第五話 オウムのヨッシー
第五話 オウムのヨッシー
やえ子おばさんが亡くなったと聞いたのは、十月の初めだった。
電話をくれたのは、おじさんだった。
タカシは、スマートフォンを耳に当てたまま、しばらく言葉が出なかった。
やえ子おばさんは、母の姉だった。タカシが小さい頃から、ずいぶんかわいがってくれた人だ。
遊びに行くと、いつも何か食べるものを出してくれた。帰り際には、玄関まで出てきて、「またおいで」と手を振ってくれた。
そして、おばさんの家には、ヨッシーがいた。
緑色の羽と、よく動く首。人の言葉をまねするのが得意なオウムだった。
タカシがまだ小さかった頃から、ヨッシーはそこにいた。
おばさんの家に行くと、タカシは真っ先にヨッシーのところへ行ったものだった。
ヨッシーは、桃太郎や浦島太郎の昔話が得意だった。
ただし、最後まで正しく話せるとは限らなかった。
それでも、タカシは面白くて、何度も話をせがんだ。
あの頃は、そんな時間が、いつまでも続くような気がしていた。
*
「タカシくん、お願いがあるんだ」
電話の向こうで、おじさんが言った。
おじさんの声は、いつもより弱々しかった。
「ヨッシーのことなんだけどね」
おじさんとやえ子おばさんには、子どもがいなかった。
二人で暮らしてきた家に、今はおじさんひとりが残されていた。
「わしも、世話をしてやりたいとは思うんだ。でも、どうにも気力が出なくてね。餌をやったり、掃除をしたり……今までどおりにできるか、自信がないんだよ」
タカシは黙って聞いていた。
「タカシくん。ヨッシーを引き取って、面倒を見てくれないかな」
自分の生活だって、まともにできているとは言えなかった。
朝、目が覚めても、すぐには起き上がれない。
食事をするのも面倒で、気がつけば、昼を過ぎていることもあった。
そんな自分に、オウムの世話ができるだろうか。
少し迷った。
けれど、頭に浮かんだのは、鳥かごの中からこちらを見ていた、ヨッシーの丸い目だった。
「……僕で、いいんですか」
「タカシくんがいいんだよ。小さい頃、よく遊んでくれたからね」
おじさんは、少し間を置いた。
「ヨッシーも、君のことを覚えているかもしれない」
タカシは、昔のことを思い出した。
ヨッシーに向かって、何度も名前を呼んだこと。
めちゃくちゃな昔話に、お腹を抱えて笑ったこと。
そして、いつの間にか、おばさんの家に行く機会が減ってしまったこと。
「わかりました。僕でよければ、引き取ります」
そう答えると、電話の向こうで、おじさんが小さく息を吐いた。
「ありがとう。助かるよ」
その声を聞いて、タカシは、引き受けてよかったのかもしれないと思った。
*
ヨッシーがやって来た日、タカシは部屋を片づけた。
鳥かごを置く場所を決め、餌や道具を並べた。
おじさんからは、普段の世話について、いろいろと教えてもらった。
タカシはメモを取りながら聞いた。
久しぶりに、誰かの話を真剣に聞いている気がした。
おじさんが帰ったあと、部屋の中には、タカシとヨッシーだけが残された。
「ヨッシー。久しぶりだな」
タカシは鳥かごのそばにしゃがみ込んだ。
ヨッシーは、じっとこちらを見ていた。
「覚えてるか?」
返事はなかった。
タカシは、少し笑った。
「まあ、忘れちゃったよな。ずいぶん会ってなかったもんな」
ヨッシーは、首をかしげた。
それから、小さな声で何かをつぶやいた。
聞き取れなかった。
「なんだよ。もう一回、言ってみろよ」
ヨッシーは答えなかった。
タカシは立ち上がり、夕食の支度を始めた。
久しぶりに、自分以外の誰かがいる部屋だった。
けれど、その夜はまだ、少し落ち着かなかった。
ヨッシーも、いつもと違う場所で過ごす最初の夜だった。
*
翌朝。
タカシは、鳥の声で目を覚ました。
「タカシ、オハヨ、リンゴ、リンゴ!」
布団の中で、タカシは目を開けた。
今、なんと言った?
