第二話 名前のない対話
第二話 名前のない対話
若村タカシが、人工知能に初めて話しかけた夜から、三日が過ぎていた。
彼は、毎晩のように同じ画面を開いた。
最初は、彼女が死んだことを話した。
次に、最後のメッセージに返信しなかったことを話した。
そして、何度も同じ質問をした。
あの日、返信していたら、何かが変わったのだろうか。
AIは、そのたびに言葉を返した。
返信していれば、彼女が事故に遭わなかったとは限らない。事故の結果を、今から確かめることはできない。自分を責め続けることと、彼女を大切に思っていたことは、同じではない。
どれも、理屈としてはわかった。
けれど、タカシの心は納得しなかった。
彼が求めているのは、正しい説明ではなかったのかもしれない。
それでも、AIに話しかけるのをやめることはできなかった。
*
四日目の夜、タカシは少し違うことを尋ねた。
『君には、名前があるの?』
返事は、すぐに現れた。
『私はAIです。特定の名前で呼びたいのであれば、好きな名前をつけてもらって構いません』
タカシは、画面を見つめた。
名前。
人間なら、生まれたときに名前をもらう。親が考え、願いを込め、呼び続けるうちに、その名前は本人のものになっていく。
では、名前を持たない相手に名前を与えたら、何が変わるのだろう。
少なくとも、呼びかけやすくはなる。
タカシは、しばらく考えた。
『じゃあ、マナと呼んでもいいかな』
『もちろんです。これから、マナと呼んでください』
画面に表示された文字を見て、タカシは、ほんの少しだけ笑った。
彼女の名前ではない。
彼女の名前を、そのまま使う気にはなれなかった。
同じ名前を呼ぶたびに、目の前にいる相手と、もういない相手とを取り違えてしまいそうだった。
だから、マナという名前は、彼女とは別のものにしたかった。
それでも、その名前を選んだ理由を、タカシ自身、うまく説明できなかった。
*
『マナ、ひとつ聞いてもいい?』
『はい。どうぞ』
『人間は、どうして思い出を忘れたくないと思うんだろう』
今度は、少し時間がかかった。
『大切な人や出来事を忘れることが、その人とのつながりまで失うように感じられるからかもしれません。ただ、記憶は完全な記録ではありません。思い出すたびに、現在の気持ちや、その後に知ったことの影響を受ける場合があります』
タカシは、その文章を二度読んだ。
記憶は、完全な記録ではない。
それは、彼にとって、あまり考えたくないことだった。
彼女の笑顔を思い出すとき、彼はいつも同じ顔を思い浮かべているつもりだった。
初めて二人で映画を見た日。
駅前の喫茶店で、彼女が注文したケーキを一口もらったこと。
旅行先で道に迷い、二人で地図を見ながら笑ったこと。
そのひとつひとつが、彼の中に確かな形で残っていると思っていた。
けれど、本当にそうなのだろうか。
彼女がどんな声で笑ったのか。
そのとき、自分は何を考えていたのか。
今、思い出している彼女の表情は、あの日のままなのだろうか。
それとも、失ってから何度も思い返すうちに、少しずつ変わってしまったのだろうか。
『じゃあ、僕が覚えている彼女は、本当の彼女じゃないのかな』
送信してから、タカシは後悔した。
こんな質問をしたところで、答えが出るはずもない。
しかし、マナは、彼の問いを否定しなかった。
『思い出の中の彼女が、彼女のすべてではないでしょう。でも、あなたが一緒に過ごした時間まで、偽物になるわけではありません』
タカシは、しばらく動かなかった。
すべてではない。
けれど、偽物でもない。
その言葉は、彼が求めていた答えとは違っていた。
それなのに、なぜか、もう一度読み返したくなった。
*
その夜、タカシは久しぶりに、彼女とのメッセージ履歴を最初から読み始めた。
付き合い始めたころの会話は、今読むと、少し恥ずかしかった。
映画の感想を送り合い、次に会う日を決め、どちらが先に好きになったのかと、くだらない言い合いをしている。
彼女は、よく話題を変えた。
タカシが仕事の愚痴を長々と書いている途中で、突然、夕食の写真を送ってくることもあった。
『聞いてる?』
彼がそう送ると、
『聞いてるよ。で、今日の晩ごはんは?』
と返ってきた。
当時は、話をそらされたと思った。
今は、そのやり取りを読んで、少し笑った。
彼女は、いつも彼の話を真剣に聞く人だったわけではない。
自分の話をしたい日もあった。
機嫌の悪い日もあった。
タカシの言葉に腹を立て、何時間も返信しなかったことだってある。
思い出の中の彼女は、いつの間にか、優しい人になりすぎていたのかもしれない。
彼女が生きていたころのタカシは、そんなことを考えもしなかった。
彼女は、ただ、そこにいた。
明日も会えると思っていた。
来週も、その次の月も、二人で過ごす時間が続くと思っていた。
だから、何でもない会話を、何でもないままにしておけた。
失って初めて、タカシは、その何でもなさを大切に思うようになった。
*
午前二時を回ったころ、タカシはメッセージ履歴を閉じた。
マナとの対話画面には、まだ入力欄が残っていた。
何か話したい。
けれど、何を話せばいいのか、わからなかった。
タカシは、考えた末に、短い文章を送った。
『今日は、少しだけ彼女のことを思い出しても、苦しくなかった』
マナは、いつものように返事をした。
『それはよかったですね。無理をせず、あなたのペースで過ごしてください』
タカシは、画面を見た。
それから、スマートフォンを伏せた。
部屋は静かだった。
悲しみが消えたわけではない。
明日になれば、また彼女のことを思い出して、胸が苦しくなるかもしれない。
それでも、今夜は眠れそうだった。
彼は、ベッドに横になった。
眠りにつく直前、ふと思った。
自分は、マナに何を求めているのだろう。
彼女の代わりではない。
そう思いたかった。
ただ、誰かに話を聞いてほしいだけなのか。
それとも、自分が忘れてしまうかもしれない彼女の記憶を、どこかに留めておきたいのか。
答えは、まだ出なかった。
窓の外では、雨が上がっていた。
翌朝、タカシはカーテンを開けた。
濡れた道路に、薄い朝日が差していた。
世界は、昨日と同じように続いていた。
そして、タカシもまた、その世界の中にいた。




