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第一章 『仮面売場』

本作『匿S氏・カルマ連鎖』は、人の内側に潜む感情や執着、そして逃れがたく巡っていく因果を主題に描いた物語です。

静かな痛みと歪みを孕んだ世界を、少しずつ辿っていただければ幸いです。

どうぞ最後までお付き合いください。

 眠りは、休息ではなくなって久しかった。


 Sがそれを自覚したのは、いつ頃からだったか、もう曖昧だった。大学の講義中、黒板の文字を追っているつもりで、気づけばまるごと一行飛ばしている。介護施設の休憩室で紙コップのぬるいコーヒーを口に含んでも、頭の芯にへばりついた鈍さは剥がれない。朝、鏡を見れば目の下に薄い影が落ちていて、日によっては、それが自分の顔ではないように見えることすらあった。


 寝れば、夢を見る。


 ただし、普通の夢ではない。


 目が覚めた瞬間から、内容が指の隙間を抜ける砂みたいに崩れていくくせに、すべてが消えるわけではない。何か一つ、妙に手触りのある断片だけが残る。そしてその断片は、忘れた頃ではなく、忘れる前に現実へ出てくる。


 気のせいで片づけるには、回数が多すぎた。


 Sには、思い当たることが多すぎた。


 それでも昼は来るし、夜も来る。世界は律儀に同じ顔をして回り続ける。だからSもまた、起きて、着替えて、大学へ行き、講義を受け、夕方になれば施設へ向かう。利用者の車椅子を押し、食事を運び、名札の付いた笑顔を作る。以前の自分を知る者が見れば、鼻で笑うような暮らしだった。


 更生、という言葉は好きではなかった。


 まるで、線を一本越えた途端に人間が別物へ変わるみたいに聞こえるからだ。実際にはそんなことはない。人は変わる前の自分を体内に残したまま生きる。抜けきらない癖も、染みついたものの見方も、咄嗟(とっさ)に出そうになる言葉も、全部まとめて抱えたまま、少しずつ息の仕方だけを覚え直していく。


 Sはそういう意味で、まだ途中だった。


 施設からの帰り道、街は中途半端に濡れていた。夕方に降った雨の残りが、街灯の色だけを水たまりに貼りつけている。コンビニの自動ドアが開くたび、温い空気と揚げ物の匂いが漏れ、Sはそれを横目に通り過ぎた。腹は減っていたが、食欲はなかった。ここ数日ずっとそうだった。食べても味がしないわけではない。ただ、口に入れる理由が分からない。


 マンションの階段を上がり、自室に入る。靴を脱ぎ、鞄を床に置いた瞬間、足元が少し揺れた気がした。


 疲れているだけだ、とSは思った。


 それでも、部屋の明かりを点けた直後、壁際に誰か立っていた気がして肩が強張(こわば)った。もちろん何もいない。安いカラーボックスと、積み上がった教科書と、脱ぎっぱなしの上着があるだけだ。


 Sは短く息を吐いた。自分で自分に怯えるのは、もう珍しくもなかった。


 風呂に入る気力はなく、顔だけ洗ってベッドへ倒れ込む。枕元のスマートフォンを手に取り、画面をつけた。通知はほとんどなかった。大学の連絡が一件、バイト先のグループ通知が一件、それだけだった。


 見たいものは来ていない。


 来るはずのものも、来ていない。


 Sは何も開かずに画面を伏せた。


 部屋は静かだった。静かすぎて、冷蔵庫の駆動音が遠くの唸りみたいに聞こえる。天井の染みが暗がりの中で形を変える。目を閉じれば、眠りに落ちるまでのわずかな時間だけ、自分の身体がちゃんと自分のものに戻る気がした。


 その感覚も、いつも最初だけだった。


 気づけば、Sは館内放送を聞いていた。


 夢の始まりにしては、やけに現実的な女の声だった。抑揚の少ない、丁寧すぎる声で、何かを案内している。


『本日もご来館いただき、誠にありがとうございます』


 まぶたを開けるより先に、足の裏に妙な感触があった。硬いが、わずかに沈む。安っぽい絨毯(じゅうたん)の上に立っている感覚だ。


 Sは顔を上げた。


 デパートだった。


 いや、正確には、デパートのようなものだった。


 吹き抜けの高い天井。幾重にも渡された白い(はり)。エスカレーターの銀色の手すり。案内板。観葉植物。遠くから漂ってくる油と甘い菓子の匂い。どれも知っているはずの造形なのに、全部が少しずつ噛み合っていない。床はやけに(つや)があり、磨かれているというより濡れているように見えた。明るすぎる照明のせいで、床に映る人影だけが異様に薄い。


