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『After Forever―永遠の、その先 』タカシとヨッシー、再生の物語  作者: 若村崇


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第四話 書けない人 改訂版

第四話 書けない人



 最初は、ほんの思いつきだった。


 土曜日の午後、タカシはパソコンを開いた。


 仕事で使うわけではない。調べものをすることもなかった。デスクトップには、以前から使っている文書作成ソフトのアイコンがあった。


 彼は、それをクリックした。


 白い画面が現れた。


 何かを書こうと思ったのだ。


 何を書くのか、決めていたわけではなかった。ただ、彼女のことを書いてみたかった。


 スマートフォンには、彼女の写真が残っている。メッセージの履歴もある。二人で出かけた場所の記録も、食事の写真も、旅行先で撮った景色もある。


 記録なら、いくらでも残っている。


 けれど、写真を眺めているだけでは、彼女が少しずつ遠くなっていくような気がした。


 何かに書いておけば、もう少し近くにいられるのではないか。


 そんなことを考えた。


 タカシは、キーボードに指を置いた。


 最初の一文は、すぐに浮かんだ。


 ――彼女は、よく笑う人だった。


 打ち込んでみると、ひどくありふれた文章に見えた。


 彼女がよく笑う人だったことは、間違いない。


 けれど、それだけでは何も伝わらない。


 タカシは、続きを書いた。


 ――彼女の笑顔を見ると、僕も自然に笑顔になった。


 そこで、手が止まった。


 本当に、そうだっただろうか。


 彼女が笑っているとき、自分も一緒に笑っていたことはある。けれど、いつもそうだったわけではない。


 彼女が楽しそうに話している横で、スマートフォンを見ていたこともある。


「ねえ、聞いてる?」


 そう言われて、慌てて顔を上げたこともあった。


 そのとき彼女は、どんな顔をしていただろう。


 怒っていたのか。


 呆れていたのか。


 それとも、いつものように、仕方がないなという顔で笑ったのか。


 思い出せなかった。


 タカシは、二行目を削除した。


 残ったのは、


 ――彼女は、よく笑う人だった。


 という一文だけだった。


 彼は椅子の背にもたれた。


 なんだ、これは。


 学校の作文じゃあるまいし。


 自分でも、少し笑ってしまった。


 しかし、その笑いはすぐに消えた。


 彼女について書こうとしているのに、書けることがない。


 そんなはずはなかった。


 二人は、何度も食事をした。映画を観た。旅行にも行った。何でもないことで喧嘩をして、しばらく口をきかなかったこともある。


 それなのに、いざ文章にしようとすると、何を書けばいいのかわからない。


 タカシは、スマートフォンを手に取った。


 マナに相談しようと思った。


『彼女のことを書こうとしているんだけど、うまく書けない』


 ほどなくして、返事が届いた。


『どんなことを書こうとしているのですか?』


『彼女がどんな人だったのか』


『どんな人だったと思いますか?』


 タカシは、画面を見て眉を寄せた。


『それがわからないから、聞いてるんだよ』


 送信してから、少し後悔した。


 マナに腹を立てても仕方がない。


 彼女は、いつもと同じように質問を返しただけだ。


 タカシは、もう一度入力した。


『優しかったし、よく笑う人だった。僕のことも大切にしてくれたと思う』


 マナは、すぐには返事をしなかった。


『そのことが伝わる、具体的な出来事はありますか?』


 タカシは、思わず息を吐いた。


 具体的な出来事。


 それなら、ある。


 いくらでもあるはずだった。


 彼女が風邪をひいた自分のために、食べ物を買ってきてくれたこと。


 仕事で失敗して落ち込んでいたとき、くだらない冗談を言って笑わせてくれたこと。


 誕生日に、欲しがっていた本を贈ってくれたこと。


 タカシは、それらを順番に入力しかけた。


 だが、途中でやめた。


 どれも、本当のことだった。


 それでも、彼女がどんな人だったのかを伝えるには、何かが足りない気がした。


 風邪をひいたとき、彼女は何を買ってきてくれたのだったか。


 ゼリーだったか、プリンだったか。


 いや、確か、飲み物もあった。


 仕事で失敗したときの冗談は、何だっただろう。


 思い出そうとすると、言葉の輪郭がぼやけていく。


 誕生日の本は、今も本棚にある。


 けれど、どうして彼女がその本を選んだのか、タカシは聞いただろうか。


 彼女は、きっと理由を話してくれたはずだ。


 自分は、それを覚えているだろうか。


 タカシは、パソコンの画面を見た。


 白い画面には、一行だけが残っていた。


 ――彼女は、よく笑う人だった。


 こんな文章を、誰が読みたいと思うのだろう。


 彼女を知らない人が読んでも、何も伝わらない。


 彼女を知っている人が読んだら、違うと言うかもしれない。


 タカシは、その一文を消そうとした。