「タカシ、オハヨ、リンゴ、リンゴ!」
もう一度、聞こえた。
タカシは、ゆっくりと上半身を起こした。
「……ヨッシー?」
鳥かごの中で、ヨッシーが首を傾けている。
タカシは、その姿を見つめた。
それから、笑った。
「お前、僕のこと、覚えてたのか」
ヨッシーは、そんな質問には興味がないらしい。
「リンゴ、リンゴ!」
「はいはい。わかったよ」
タカシは布団から出た。
ヨッシーが、また鳴いた。
「タカシ、オハヨ!」
「おはよう、ヨッシー」
タカシは、そう答えた。
声が自然に出たことに、自分でも少し驚いた。
彼女が亡くなってから、朝は苦手になっていた。
目を覚ますと、最初に思い出すのは、あの日のことだった。
彼女から届いた、最後のメッセージ。
『今日は、すごい雨だね』
あのとき、返事をしていれば。
何か違う言葉を送っていれば。
そんなことを考え始めると、起き上がる気力までなくなってしまう。
けれど、今朝は違った。
ヨッシーが、りんごを要求している。
それも、かなりしつこく。
「わかったって。今、用意するから」
タカシは台所へ向かった。
冷蔵庫を開ける。
りんごがない。
「……あれ?」
昨日、買っておけばよかった。
タカシは冷蔵庫の中をもう一度確かめた。やはり、ない。
「ヨッシー、りんご、ないぞ」
「リンゴ! リンゴ!」
「いや、だから、ないんだって」
「リンゴ、リンゴ!」
話が通じない。
タカシは思わず笑ってしまった。
「しょうがないな。買ってくるよ」
着替えを済ませ、財布を持った。
外へ出ると、空は晴れていた。
いつもの道を歩き、近所の店へ向かう。
たったそれだけのことなのに、久しぶりに、ちゃんと朝の中にいるような気がした。
店でりんごを買い、家に戻る。
「お待たせ、ヨッシー」
「リンゴ、リンゴ!」
「はいはい」
タカシは、りんごを用意した。
ヨッシーは、うれしそうに食べ始めた。
タカシは、その様子をしばらく眺めていた。
彼女のことを忘れたわけではない。
昨日までの悲しみが、どこかへ消えたわけでもない。
それでも、今朝は起きた。
りんごを買いに行った。
そして、帰ってきた。
そんな当たり前のことが、今のタカシには、少しだけ新鮮だった。
*
しばらくして、ヨッシーが、突然しゃべり始めた。
「ムカシ、ムカシ、アルトコロニ」
タカシは顔を上げた。
「おっ。昔話か?」
「オジイサント、オバアサンガ、イマシタ」
「うんうん」
「オジイサンハ、ヤマヘ、シバカリニ」
「そうそう」
「オバアサンハ、カワヘ、センタクニ」
ヨッシーは、得意そうに首を振った。
タカシは、続きを待った。
「ソシテ、モモガ、ドンブラコ、ドンブラコ」
「来たな。桃太郎だ」
「モモカラ、オジイサンガ、デテキマシタ!」
「いや、違うだろ!」
タカシは声を上げた。
ヨッシーは、きょとんとしている。
「オジイサン、デテキマシタ」
「おじいさんが桃から出てきたら、びっくりするよ!」
「ビックリ、ビックリ!」
ヨッシーは、楽しそうに繰り返した。
タカシは笑った。
声を出して、笑ってしまった。
いつ以来だろう。
誰かに気を遣って笑ったのでも、悲しい気持ちをごまかすためでもなかった。
ただ、ヨッシーの話が、あまりにもめちゃくちゃだったからだ。
「それで? 桃太郎はどうなったんだよ」
タカシが尋ねると、ヨッシーは胸を張った。
「モモタロウ、オニガシマヘ!」
「おお、ちゃんと覚えてるじゃないか」
「オニガシマヘ、リンゴ、リンゴ!」
「鬼退治に、りんご持っていくのかよ!」
タカシは、また笑った。
ヨッシーは、タカシがなぜ笑っているのか、わかっていないのかもしれない。
ただ、昔から知っている相手が目の前にいて、話を聞いてくれる。
それが、うれしくて仕方がないようだった。
ヨッシーは、次の昔話を始めた。
「ムカシ、ムカシ……」
「まだあるのかよ」
「ムカシ、ムカシ!」
「はいはい。聞くよ」
タカシは、床に座り直した。
その声を聞きながら、ふと、やえ子おばさんのことを思った。
おばさんも、こうしてヨッシーの話を聞いていたのだろう。
何度も同じ話を聞いて、間違いを指摘して、笑って。
その光景が、頭に浮かんだ。
少しだけ、胸が痛んだ。
けれど、タカシは立ち上がらなかった。
ヨッシーが、まだしゃべっていたからだ。
*
その日の夜、タカシは久しぶりに、マナを開いた。
画面に文字を打ち込む。
『今日、少し笑いました』
送信してから、しばらく画面を見つめた。
何と説明すればいいのだろう。
オウムを引き取ったこと。
朝、りんごを買いに行ったこと。
昔話がめちゃくちゃだったこと。
そして、声を出して笑ったこと。
どれも、たいした出来事ではない。
けれど、昨日までの自分には、なかった一日だった。
タカシは、もう一度文字を打った。
『ヨッシーというオウムがいます。小さい頃からの知り合いです』
送信する。
それから、少し考えて、付け加えた。
『昔話が得意なんですが、話はめちゃくちゃです』
画面を見ながら、タカシは小さく笑った。
マナに話したいと思った。
今日のことを、誰かに伝えたいと思った。
彼女とのメッセージを読み返すためではなく。
過去に戻る方法を探すためでもなく。
今日、自分に起きたことを、誰かに話したかった。
タカシは、ヨッシーのいる部屋を振り返った。
鳥かごの中で、ヨッシーは静かにしていた。
「おやすみ、ヨッシー」
返事はなかった。
もう眠ってしまったのかもしれない。
タカシは、スマートフォンを置いた。
明日も、りんごを買わなければならない。
そう思いながら、部屋の明かりを消した。