 周囲には客がいた。


 家族連れ、年配の夫婦、制服姿の高校生らしき一団。誰もが普通に歩いている。買い物袋を提げ、会話をし、ときおり立ち止まってショーケースを覗く。そのどれもが日常的であるはずなのに、Sはその場に立った瞬間から「ここにいてはいけない」と理解していた。理由は分からない。ただ、分からないことの方がむしろ確かだった。


 正面の案内板には、階ごとの案内が並んでいた。


 一階、食料品・日用品。

 二階、婦人服・服飾雑貨。

 三階、紳士服・寝具。

 四階、催事場・食堂・水族館。

 五階、玩具・文具・仮面・革製品。


 水族館。


 Sは案内板を見上げたまま、一度瞬きをした。


 見間違いではなかった。催事場(さいじじょう)や食堂に並ぶかたちで、確かに水族館と書いてある。奇妙なのはその一点だけではない。文字の大きさも、フォントも、他の案内に揃えてあるくせに、その単語だけが別の紙に後から刷って貼り足されたような違和感を放っていた。


 上階から子どもの笑い声が聞こえた。


 Sは歩き出した。止まっている方がまずい気がしたからだ。何がまずいのかは分からない。だが、夢の中では分からないまま従った方がいいことがある。Sはそれを、経験で知っていた。


 一階の食品売場はひどく広かった。照明は温かい色味なのに、陳列されたものにはどこか湿り気がある。野菜の表面は妙に光っているし、魚の切り身は鮮やかすぎた。レジの前を通り過ぎると、並んでいる客たちは静かすぎた。かごいっぱいに商品を詰めているくせに、誰一人として会話をしていない。袋詰めの音だけがぱりぱりと響いている。


 食堂の案内に矢印がついていたので、Sはそれに従った。通路の先に、ファミリーレストランに似た広い空間が口を開けている。入口には大きな看板が出ていた。


 食べ放題

 五割外国産


 Sは立ち止まった。


 意味がよく分からなかった。外国産の何が五割なのか、その表記に誰が安心するのか、あるいは誰が不安になるのか、判断のしようがない。なのに文字だけは必要以上に太く、赤く、視界に張りついて離れなかった。


 食堂の中では大勢が食事をしていた。トレーを持って歩く親子連れ、カレーをかきこむ中年の男、皿を山ほど積み上げた学生風の集団。だが彼らの食べ方は、どこか急いでいた。箸やスプーンを動かす手つきだけがせわしなく、顔は無表情だった。会話も笑いもあるにはあるのに、音だけが薄い膜一枚越しに聞こえる。


 奥の壁際にドリンクバーが見え、そのさらに向こう、ガラス張りの通路の先に青い光が揺れていた。


 水族館だった。


 食堂の横に、そのまま繋がるようにして水族館がある。境目らしい境目はなく、ただ床の色だけが途中から深い青に変わっている。通路の脇を巨大な水槽が覆い、魚の群れがゆっくり横切っていく。銀色の魚体が照明を弾き、壁に波のような光を作っていた。


 Sは思わずそちらへ足を向けた。


 通路に入った途端、空気が変わる。冷たいわけではない。湿っているのだ。潮の匂いと、濡れたコンクリートの匂いが混ざり合って鼻につく。足元の床はほんの少しだけ水を含んでいて、歩くたび靴底が張りつく。壁に沿って並ぶ水槽の中では、魚だけではなく、何か白いものが沈んでいるのが見えた。布のようでもあり、紙のようでもあり、人の手袋のようでもあった。


 Sは目を逸らした。


 その時、また館内放送が流れた。


『五階、仮面売場よりお知らせいたします』


 女の声は相変わらず丁寧で、感情がほとんどなかった。


『ただいま人気商品、皮革面の再入荷がございました。お顔に合うものをお選びください』


 皮革面。


 言葉の意味は分かる。分かるはずなのに、頭の中ではうまく像を結ばない。革でできた面。仮面。マスク。顔にかぶせるもの。そこまで考えた瞬間、なぜか自分の(ほほ)に他人の体温が触れた気がして、Sは思わず顔を撫でた。