 しかし、指が止まった。


 違う、と言われたら。


 彼女のことを知っている誰かが、自分の知らない彼女を語り始めたら。


 その人の話を聞くことができるだろうか。


 自分が知らなかった彼女を、受け入れられるだろうか。


 タカシは、椅子から立ち上がった。


 台所へ行き、水を飲んだ。


 冷たい水が喉を通っていく。


 窓の外では、子どもたちが騒いでいた。自転車のブレーキが鳴り、誰かが笑った。


 世界は、いつもどおりだった。


 彼女がいないことを、誰も知らないわけではない。


 けれど、彼女がいなくなったことを、世界中の人が同じように感じているわけでもない。


 そんな当たり前のことを、タカシは今さら考えていた。


 部屋に戻ると、パソコンの画面はそのままだった。


 彼は再び椅子に座った。


『マナは、僕の代わりに文章を書ける?』


 少し迷ってから、送信した。


『文章を作ることはできます。でも、あなたが彼女と過ごした時間を、私があなたの代わりに経験することはできません』


『わかってる』


『それでも、書き始めるお手伝いはできます』


 タカシは、画面を見つめた。


 手伝い。


 その言葉に、少しだけ気持ちが動いた。


『じゃあ、さっきの一文を、もっといい文章にしてみてよ』


 彼は、パソコンの画面に目を戻した。


 しばらくして、マナの返事が届いた。


『彼女は、笑うと目尻に小さなしわができた。僕は、その顔を見るのが好きだった』


 タカシは、思わず画面を読み返した。


 目尻に小さなしわ。


 彼女には、確かにそういうところがあった。


 笑うと、目が細くなった。


 自分は、その顔が好きだった。


 けれど。


 タカシは、キーボードに手を置いた。


 そして、ゆっくりと打ち込んだ。


『目尻にしわができるのは、彼女だけじゃない』


 送信したあと、彼は自分の文章を読み返した。


 少し、意地悪な言い方だったかもしれない。


 それでも、そう思ったのだ。


 彼女の特徴を並べるだけなら、いくらでもできる。


 目尻のしわ。


 少し早口になる癖。


 好きな食べ物。


 怒ったときに黙り込むこと。


 それらを並べれば、彼女という人間ができあがるのだろうか。


 タカシは、彼女が怒ったときのことを思い出した。


 自分が待ち合わせに遅れた日だった。


 彼女は駅の改札前で待っていた。


「ごめん、電車が遅れて」


 そう言うと、彼女は腕時計を見た。


「うん」


 それだけだった。


 タカシは、彼女が怒っているのだとわかった。


 けれど、彼女は何も言わなかった。


 歩きながら、タカシは何度も話しかけた。


 彼女は、普通に返事をした。


 夕食を食べる頃には、いつもどおりになっていた。


 タカシは、彼女が許してくれたのだと思っていた。


 今になって考えると、あのとき、彼女は本当に許してくれていたのだろうか。


 それとも、もう何を言っても仕方がないと思っただけなのだろうか。


 そんなことを、彼女に聞いたことはなかった。


 聞こうと思えば、聞けたのに。


 タカシは、目を閉じた。


 胸の奥が、少しだけ痛んだ。


 彼女のことを書こうとすると、思い出だけでは足りなかった。


 自分が見ていたものだけでは、足りなかった。


 彼女が何を考えていたのか。


 何を言いたかったのか。


 自分の知らないところで、どんなことを感じていたのか。


 それを知ることは、もうできない。


 タカシは、パソコンの画面に戻った。


 最初の一文は、まだ残っていた。


 ――彼女は、よく笑う人だった。


 彼は、その文章を消さなかった。


 代わりに、その下に一行を書いた。


 ――僕は、彼女が何を考えているのか、いつもわかっていたつもりだった。


 そこで、手が止まった。


 これも、ありふれた文章だった。


 それでも、さっきの一文よりは、ほんの少しだけ、自分のことが書けているような気がした。


 タカシは、保存ボタンを押した。


 ファイル名を入力する画面が現れた。


 何と名づければいいのかわからなかった。


 少し考えてから、「彼女について」と入力した。


 保存した。


 たった二行だった。


 小説と呼ぶには短すぎる。日記と呼ぶにも、何かが足りない。


 それでも、タカシは初めて、彼女について自分の言葉で書いた。


 うまく書けたとは思わなかった。


 むしろ、書けば書くほど、自分が彼女について知らなかったことが見えてきた。


 それでも、もう一度書いてみようと思った。


 今度は、何を書けばいいのだろう。


 彼女が笑ったときの顔だろうか。


 怒ったときの沈黙だろうか。


 それとも、自分が彼女に返さなかった、あのメッセージのことだろうか。


 タカシは、まだ決められなかった。


 パソコンを閉じる前に、もう一度、保存したファイルを開いた。


 二行の文章が、白い画面に並んでいた。


 彼は、しばらくそれを眺めていた。


 そして、そっと画面を閉じた。

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