第十六話 ヨッシーの水浴び
第十六話 ヨッシーの水浴び
ヨッシーが、片足を上げて体を掻いていた。
首のあたりに足を伸ばし、器用に羽毛を掻いている。しばらくすると、今度は別の場所を掻き始めた。
「ヨッシー、かゆいの?」
「コンニチハ!」
いや、挨拶をしている場合じゃないんだけど。
僕は笑いながら、その様子を眺めていた。
鳥も、こうやって体を掻くんだな。
考えてみれば、ヨッシーと暮らし始めてから、知らなかったことばかりだ。リンゴが好きなのは知っていた。昔から、僕の顔を見れば「タカシ、オハヨ」と声をかけてくれた。
でも、毎日の暮らしの中で、ヨッシーが何を好み、何を嫌がるのか。僕はまだ、よく知らない。
ふと、水浴びのことが気になった。
「そういえば、ヨッシーって、水浴びするのかな」
叔母さんの家にいたころ、どうしていたのだろう。
僕はスマートフォンを手に取り、叔父さんに電話をかけた。
*
「もしもし。どうした?」
「叔父さん、ちょっと聞きたいことがあって」
「ヨッシーのことか?」
「うん。ヨッシーって、水浴びは好きだった?」
電話の向こうで、叔父さんが少し考える気配がした。
「水浴びか。そうだなあ。あいつは、嫌いじゃなかったよ」
「そうなの?」
「叔母さんが水を用意すると、機嫌のいいときは自分から近づいていったな。いつもそうとは限らなかったけどね」
「水をかけてあげるの?」
「いや、無理にはしなかったよ。あいつの様子を見ながらだな」
なるほど。
ヨッシーにも、気分があるらしい。
「今、うちのシャワーヘッドがナノバブルなんだけど、それで水浴びさせてあげたら、気持ちいいかなと思って」
「ナノバブル?」
「うん。細かい泡が出るシャワーヘッドなんだ」
「そうか。今は、いろんなものがあるんだなあ」
叔父さんは感心したように言った。
「でも、ヨッシーが気に入るかどうかは、やってみないとわからないね」
「そうだね。嫌がったら、無理にはしないよ」
「それがいい。ヨッシーの好きなようにさせてやってくれ」
電話を切る前に、僕はもうひとつ聞いた。
「叔父さん、ヨッシーって、水浴びのあと、どうしてた?」
「そりゃあ、羽を広げて、しばらく乾かしてたよ。気持ちよさそうにね」
その光景が、頭に浮かんだ。
「ありがとう。ちょっと試してみるよ」
「うん。よろしく頼むな」
電話を切ると、僕はヨッシーを見た。
ヨッシーは、いつもの場所で、何事もなかったように羽繕いをしている。
「さて、ヨッシー。お風呂に行ってみようか」
「サンポ! サンポ!」
「今日は散歩じゃないんだよ」
ヨッシーは、首を傾げた。
*
浴室に入ると、僕はまず、床が滑らないように気をつけながら、ヨッシーが落ち着いていられる場所を用意した。
水は、浅くためるのではなく、シャワーヘッドから出すことにした。
もちろん、いきなり水をかけるつもりはない。
僕はシャワーを弱い水流にして、ヨッシーから離れたところで流してみた。
水の音が、浴室に響く。
ヨッシーは、じっとこちらを見ていた。
「どう? 怖くない?」
「コンニチハ!」
返事になっているのかどうかは、わからない。
僕はシャワーを止め、しばらく待った。
ヨッシーは逃げようとはしなかったが、自分から水に近づく様子もなかった。
「まあ、初めてだからね」
僕は焦らず、もう一度、弱い水流を離れた場所で流してみた。
すると、ヨッシーが少し首を伸ばした。
水滴が光っている。
僕は、そのままヨッシーの様子を見守った。
やがて、ヨッシーは羽を少し広げた。
「おっ?」
さらに、羽を広げる。
体を左右に揺らし、翼を小刻みに動かし始めた。
水しぶきが、床に飛び散った。
「ヨッシー、気持ちいいの?」
もちろん、本人に聞いても答えはわからない。
それでも、嫌がっている様子ではなかった。
僕は水の勢いに気をつけながら、ヨッシーが自分から水を浴びられるようにした。
ヨッシーは、羽を広げたり、体を振ったりしている。
その姿を見て、僕は思わず笑った。
「なんだ、楽しそうじゃないか」
バシャバシャ、バシャバシャ。
水しぶきが、僕の服にも飛んできた。
「ちょっと、ヨッシー!」
「コンニチハ!」
「こんにちは、じゃなくて!」
僕は声を出して笑った。
ヨッシーは、そんな僕のことなど気にしていないようだった。
水浴びを続ける姿は、どこか誇らしげにも見えた。
やがて、僕はシャワーを止めた。
「はい、おしまい。よくできました」
ヨッシーは、羽をふるわせた。
水滴が、あちこちに飛び散る。
「うわっ!」
今度は、僕の顔にまともに水がかかった。
ヨッシーは、何事もなかったように言った。
「リンゴ!」
「はいはい。水浴びのご褒美は、あとでね」
僕はタオルを用意し、ヨッシーが暖かく風の当たらない場所で自然に羽を乾かせるようにした。無理に拭いたり、ドライヤーを近づけたりはしない。
ヨッシーは、羽を少し広げたまま、しばらく静かにしていた。
叔父さんが話してくれた光景と、どこか似ていた。
叔母さんの家でも、こんなふうに水浴びをしていたのだろうか。
僕は、そんなことを考えた。
*
水浴びが終わると、僕はリビングに戻った。
ヨッシーは、いつもの場所で羽繕いを始めた。
「どうだった? 気持ちよかった?」
「タカシ、オハヨ!」
「いや、もう朝じゃないよ」
僕は笑った。
ヨッシーにとって、今日の水浴びがどんな体験だったのか、正確にはわからない。
またやりたいと思っているのかもしれないし、今日だけで十分なのかもしれない。
次も、ヨッシーの様子を見ながら決めればいい。
僕はスマートフォンを手に取り、マナに話しかけた。
「今日、ヨッシーが水浴びをしたんだ」
マナは、いつものように返事をした。
僕は、叔父さんに電話したこと、シャワーを怖がらないか心配だったこと、そして水しぶきを浴びて自分まで濡れてしまったことを話した。
話しているうちに、また笑ってしまった。
以前の僕は、彼女を失った日のことばかり考えていた。
あの日、返事をしていたら。
もっと早く気づいていたら。
そんな問いを、何度も繰り返していた。
今でも、あの雨の日を思い出さないわけではない。
けれど、最近は、今日あったことを誰かに話したいと思うようになった。
ヨッシーが水浴びをしたこと。
友人が遊びに来たこと。
散歩の途中で、気になる鳥に会ったこと。
どれも、人生を変えるような大事件ではない。
それでも、僕の一日を作っている。
ヨッシーは、羽繕いを終えると、僕のほうを見た。
「リンゴ!」
「わかった、わかった」
僕は立ち上がり、リンゴを用意した。
水浴びのあとに食べるリンゴは、いつもと同じ味だろう。
でも、今日の僕には、少しだけ特別なものに思えた。
窓の外では、秋の光が静かに傾いていた。
明日は、どんな一日になるのだろう。
僕は、ヨッシーの姿を見ながら、そんなことを考えていた。




