った髪、日に焼けた顔、土のついた半ズボン。走り回った後の子ども特有の汗と体温を、そのまま輪郭にしたような、元気そうな少年だった。笑っている。歯を見せて、何の屈託もなく。
ただ、右手だけが違っていた。
手、という形を、何か別の柔らかいものが不完全に真似たようだった。指は五本あるように見えるのに、見ているうちに四本にも六本にも思えてくる。関節の位置が妙にずれていて、握っているわけでも開いているわけでもない曖昧なかたちで垂れている。皮膚の色も、腕の他の部分より少しだけ白かった。水に長く浸かりすぎた皮膚のように。
Sは息を止めた。
少年はそれに気づいているのかいないのか、笑ったまま首を傾げた。
「やるやろ?」
「……何を」
「鬼ごっこ」
あまりにも自然に言われたので、Sは一瞬、返す言葉を失った。
少年は一歩近づいた。異形の右手は使わず、左手だけを腰のあたりでひらひら振る。
「逃げる方。Sが」
なぜ、自分の名前を知っているのか。
そう聞こうとしたが、先に口が動かなかった。夢の中では、名前を知られていることそのものが、もう質問の対象にならない時がある。分からないまま進むしかないと、身体が先に理解してしまう。
「何で俺が」
「今はそういう順番やから」
少年はあっけらかんと答えた。
Sの背中に、嫌な汗が滲む。
「鬼に捕まったら、次はお前。簡単やろ」
「……嫌や言うたら」
「嫌でも始まってるで」
その瞬間、校舎のどこかでチャイムが鳴った。
学校のチャイムにしては音が澄みすぎていた。鉄琴のような、ガラスを軽く叩いたような音色が、校庭の上を滑っていく。それが終わると同時に、少年が笑ったまま言った。
「じゃ、行くで」
Sは走っていた。
自分から走り出したのか、追われたから走ったのか、それすら分からなかった。ただ、校庭の真ん中に立ち尽くしているのだけはまずいと思った。砂を蹴り、昇降口へ飛び込む。靴箱が左右に並んでいる。名前の札は一つも読めない。ひらがなのはずなのに、視界に入るたび形が崩れる。
廊下は妙に長かった。
ワックスがけされたように光っているのに、足裏には少し湿り気がある。窓の外には校庭が見える。だが走りながら何度見ても、同じ位置に同じ雲梯がある。廊下をどれだけ進んでも、自分が一階にいるのか二階に上がったのか、いつからそうなったのかが曖昧になる。
背後から、少年の笑い声がした。
「逃げるん、はや」
楽しそうだった。怒ってもいないし、苛立ってもいない。本当にただの遊びとして鬼ごっこをしている時の声だった。それが一番嫌だった。悪意があれば、まだ理解ができる。だが、心から無邪気に追ってくるものは、何を考えているのか分からない。
Sは家庭科室の前を通り過ぎ、理科室の前を通った。掲示板には児童の絵が貼られている。クレヨンで描かれた家族の絵。遠足の風景。手形を押した工作。
その中の一枚だけ、手形の指の本数が合っていなかった。
見た瞬間、Sは目を逸らした。
廊下の突き当たりを曲がる。階段。上へ。二階。はずだった。だが上がり切った先の窓から見えたのは、さっきまでいたはずの一階の花壇と、同じ角度の二宮像だった。
「そこ、行き止まりやで」
すぐ近くで、少年の声がした。
Sは階段を踏み外しかけた。振り向く。誰もいない。なのに、笑い声だけがすぐ耳の後ろに残る。
その時、校内放送が入った。
『児童のみなさんにお知らせします』
女の声だった。
丁寧で、感情の薄い、聞き覚えのある声。
Sの背筋が一気に冷えた。デパートの館内放送と、全く同じ声だった。
『鬼ごっこは校内でも継続しております。見つかった人から、静かに列へお戻りください』
何の列だ。
どこへ戻るんだ。
Sは階段を駆け上がった。放送はそれ以上何も言わなかったが、その無言の方がかえって恐ろしかった。三階の廊下は薄暗い。教室の扉がいくつか開いている。中を覗くと、机と椅子は揃っているのに、人がいない教室と、人がいるのに全員が黒板へ顔を向けてこちらを見ない教室があった。
