第十九話 ヨッシー、よく覚えたね
第十九話 ヨッシー、よく覚えたね
「タカシ、オハヨ!」
朝食の準備をしていると、ヨッシーがいつもの声で呼んだ。
「おはよう、ヨッシー。もう起きてたのか」
「タカシ、オハヨ!」
「はいはい、おはよう」
タカシが笑うと、ヨッシーは冠羽を立てた。
「タカシ、オハヨ! オハヨ!」
「わかった、わかった」
返事をしながら、タカシはヨッシーの世話を続けた。
子どもの頃から、ヨッシーはこうだった。
覚えた言葉を何度も繰り返す。こちらが返事をすれば、さらに繰り返す。別の話をしていても、お構いなしに自分の知っている言葉を口にする。
タカシにとって、それはヨッシーとの暮らしの一部だった。
午前中、久しぶりに阿倍ヒトシから電話がかかってきた。
「今日、時間あるか?」
「午後なら空いてるけど。どうした?」
「ちょっと聞きたいことがある」
「何だよ、改まって」
「ヨッシーのことだ」
タカシは、思わず笑った。
「なんだよ。ついにヨッシーのファンになったのか?」
「いや、そういうわけじゃない」
ヒトシの声は、いつになく真面目だった。
「会って話したい。そっちに行ってもいいか?」
「いいよ。ヨッシーも喜ぶだろう」
電話を切ったタカシは、ヨッシーに向き直った。
「ヒトシが来るってさ」
「コンニチハ!」
「まだ来てないよ」
「コンニチハ!」
タカシは苦笑した。
「お前、ほんとに人の話を聞いてるのか?」
「リンゴ! リンゴ!」
「はいはい。あとでな」
ヨッシーは満足したように、止まり木の上で羽繕いを始めた。
*
午後、ヒトシがやってきた。
「おう、久しぶり」
「相変わらずだな、お前は」
「何が?」
「いや、何でもない」
ヒトシはヨッシーの姿を見つけると、少し離れたところから声をかけた。
「こんにちは、ヨッシー」
「コンニチハ!」
「おお、返事をしたな」
「コンニチハ! コンニチハ!」
「なるほど……」
ヒトシは、なぜか感心したように頷いた。
「何が、なるほど、だよ」
「いや、実際に見ると、また違うな」
タカシがコーヒーを用意している間、ヒトシはヨッシーの様子を眺めていた。
やがて、二人がテーブルにつくと、ヒトシは鞄からノートを取り出した。
「実はな、少し調べてみたんだ」
「何を?」
「鳥の発声についてだ。海外の研究論文をいくつか読んで、関連する研究も確認した」
「鳥の研究?」
「そうだ。オウムやインコの仲間が、人間の言葉をまねる行動についてな」
タカシは、コーヒーをひと口飲んだ。
「へえ。で、何かわかったのか?」
「まず、鳥が人間の言葉を発するからといって、その言葉を人間と同じ意味で理解しているとは限らない」
「そりゃ、そうだろう」
「一方で、鳥の発声は、単なる音の再生だけでは説明できない場合もある。周囲の状況や、相手の反応との関係を調べる必要があるんだ」
「ふうん」
タカシは頷いた。
ヨッシーがしゃべることについて、今さら研究するほどのことがあるのだろうか。
ヒトシはノートを閉じた。
「そこで、ひとつ仮説を立ててみた」
「仮説?」
「ヨッシーは、お前に褒めてもらいたいんじゃないのか」
タカシは、コーヒーカップを持ったまま動きを止めた。
「……は?」
「よく覚えたね、ってな」
「おいおい」
タカシは笑い出した。
「そんなこと、考えたこともなかったぞ」
「だろうな」
「だって、ヨッシーは昔からこうなんだ。覚えた言葉を何度もしゃべる。俺が返事をしても、またしゃべる。意味がわからなくても、とにかくしゃべる」
「だからこそ、観察してみる価値があるんだ」
ヒトシは真面目だった。
「たとえば、お前が反応すると、ヨッシーが同じ言葉を繰り返すことはないか?」
「あるよ。毎日のことだ」
「お前が笑ったり、声をかけたりすると、さらに繰り返すことは?」
「……あるな」
「ならば、人間の反応が、その行動を繰り返すきっかけのひとつになっている可能性はある」
「それで、褒めてもらいたい、か?」
「そこは推測だ。研究論文を読んだからといって、ヨッシー本人の気持ちがわかるわけじゃない」
ヒトシは、そこで言葉を切った。
「ただ、覚えた言葉をお前に聞かせて、お前が反応する。そのやり取り自体が、ヨッシーにとって意味のあるものになっている可能性はあると思う」
