サイレント・インベーション
モスクワ郊外に広がる旧ソ連時代の廃工場群。闇の中にそびえ立つ赤レンガの建造物は、氷点下の猛吹雪に覆われ、まるで巨大な獣の死骸のように静まり返っていた。
だが、その死寂とは裏腹に、敷地内は鉄壁の警戒網で固められていた。最新型の赤外線暗視カメラがゆっくりと首を振り、サーマルスコープを装備した旧スペツナズ出身の傭兵たちが、二人一組で分厚い防寒服に身を包んで巡回している。
工場から五百メートル離れた廃ビルの屋上。猛吹雪の中で身を潜める四人の影があった。
「敵の巡回パターン、確認したわ」
ルナが超小型の耐寒端末の画面を見つめながら、骨伝導インカム越しに低く囁く。
「外周に十二名、屋上に狙撃手が二名。内部のセンサーは暗号化されているけれど、今から三〇秒間だけ監視カメラの映像をループ処理で偽装する。……カウントダウン開始。三、二、一、今よ」
「了解」
ジョセフの合図とともに、四人は雪を蹴って一斉に動いた。
ニコライは手慣れた手つきで外囲いの高圧有刺鉄線に特殊なバイパス回路を取り付け、無音で切断。一瞬の隙を突いて敷地内へ滑り込む。そのまま彼は敷地裏手へ回り込み、万が一の際の脱出用車両の準備と退路の確保へと向かった。
ジョセフとボリスは、暗視ゴーグルの緑色の視界を頼りに、影から影へと高速で移動する。積もった雪が足音を消してくれるが、吐き出す息の白さすら敵のサーマルカメラに捉えられかねない極限状態だ。
二人は工場の裏手に回ると、ルナの指示通り、換気ダクトの錆びついた格子へと取り付いた。ボリスがその並外れた怪力で静かに鉄格子を外し、ジョセフが先に内部へと潜り込む。
ダクト内部は埃と油の匂いが充満していた。匍匐前進で狭い管を進み、内部の吹き抜けエリアを見下ろせる点検用キャットウォークへと躍り出る。
眼下には、外観からは想像もつかない最新鋭の機材が並ぶ研究スペースが広がっていた。武装した傭兵たちが重々しく警護する中、白衣を着た技術者たちが慌ただしく動き回っている。
「……ルナ、見えているか?」
ジョセフは胸元に仕込んだ超小型カメラの映像を本部に送信しながら問う。
「ええ、確認したわ。……待って、あれは何?」
ルナの声に緊張が走った。
研究スペースの中央、強化ガラスで仕切られたクリーンルームの中に、透明なカプセルに収められた金属製のキャニスターが置かれていた。危険物を示すバイオハザードマークが刻印されている。
「ただの生物兵器じゃないわ……」
ルナがキーボードを叩く音が激しくなる。
「データ照合完了。あれは数年前に破棄されたはずの新型神経ガス『ペルセポネ』の改良型よ。わずか一滴で一都市の住民を全滅させられる代物……なぜそんなものがここにあるの?」
「ベネット博士を拉致した理由は、これの安定化と量産化か」
ボリスが隣で低く唸った。単なる情報漏洩や身代金目的の拉致ではない。これは世界規模の大量無差別テロの準備だったのだ。
その時、眼下の研究スペースの重厚な防音扉が開き、長身の男が入ってきた。軍服を着こなし、顔に大きな傷跡を持つ男——この傭兵部隊を率いる指揮官だ。
男は技術者にロシア語で厳しく問い詰めた。
「博士の準備はどうなっている? 予定通り明日にはモスクワを離れるぞ」
「は、はい……ですがベネット博士が協力を拒んでおり、最後の起動コードの解析が滞っております」
「構わん。痛めつけてでも吐かせろ。黒幕はお待ちかねだ」
キャットウォークの上で、ジョセフの瞳が冷たく光った。
(黒幕だと……? やはり、この傭兵たちを動かしているさらに上の存在がいる)
「ジョセフ、地下二階へ続くエレベーターのセキュリティを解除したわ」
インカムからルナの報告が入る。
「了解だ。ベネット博士の身柄を確保し、この兵器のデータを回収する。ボリス、行くぞ」
「おう。いつでもいける」
巨大な陰謀の核心へと迫る中、ジョセフたちは暗闇の深淵へと静かに降りていった。