図工室の前を通りかかった時、Sは足を止めそうになった。
教室の中に、面が並んでいたからだ。
紙粘土で作られたお面。狐、鬼、動物、よく分からない笑顔。棚の上に何十枚も立てかけられ、乾くのを待っている。その一枚一枚が、図工の授業で作ったにしては、妙に目の穴の形が揃いすぎていた。
見てはいけないと思ったが、一番奥の棚に、白くて何も描かれていない面が置かれているのが見えた。装飾のない、ただの顔。
標準顔。
その単語が頭の中で勝手に浮かび、Sは図工室から目を逸らした。
走る。まだ走る。心臓が痛い。喉が乾く。夢のはずなのに、疲労だけが現実的だった。
廊下の先に音楽室があり、その向かいに職員室がある。Sは反射的に職員室へ逃げ込もうとした。教師がいる場所へ行けば何とかなる、という発想は、たぶん子どもの頃の癖だ。扉を開ける。中は薄暗く、誰もいない。机の上に湯呑みがあり、プリントが積まれ、黒板には「本日の予定」とだけ書いてある。
本日の予定
一時間目 生活
二時間目 生活
三時間目 鬼ごっこ
四時間目 生活
Sは扉を閉めた。
直後、すぐ外を誰かが走り抜ける足音がした。ばたばたではなく、軽い、子どもの足音だった。通り過ぎるかと思ったのに、職員室の前で止まる。
沈黙。
その沈黙の中で、Sは自分の呼吸だけがうるさすぎることに気づいた。
「おるやろ」
少年の声が、扉一枚向こうからした。
「分かるで」
Sは答えなかった。答えた瞬間、何かが決まる気がした。
少年は扉を開けようとしなかった。ただ、そこに立っている気配だけがあった。Sは後ずさりした。職員室の奥には別の出入口がある。そこから出られる。そう思って振り向くと、奥の扉の窓ガラスに、自分の姿が映っていた。
その肩越しに、もう少年が立っていた。
Sは息を呑んだ。
いつ入ってきたのか分からない。音もしなかった。ただ、そこにいた。さっきと同じ笑顔で、同じ無邪気さで、同じ右手を垂らして。
「はやいな」
Sの口から、かすれた声が出た。
少年は嬉しそうに頷いた。
「鬼やからな」
一歩、近づく。
Sは咄嗟に机を回り込んだ。少年は追う。でも走らない。ゆっくり歩くだけだ。職員室の狭い机のあいだを、Sだけが焦ったように動き回る。
「何やねん、お前……!」
絞り出すように言うと、少年は少しだけ考える顔をした。
「おれ?」
それから、何でもないことのように答えた。
「まだ順番前の鬼」
意味が分からない。
分からないのに、その言葉は妙に耳に残った。まだ順番前。鬼。交代。追う側。追われる側。
Sは机の端に足をぶつけ、よろめいた。体勢が崩れる。少年がそこで初めて、異形の右手を少しだけ持ち上げた。
Sはその手から目を離せなかった。
近くで見ると、やはり形が定まらない。指の長さが見るたび違う。爪のあるはずの位置がつるりとしていて、その代わり関節のないところが折れ曲がっている。生き物の手というより、手になりきれなかった何かが、無理やりそこへぶら下がっている感じだった。
「それで、触るんか」
Sは訊いたというより、漏らした。
少年は首を横に振った。
「まだ」
「……まだ?」
「これは最後に使うから」
笑ったまま、そう言う。
Sの背中がぞっとした。
校内放送がまた入った。
『鬼が交代する時間です』
女の声は静かだった。
『逃げる人は、まもなく追う側になります』
そこで初めて、Sは自分がずっと逃げているだけでは終わらない夢の中にいると悟った。捕まること自体が恐ろしいのではない。捕まった後、自分が何になるのか分からないことの方が、ずっと怖かった。
少年が一歩、踏み出した。