 指先に何も触れない。


 それでも、すぐに五階へ行かなければならない気がした。


 エスカレーターは、乗っている間だけ妙に長かった。上へ運ばれているはずなのに、何階分進んだのか分からない。階下を見下ろすと、一階の床が遠すぎる。食堂の看板が豆粒みたいに小さい。水槽の青い光だけが、なぜか近く見えた。


 五階に着くと、空気が少し乾いていた。


 玩具売場の電子音が遠くで鳴っている。文具売場には、色鉛筆やノートが几帳面に並び、制服姿の少女が一人、消しゴムを見つめていた。その横を通ると、仮面売場の案内板が見えた。白地に黒文字で、簡素すぎるほど簡素に「仮面」と書かれている。


 Sはその方向へ歩いた。


 通路を曲がった先に、売場はあった。


 最初に見えたのは、棚だった。背の高い什器(じゅうき)が何列も並び、その両側に仮面が吊るされている。狐、鬼、能面、舞踏会で使うような半面、動物の顔を模したもの、無地の白い顔、口だけが極端に大きいもの、目の位置が少しずれているもの。素材もばらばらで、紙、木、陶器、布、金属、そして革。照明は白いのに、売場全体は薄暗く見えた。


 棚のあいだを歩く客の姿は、なぜか少なかった。二、三人しかいないはずなのに、誰かがすぐ後ろを通った気配だけは何度もした。


 Sは一枚の仮面の前で足を止めた。


 白い、何の装飾もない仮面だった。目と口の穴だけが開いていて、鼻筋だけがやけに通っている。人間の顔を真似ているはずなのに、あまりにも何も足されていないせいで、逆に生々しかった。値札を見ると、商品名の欄にはこう書いてあった。


 標準顔


 Sは眉をひそめた。


 その隣には、革でできた面が並んでいた。色は深い茶、黒、赤茶。表面には(しわ)のような筋があり、縫い目は整いすぎていた。商品の形は仮面とも呼べるし、顔の一部だけを切り取って乾かしたものにも見えた。(ほほ)まで(おお)うもの、(ひたい)だけ妙に大きいもの、口元が閉じているもの。値札には「皮革面」「記念用」「保存向」「上質」など、言葉として成立しているようでいて内容の曖昧な説明が並んでいた。


 棚のさらに奥に、革製品コーナーがあった。


 財布や鞄が置いてあるのかと思ったが、違った。そこに並んでいたのは、用途の判然としないものばかりだった。細長い革片に金具がついたもの。丸い留め具だけが何十個も埋め込まれた平たいもの。指を入れるようなくぼみがあるのに、指の本数と合わない手袋のようなもの。どれも店頭に並ぶ商品としては不親切すぎる見た目をしていて、それなのに値札とバーコードだけは几帳面に付いていた。


 ひどく静かだった。


 玩具売場の電子音も、館内放送も、遠のいていた。


 Sは何列目かの棚を曲がったところで、自分が迷っていることに気づいた。入口の位置が分からない。さっき通ったはずの白い仮面の棚がまた目の前にある。標準顔。皮革面。保存向。記念用。見覚えのある文字列が、少しずつ順番を変えて現れる。


 その時、棚の向こうに、自分と同じくらいの背丈の影が立っているのが見えた。


 客だと思った。


 だが、その影は動かなかった。こちらを見ている気がした。Sは一歩踏み出しかけ、それをやめた。棚の端からそっと覗き込む。


 誰もいなかった。


 代わりに、一枚の仮面だけが棚から外れ、床に落ちていた。


 音は聞こえなかったはずなのに、落ちたと分かった。


 Sはその仮面を見下ろした。革製の、口のない仮面だった。目の穴は細く切られ、内側は暗く塗りつぶされている。妙なのは、床に落ちている角度だった。表向きではなく、こちらを見上げるように、顔の側を上にして転がっている。


 Sは息を詰めた。


『お顔に合うものをお選びください』


 すぐ後ろで、館内放送の声がした。


 近すぎた。


 売場中に流れているはずの放送ではなく、誰かが耳元で(ささや)いたような距離だった。Sは反射的に振り返った。だが後ろには、棚しかない。白い仮面が無数に吊るされている。どれも同じ角度で前を向いている。穴のあいた目の奥だけが、妙に深かった。


 Sは逃げるように通路を抜けた。


 どこをどう走ったのか、自分でも分からなかった。ただ、足元の床がいつの間にか乾いておらず、濡れていた。仮面売場なのに、水の匂いがした。棚の合間を駆け抜けるたび、白い面の列が視界の端を滑っていく。そのどれか一つだけが、自分と同じ顔をしている気がした。


