↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
2/8

偽りの身分

ロシアの首都、モスクワ。


氷点下十度を超える烈風が赤の広場を吹き抜け、玉ねぎ型のドームを戴く聖ワシリイ大聖堂の影を白銀の雪の中に浮かび上がらせていた。凍てつく寒さの中、ジョセフは街角の古いカフェの片隅に座り、湯気を立てる黒コーヒーのカップに手を添えていた。

彼の表面上の身分は「アンディ・ミルズ」。イギリスの大型建設会社から都市インフラの改修視察に派遣された技師という偽装身分(カバー)だ。パスポートの偽造精度はもちろんのこと、過去数年分の税金納付記録からSNSのアカウント、果ては実在するロンドンのアパートの契約書に至るまで、CIAの専門技術部が完璧に作り上げた実在しない男の履歴だった。


ジョセフは目線を動かさず、ガラス窓の反射を利用してカフェの外と店内の様子を観察していた。視線、歩幅、厚手のコートの膨らみ——雪のモスクワを行き交う人々の行動パターンから暗殺者やロシア連邦保安庁(F S B)の監視者の有無を瞬時に割り出していく。この徹底した警戒心こそが、彼がこれまで幾度もの死線を潜り抜けてきた最大の武器だった。


「お待たせいたしました、ミルズ様。ご注文いただいた周辺の建築構造図面になります」


エプロンを着けた年配のウエイターが、注文したボルシチの皿と共に、さりげなく厚みのある茶封筒をテーブルに置いた。男はCIAが現地で手配した協力者だった。


「スパシーボ(感謝する)」


ジョセフは英国風のアクセントを交えた落ち着いた声で短く応じ、十分すぎるほどのチップを添えて封筒を回収した。

カフェを出たジョセフは、追跡を撒くための複雑なルートを辿った。地下鉄環状線をふたつ乗り継ぎ、入り組んだ路地裏を通り抜け、観光客で賑わうアルバート通りを横切る。誰からもつけられていないことを完璧に確認した上で、彼はあらかじめ用意されていたモスクワ市内のセーフハウスへ潜り込んだ。

重い鉄扉を開けると、そこにはすでに先着していた三人の「仲間」が出迎えた。今回の極秘作戦のために現地で合流した、ジョセフのチームメンバーたちだ。

一人は、電子戦と情報解析のスペシャリストである女性工作員「ルナ」。天才的なハッキングスキルを持ち、モスクワ市内の防犯カメラ網や敵の通信をリアルタイムで監視している。

二人目は、元特殊部隊出身で近接戦闘と重火器の扱いにおいては右に出る者がいない巨大な男「ボリス」。現地での武力行使が必要となった際、圧倒的な戦闘力でジョセフの背中を守る頼れる前衛だ。

そして三人目は、偽装工作と潜入術に長けた変幻自在の工作員「ニコライ」。ロシア語はもちろん数カ国語を完璧に操り、現地での調達や敵の警戒網をすり抜ける工作を得意としている。


「遅かったな、ジョセフ。お前のコーヒーが冷めるのを待っていたところだ」


ボリスがニヤリと笑いながら重い声で言った。部屋の奥では、ルナが複数のモニターに囲まれ、キーボードを高速で叩いている。


「追跡はなかった。アセットから現地のデータを入手したぞ」


ジョセフが回収したSDカードをデスクに置くと、ルナがすぐさま端末へ読み込ませた。画面に立ち上がったのは、モスクワ郊外の旧ソ連時代の工業地帯に位置する巨大な廃工場群の内部構造図と、最新の監視カメラの配置データだった。


「ベネット博士が囚われているのは、この最深部……地下二階の保管庫エリアね」


ルナがモニターを指さしながら言った。


「外周の警備はどうだ?」


ニコライが腕を組みながら尋ねる。


「単なる街の犯罪組織やテロリストじゃないわ」


ルナの表情が曇る。


「動きの規則性や装備の規格から見て、旧スペツナズ(特殊部隊)出身者で構成された高度な民間軍事会社の傭兵たちよ。ただの科学者一人を拘束するための警備としては、あまりにも重装備すぎる」


さらに気になるのは、手に入れたデータの「綺麗さ」だった。アセット経由で入手したとはいえ、敵の厳重な警戒網に対して内部図面が完璧に揃いすぎている。


(まるで、誰かが俺たちをこの場所に誘い込もうと、おあつらえ向きの道標を用意しているかのようだ……)


ラングレーを出発する直前、本部内部で何者かが自分の作戦ファイルを閲覧していたという不穏な空気。本部内に潜む内通者の存在。すべての疑念が、静かな警告音となってジョセフの脳裏で鳴り響いていた。


「罠の匂いがプンプンするな」


ボリスが拳を鳴らしながら低く呟いた。

だが、引き返すという選択肢は彼らにはなかった。ベネット博士が持つ生物兵器の知識が敵に渡れば、数百万の命が危機に晒される。どれほど精巧な罠が仕掛けられていようと、その渦中へと飛び込み、博士を連れ戻すのが彼らの任務だった。


「罠なら罠らしく、踊ってやるまでだ」


ジョセフは低く呟き、チームの面々を見渡した。


「ルナは通信妨害と監視カメラのジャミング、ニコライは脱出ルートの確保と車両の手配、ボリスは俺と一緒に内部へ潜入する。行くぞ」


全員が短く頷き、漆黒の潜入スーツとギアを手にとった。

深夜、モスクワの街が深い静寂と闇に包まれる頃。四人の影は「アンディ・ミルズ」という仮面を脱ぎ捨て、誰にも知られることのない冷たい影となって、ターゲットの潜む廃工場へと歩を進めた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。