Sは反射的に職員室を飛び出した。廊下を走る。走って、走って、曲がって、どこへ向かっているのかも分からないまま、気づけば教室の前にいた。四年二組。札だけが、やけにはっきり読めた。
扉は半分開いていた。
中から、子どもの歌声がする。
Sは逃げ込むように教室へ入った。
そこには児童がいた。
全員が席に座り、前を向いていた。背筋を伸ばし、机の上に手を置き、黒板へ顔を向けている。歌っているのに、口の動きと声が合っていない。黒板には白い字でこう書かれていた。
きょうのあそび
おにごっこ
つかまったひとは しずかにすること
Sが一歩踏み込んだ時、最前列の児童がゆっくり振り返った。
顔に、白い面をつけていた。
穴だけが開いている。何も描かれていない。標準顔よりもさらに無表情な、ただの白い面。
それを合図にしたように、教室の全員が一斉に振り返った。
白い面、白い面、白い面。
その列のあいだから、少年の笑い声がした。
「見つけた」
Sは後ずさった。踵が教卓にぶつかる。逃げ場がない。少年が児童たちの列のあいだをすり抜けて前へ出てくる。左手だけを軽く振り、右手はぶら下げたまま。
「なあ、S」
教室の中央で、少年は立ち止まった。
「鬼ごっこってな、鬼になったら終わりちゃうねん」
笑顔のまま、言う。
「順番が回るだけや」
その言葉と同時に、教室の窓の外でチャイムが鳴った。
ガラスを叩くような澄んだ音。
少年の右手が、ゆっくり持ち上がる。
その白く歪なものが、Sの胸元へ伸びてくる。
触れられる、と思った瞬間、目が覚めた。
Sは喘ぐように息を吸い込み、ベッドの上で跳ね起きた。
真っ暗だった。
時計を見る。午前三時十二分。部屋の空気は冷たいのに、寝間着の背中は汗で湿っている。喉が焼ける。心臓が暴れている。しばらく、自分が大学生で、一人暮らしの部屋にいて、いま見ていたのが夢だと理解するまでに時間がかかった。
手。
最初にそう思った。
Sは布団の上で、自分の右手と左手を見た。どちらもいつも通りだった。指は五本。関節も爪も、見慣れたまま。なのに、右手だけが自分のものではないような鈍い違和感を残していた。握る。開く。問題ない。感覚もある。
それでも、掌の中心だけが冷えていた。
Sはベッドを降り、キッチンへ向かった。水を飲む。蛇口をひねる音がやけに大きい。コップの縁が歯に当たって、小さく鳴った。
その時、外から子どもの声がした。
こんな時間に、と思った。だが耳を澄ませば、それは子どもではなく、隣室のテレビか何かの音かもしれなかった。遠くて、薄くて、判別がつかない。
「つかまえた」
そう聞こえた気がして、Sはコップを強く握った。
次の瞬間には、ただのノイズに戻っていた。
朝になるまで、Sはほとんど眠れなかった。
大学へ向かう道すがら、裏手の小学校の前を通った時、校門のところに一人の男子児童が立っているのが見えた。ランドセルを背負い、友達を待っているのか、門柱にもたれている。ごく普通の光景だった。
その子どもが、Sの方を見た。
ただそれだけで、Sは足を止めた。
距離はあった。顔もはっきり見えない。右手はランドセルの肩紐を握っていて、別に異形でも何でもないように見える。それでも、その子どもは確かにSを見て、口元だけで笑った気がした。
Sはすぐに目を逸らし、歩き出した。
振り返らなかった。
振り返った瞬間、何かが本当に繋がってしまう気がしたからだ。
講義へ向かう人の流れに混じりながらも、Sの耳にはまだ、あの校内放送の声が残っていた。
鬼が交代する時間です。
その言葉だけが、午前の薄い光の中で、異様にはっきりしていた。
第二章「鬼の番」をお読みいただき、ありがとうございました。
本章では、表に見える言動だけでは測れない感情や気配を、少しずつ滲ませることを意識しました。
ここから先、因果の連鎖はさらに色を濃くしていきます。
引き続きお付き合いいただけましたら幸いです。




