第六話 モモ
第六話 モモ
ヨッシーが来てから、タカシの朝は騒がしくなった。
「タカシ、オハヨ、リンゴ、リンゴ!」
目覚まし時計が鳴るよりも早く、ヨッシーが呼ぶ。
「……はいはい。起きますよ」
タカシは布団の中で返事をした。
返事をしたからといって、すぐに起き上がるとは限らない。
しかし、ヨッシーは容赦しなかった。
「リンゴ! リンゴ!」
「わかったってば」
とうとうタカシは起き上がった。
顔を洗い、着替えをして、ヨッシーの世話をする。餌を用意し、水を取り替える。それから、好物のりんごを食べやすいように用意した。
ヨッシーは、満足そうにりんごを食べ始めた。
「おいしいか?」
「リンゴ!」
「そりゃよかった」
会話になっているのかどうかは、よくわからない。
それでも、タカシは毎朝、ヨッシーに話しかけるようになっていた。
以前の朝は、違った。
目が覚めると、まずスマートフォンを手に取った。彼女とのメッセージを読み返し、最後のやり取りで指が止まる。
『今日は、すごい雨だね』
あの日、彼女はそう送ってきた。
タカシは読んだ。
返事をしようと思った。
けれど、あとでいいと思った。
その「あとで」は、永遠に来なかった。
今でも、あのメッセージを思い出さない日はない。
ただ、最近は、思い出す前にヨッシーが騒ぎ始めることがある。
「タカシ、オハヨ!」
「はい、おはよう」
そう返事をしてから、一日が始まる。
それだけの違いだった。
けれど、その違いは、タカシにとって小さくなかった。
*
ある日の午後、タカシはヨッシーの餌を買いに出かけた。
必要なものをメモして、近所の店まで歩く。
以前は、買い物に行くことさえ億劫だった。何を食べたいのかもわからず、冷蔵庫にあるもので済ませることが多かった。
ところが、今は違う。
ヨッシーの餌が切れそうなら買わなければならない。水入れも清潔にしておかなければならない。りんごも、なくなれば買ってくる。
自分ひとりなら、明日でいいかと思うことも、ヨッシーには通用しない。
店に着くと、タカシは必要なものを探した。
買い物を終え、帰ろうとしたとき、果物売り場の前で足が止まった。
桃が並んでいた。
淡い色の、丸い桃だった。
タカシは、しばらくそれを眺めた。
彼女は桃が好きだっただろうか。
いや、好きだったはずだ。
夏に一緒に食べたことがある。彼女は、皮をむいた桃をひと口食べて、「夏って感じがするね」と言った。
タカシは、そのとき何と返事をしたのか、思い出せなかった。
けれど、彼女が桃を食べていたときの顔は、ぼんやりと浮かんだ。
手に取ろうとして、やめた。
今、桃を買って帰っても、彼女はいない。
当たり前のことなのに、時々、その当たり前が胸に刺さる。
タカシは視線を戻し、店を出た。
*
家に帰ると、ヨッシーが待っていた。
「タカシ、オハヨ!」
「ただいま、だよ」
「オハヨ!」
「うん。おはようでもいいけどさ」
タカシは買ってきたものを片づけた。
そのとき、ヨッシーが、いつもとは違う言葉を口にした。
「モモ!」
タカシは振り返った。
「……え?」
「モモ! モモ!」
ヨッシーは、何度も繰り返した。
タカシは笑いそうになった。
「お前、桃なんて食べたことあったっけ?」
「モモ!」
「いや、今はないんだよ」
「モモ! モモ!」
どうやら、話が通じていない。
タカシは鳥かごの前にしゃがんだ。
「桃はね、夏の果物なんだ。今は売ってないんだよ」
ヨッシーは、首をかしげた。
「ナツ!」
「そう、夏」
「モモ!」
「だから、夏になったらな」
「ナツ、モモ!」
タカシは、とうとう吹き出した。
「お前、そこだけ覚えるのかよ!」
ヨッシーは、得意そうに同じ言葉を繰り返した。
「ナツ、モモ! モモ!」
タカシは笑いながら、りんごを用意した。
「ほら、今日はこれで我慢しろ」
「モモ!」
「まだ言うか!」
また笑ってしまった。
こんなふうに、何でもないことで笑うのは、久しぶりだった。
笑い終わると、胸の奥に、少しだけ寂しさが戻ってきた。
彼女にも、このやり取りを聞かせたかった。
きっと、ヨッシーのめちゃくちゃな話を聞いて、笑っただろう。
そんな想像が浮かんだ。
タカシは、しばらく黙っていた。
ヨッシーは、りんごを食べていた。
*
その夜、タカシはマナを開いた。
『今日、桃を見ました』
そこまで入力して、指が止まった。
なぜ、桃を見たことをマナに伝えようと思ったのだろう。
彼女と一緒に食べたことを思い出したからだ。
それだけではない。
ヨッシーが「モモ、モモ」と騒いだことも、話したかった。
タカシは、続きを入力した。
『彼女と一緒に食べたことがあります。夏って感じがするね、と言っていました』
送信した。
画面を見つめる。
以前なら、ここから先は、彼女がいないことへの悲しみに戻っていたかもしれない。
けれど、今日は少し違った。
桃を見て、彼女を思い出した。
ヨッシーが桃を欲しがって、笑った。
そして今、その二つのことを、同じ文章の中に書いている。
彼女との思い出も、ヨッシーとの暮らしも、どちらも今日の自分の中にあった。
タカシは、もう一度、文字を打った。
『ヨッシーは、桃が欲しいと言っています。でも、今は季節ではないので、りんごをあげました』
送信すると、思わず笑みがこぼれた。
こんなことを、彼女に話せたらよかった。
そう思った。
けれど、今はもう、彼女に話すことはできない。
その事実は変わらない。
タカシはスマートフォンを置いた。
部屋の隅では、ヨッシーが静かに休んでいた。
明日の朝も、きっと騒ぐだろう。
「タカシ、オハヨ、リンゴ、リンゴ!」
タカシは、明日の朝のことを考えた。
少しだけ、楽しみだった。