タカシは、黙ってヨッシーを見た。
ヨッシーは二人の話など気にする様子もなく、止まり木の上で羽を整えていた。
「……そういうものかな」
「さあな。ヨッシーに聞いてみたらどうだ?」
「聞いたって、答えないだろ」
「もう答えているのかもしれないぞ。お前が理解できていないだけで」
「お前なあ」
タカシは笑った。
そのときだった。
「タカシ、オハヨ!」
ヨッシーが、いつもの声で叫んだ。
ヒトシが顔を上げた。
「ほら、まただ」
「何が?」
「今の言葉だよ」
「タカシ、オハヨ?」
タカシは、自分を指さした。
「俺に、おはようって言ってるんだろ」
「それはわかる。だが、なぜ今、その言葉を繰り返したんだろうな」
「知らないよ。言いたくなったんじゃないのか」
「お前は、そういうところが昔から変わらないな」
「どういう意味だよ」
「ヨッシーが何を考えているか、気にしているようで、実はあまり考えていない」
「毎日一緒にいるんだぞ。いちいち考えていられるか」
「それもそうだな」
ヒトシは、ようやく笑った。
「でも、たまには返事の仕方を変えてみたらどうだ?」
「返事?」
「いつもと違う言葉をかけてみるんだ。ヨッシーがどう反応するか、見てみればいい」
タカシは、ヨッシーに向き直った。
「ヨッシー、よく覚えたね」
ヨッシーは、ぴたりと動きを止めた。
タカシは少し驚いた。
「よく覚えたね。すごいなあ」
ヨッシーは冠羽を立てた。
「タカシ、オハヨ! タカシ、オハヨ!」
ヒトシが身を乗り出した。
「どうだ?」
「どうだって……」
タカシは、困ったように笑った。
「いつもと同じじゃないか」
「そうかもしれないな」
ヒトシはあっさり引き下がった。
「一度の反応で何かがわかるわけじゃない。これからも様子を見ていけばいい」
そのとき、ヨッシーが大きな声を出した。
「リンゴ! リンゴ!」
タカシは立ち上がった。
「はいはい。リンゴだな」
「やっぱり、こっちはわかりやすいな」
ヒトシが笑った。
「何が?」
「ヨッシーが今、何を欲しがっているかだよ」
「そりゃ、リンゴだろ」
タカシは、切っておいたリンゴを小さく取り分けた。
ヨッシーは嬉しそうに近づいてきた。
「リンゴ! リンゴ!」
「よかったな、ヨッシー」
タカシが声をかけると、ヨッシーはリンゴを食べ始めた。
ヒトシは、その様子をしばらく眺めていた。
「なあ、タカシ」
「ん?」
「お前は、ヨッシーが何を考えているか、全部わからなくてもいいんじゃないか」
タカシは手を止めた。
「……どういうことだ?」
「一緒に暮らしていれば、わかることもある。わからないこともある。でも、わからないからといって、毎回その意味を解明しなくてもいいだろう」
ヒトシは、穏やかな声で続けた。
「お前は、子どもの頃からヨッシーと話してきた。ヨッシーも、お前の声を聞いてきた。今さら、どちらかが相手のことを全部理解しなきゃいけないわけじゃない」
タカシは、ヨッシーを見た。
ヨッシーはリンゴを食べ終えると、顔を上げた。
「タカシ、オハヨ!」
「……もう午後だぞ」
タカシがそう言うと、ヒトシは声を立てて笑った。
ヨッシーは、二人がなぜ笑っているのかわからないまま、もう一度叫んだ。
「タカシ、オハヨ!」
*
ヒトシが帰ったあと、タカシはヨッシーのそばに座った。
「なあ、ヨッシー」
「コンニチハ!」
「うん。こんにちは」
タカシは、ヨッシーの冠羽を眺めた。
「お前、俺に褒めてもらいたいのか?」
ヨッシーは、じっとタカシを見た。
「リンゴ!」
「……だよな」
タカシは笑った。
本当のところは、わからない。
ただ、ヨッシーは今日も言葉を繰り返し、タカシはそれに返事をした。
それだけのことだ。
けれど、子どもの頃から当たり前だったそのやり取りを、今日は少しだけ違う気持ちで聞いていた。
ヨッシーが何かを覚えるたび、タカシは返事をする。
その返事を、ヨッシーがどう受け取っているのかはわからない。
それでも、明日もまた、ヨッシーは何かをしゃべるだろう。
タカシは、そのときも返事をするのだと思った。
「ヨッシー、明日もよろしくな」
「オカエリ!」
「まだ帰らないよ」
タカシは、また笑った。