 出口が見えた時、Sはほとんど転ぶようにそこへ飛び出した。


 息が苦しい。喉が焼ける。だが、五階の通路には何事もない空気が戻っていた。文具売場の前で子どもが泣き、母親らしき女がなだめている。玩具売場の電子音もまた聞こえている。さっきの異様な静けさだけが、売場の中に置き去りにされたようだった。


 Sは足を止めず、そのままエスカレーターへ向かった。


 帰らなければならない、と思った。


 どこへ帰るのかは分からない。ただ、この場所から離れなければならないことだけは明白だった。


 エスカレーターへ乗る直前、吹き抜けの下から青い光が揺れた。四階の水族館の辺りだろう。そこに、魚の群れではない何かがゆっくり動いた気がした。白く、細長い、布のようなもの。あるいは手袋。あるいは、掌だけ切り取られたような何か。


 見なかったことにして、Sは下りの段へ足をかけた。


 その瞬間、デパート全体の照明が一度だけ脈を打つように明滅した。


 客たちの足が止まる。


 館内放送も、電子音も、皿の触れ合う音も、すべてが一拍だけ消える。


 沈黙の底から、またあの女の声が流れた。


『本日もご来館いただき、誠にありがとうございました』


 閉店の挨拶にしては、早すぎる。


 Sがそう思った直後、吹き抜けの向こう、四階と五階のあいだの空中に、白い仮面が一枚だけ浮いているのが見えた。


 誰もそれを見ていなかった。


 仮面には穴しかないはずの目があって、その奥が暗かった。


 見返した瞬間、Sの首筋を冷たいものが撫でた。


 そこで、目が覚めた。


 天井があった。見慣れた、自室の天井だった。染みの位置も、薄汚れた照明の縁も、ちゃんと知っているはずのものだ。


 呼吸だけがうまくできない。


 Sは跳ねるように身を起こした。喉が乾いている。額には汗。手のひらが冷たい。部屋はまだ暗く、カーテンの隙間から青白い朝の気配が差し込んでいた。


 夢。


 そう思っても、すぐには身体が納得しなかった。


 Sは顔を両手でこすり、ベッドの縁に座ったまま床を見た。フローリングは乾いている。棚も、カラーボックスも、脱ぎっぱなしの上着も、昨夜のままだ。館内放送は聞こえない。潮の匂いもしない。


 なのに、指先だけが妙にざらついている気がした。


 Sは手のひらを見た。何もついていない。何も、ない。


 枕元のスマートフォンを見る。時刻は午前五時三十七分。通知は増えていなかった。画面に映り込んだ自分の顔は青白く、起きた直後だというのにどこか疲れ果てて見えた。


 Sは水を飲もうとして立ち上がり、部屋の隅にあるカラーボックスへ目を向けた。


 最上段に、見慣れないものがある気がした。


 白い、平たいもの。


 Sは一歩だけ近づいた。


 それは、昨夜コンビニでもらったレシートだった。折れ曲がって、棚の端に引っかかっていただけだ。


 馬鹿らしい、とSは思った。


 そう思ったのに、胸の動悸は収まらない。


 洗面台へ向かう途中、ふと玄関脇の姿見が目に入った。そこには寝癖のついた自分が映っている。それだけだ。だが、すれ違いざま、鏡の中のSの頬だけが一瞬、白く塗りつぶされて見えた。


 Sは足を止めた。


 もう一度見た時、鏡にはいつもの顔しかなかった。


 ……寝不足だ。


 それで終わらせるには、喉の奥に残った感触が生々しすぎた。まるで、硬く乾いた何かが、さっきまで自分の顔の上に載っていたみたいだった。


 洗面台で水を出し、手を濡らす。蛇口から流れた水は透明で、当然、何の匂いもしない。Sは顔を洗い、目を閉じた。(まぶた)の裏にはまだ、白い仮面の列が吊るされていた。


 大学へ行かなければならない。


 バイトにも行かなければならない。


 今日もまた、その二つのあいだで普通の顔を作らなければならない。


 Sは濡れた手で縁を掴み、(うつむ)いたまま、しばらく動かなかった。


 鏡の前に立つのが、少しだけ怖かった。

第一章をお読みいただき、ありがとうございました。

ここから『匿S氏・カルマ連鎖』は、人物たちの感情や過去、そしてそれぞれが抱える“業”を絡めながら進んでいきます。

少しでも続きを気にしていただけたなら、とても嬉しく思います。

今後ともよろしくお願いいたします。

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