沈黙の司令
モスクワ市内の雪に埋もれた古い地下セーフハウス。
激しい脱出劇の痕跡を覆い隠すように、室内には冷たく重い静寂が立ち込めていた。ボリスは擦り傷の手当をしながら銃の整備に没頭し、傷ついたベネット博士は奥のベッドで泥のように眠っている。
ジョセフはデスクの前に立ち、暗号化された衛星通信機を起動した。画面にはラングレーのCIA本部から届いた、最新の「極秘指令」が表示されている。
しかし、その画面を見たジョセフの表情が鋭く強張った。
指令文の末尾に記されていたのは、あまりにも不可解な指示だった。
「目標確保を確認。直ちに一切の移動および敵拠点への介入を停止せよ。現地のセーフハウスにて待機命令。追って指示を出す」
「待機命令……? この状況でか?」
後ろで通信画面を覗き込んでいたルナが、不審そうに眉をひそめた。
「敵は明日にもあのバイオ兵器『ペルセポネ』をモスクワから持ち出そうとしているのよ。今すぐ本部に報告して特殊部隊を動かすか、私たちが直接叩かなきゃ手遅れになるわ」
「ああ。本来なら即座に兵器の回収、あるいは破壊工作の指示が出るはずだ」
ジョセフは低く呟いた。
ベネット博士が地下で残した言葉が、脳裏で警鐘を鳴らす。
「奴らの中に、CIAの人間がいる。研究データへのアクセス権を提供したのはラングレーの上層部だ」
本部は、兵器の存在を知りながら意図的に動きを止めようとしている。この「沈黙の指令」は、現場の自分たちを足止めし、テロ組織にバイオ兵器の搬出を完了させるための時間稼ぎなのではないか。
「ジョセフ、どうする?」
ボリスが銃の手入れの手を止め、鋭い視線を向けてきた。
「本部の指示に従ってここで待機すれば、兵器は市場に流出する。だが指示を無視して動けば、俺たちは『命令違反』……最悪の場合、反逆者として追われる身になるぞ」
ジョセフは通信機を見つめたまま、ゆっくりと息を吐き出した。
選択肢は二つ。組織の駒として静観するか、孤立無援を覚悟で陰謀の渦中へ飛び込むか。
「通信を切れ、ルナ」
ジョセフの声には、迷いのない冷徹な決意が宿っていた。
「これより本線との連絡を絶つ。俺たちの任務はまだ終わっていない」
ラングレーからの「沈黙の指令」を拒絶した瞬間、ジョセフたちのチームは、見えない巨大な敵との本当の戦いへと足を踏み入れたのだった。




