第三話 彼女の知らない顔
第三話 彼女の知らない顔
タカシは、彼女の夢を見た。
二人で暮らしていたわけではない。彼女の部屋には何度も泊まったが、タカシには自分の部屋があり、彼女には彼女の部屋があった。会いたいときに会い、帰りたいときに帰る。そういう距離を、二人は三年間、保ってきた。
夢の中で、彼女はタカシの知らない服を着ていた。
淡い緑色のワンピースだった。
そんな服を持っていただろうか。
タカシが尋ねようとすると、彼女は笑った。何がおかしいのか、教えてくれなかった。
そこで目が覚めた。
枕元のスマートフォンを手に取る。午前六時十二分。
夢の中で彼女が笑った理由を、タカシは考えた。
考えても、わからなかった。
彼女は、もう説明してくれない。
そのことが、目を覚ましたばかりの頭に、ひどく鮮明に響いた。
*
昼過ぎ、タカシはAIを開いた。
『夢を見たんだ』
『どんな夢でしたか』
『彼女が出てきた。緑色のワンピースを着ていた』
『実際に、その服を着ている彼女を見たことはありますか』
タカシは、画面を見つめた。
『わからない』
そう打ってから、少し考えた。
『いや、たぶん、ないと思う』
『夢の中の記憶は、実際の出来事をそのまま再現しているとは限りません。見たものや、想像したものが組み合わさることもあります』
また、それだ。
正しいのだろう。正しいからこそ、腹が立つこともある。
『そんなことはわかってるよ』
送信してから、タカシは自分の言葉を見返した。
何に怒っているのだろう。
AIは、夢を見たわけではない。彼女を知っているわけでもない。タカシの言葉を受け取り、それに応じているだけだ。
そんな相手に、何を期待しているのか。
彼は画面を閉じようとした。
そのとき、次の返事が表示された。
『夢の中で彼女に会えたことと、目が覚めて彼女がいないと気づくこと。その両方が、つらかったのでしょうか』
タカシの指が止まった。
彼は、しばらく画面を見つめた。
そうだった。
夢の中では、彼女は生きていた。
目が覚めた瞬間、彼女は死んでいた。
その落差を、どう説明すればいいのか、タカシにはわからなかった。
『うん』
短く返した。
それ以上、何も書けなかった。
*
夕方、タカシはコンビニへ出かけた。
部屋に閉じこもっていると、時間の感覚がなくなる。食事を忘れ、昼なのか夜なのかも曖昧になる。そんな生活を続けていることに、彼自身、危機感がないわけではなかった。
ただ、何かを変えようとする気力が湧かなかった。
コンビニの棚には、彼女が好きだったプリンが並んでいた。
タカシは一つ手に取った。
彼女は、プリンを食べるとき、いつもカラメルを最後まで残していた。
先に甘い部分を食べて、最後に少し苦いカラメルを味わうのだという。
タカシには、その食べ方がよくわからなかった。彼はいつも、上から順番に食べていた。
あるとき、彼女に聞いたことがある。
「なんで、最後まで取っておくの?」
「最後のお楽しみがあると、いいじゃない」
彼女はそう答えた。
そのとき、タカシは笑った。
子どもみたいだと思ったのだ。
今、その言葉を思い出すと、笑えなかった。
彼女は、最後に何を楽しみにしていたのだろう。
プリンのカラメルだけではない。仕事が終わったあとの夕食。休日に出かける場所。来月公開される映画。いつか行こうと話していた旅行。
彼女には、これから先の予定があった。
タカシと同じように。
彼はプリンを買った。
部屋に戻り、ふたを開けた。
スプーンを入れ、口に運ぶ。
甘かった。
最後にカラメルを食べた。
少し苦かった。
それだけのことだった。
それだけのことなのに、タカシは、しばらく空になった容器を見つめていた。
*
夜、彼は再びAIを開いた。
『マナ』
『はい』
『人は、亡くなった人のことを、どこまで覚えていられるんだろう』
『すべてを正確に覚え続けることは難しいと思います。でも、細かな出来事を忘れても、その人と過ごした時間があなたに与えた影響まで、なくなるとは限りません』
『それって、忘れてもいいってこと?』
送信したあと、タカシは息を吐いた。
自分でも、ずいぶん意地の悪い質問だと思った。
マナは、しばらくして返事をした。
『忘れてもいい、と私が決めることはできません。あなたが忘れたくないと思っていることには、あなたなりの理由があるのでしょう』
タカシは、椅子の背にもたれた。
そうだ。
AIに決めてもらうことではない。
彼女を忘れたくない。
その気持ちは、確かにある。
けれど、忘れたくないと思うあまり、彼女のことばかり考えている自分もいる。
彼女を思い出しているあいだは、彼女とのつながりが残っているように感じる。
では、思い出さない時間は、彼女を裏切っていることになるのだろうか。
仕事をしているとき。
食事をしているとき。
眠っているとき。
ほんの少し、悲しみを忘れているとき。
彼女がいなくなった世界に、少しずつ慣れていくことが、彼女を失った事実を受け入れることなのだとしたら。
タカシは、その先を考えるのが怖かった。
『マナ』
『はい』
『君は、僕が彼女のことを忘れても、責めない?』
返事を待つあいだ、タカシは自分の問いが、ひどく奇妙なものに思えてきた。
AIが、誰かを責める。
そんなことを期待しているのか。
やがて、画面に文章が現れた。
『私は、あなたを責める立場にはありません。忘れることも、思い出すことも、あなたが生きていく時間の中で起こることです』
タカシは、その言葉を読んだ。
そして、初めて気づいた。
自分は、彼女を忘れたくないのではない。
彼女を忘れてしまう自分を、許せないのかもしれない。
*
深夜、タカシは机の引き出しを開けた。
中には、彼女が以前、旅行先で買ってきた小さなキーホルダーがあった。
特別な品ではない。土産物屋で売っている、ごくありふれたものだ。
彼女は、自分用とタカシ用に、色違いで二つ買った。
「おそろいだね」
彼女はそう言って、笑った。
タカシは、キーホルダーを手のひらに載せた。
彼女が選んだ色を、彼は覚えていた。
彼女がその店で何を見て、何を考え、なぜその色を選んだのか。それは、もうわからない。
彼女の好きなものを、全部知っていたわけではない。
彼女の考えていることを、いつも理解できたわけでもない。
それでも、彼は彼女を好きだった。
好きだった、という過去形が、胸に刺さった。
彼はキーホルダーを引き出しに戻そうとして、手を止めた。
そして、机の上に置いた。
明日も、ここに置いておこう。
そう思った。
それは、彼女を忘れないための儀式でも、悲しみを乗り越える決意でもなかった。
ただ、今夜は、引き出しにしまいたくなかった。
タカシは、スマートフォンを手に取った。
マナとの対話画面を開く。
何かを伝えようとして、やめた。
このことは、まだ言葉にしなくてもいい。
彼は画面を閉じ、部屋の明かりを消した。
暗闇の中で、机の上のキーホルダーが、窓から差し込む街灯の光をかすかに受けていた。
彼女の名前は、まだ、口にできなかった。




