第七話 空白の企画書
翌週の水曜、涼花がスマホを握りしめて、編集部屋の内扉を開けた。
「社長、負けました」
「何に」
「ノックス。サブ垢で、あいつのコメント欄に行ってきた」
涼花は私の隣の椅子に座って、画面を突き出した。
米国に留学している、20代の配信者。親は中堅企業の社長で、本人がそれを隠していない。
3日前に彼が上げた動画は、私の朝ごはんの回の切り抜きから始まっていた。
「セレブ妻が物売り? ウケる」
画面の中で、彼は笑っていた。
「稼ぐとか、意味わかんないんだけど。俺、親の金で一生遊べるし」
「こいつ、何言われても平気なの。アカウント止められても困らないって」
「そう言ってた?」
「言ってた。ほんとのお坊ちゃんなんだよ、たぶん」
私は涼花の画面は見ずに、自分のパソコンで保存フォルダを開いた。ノックスの動画が、日付順に6本並んでいる。
いちばん新しいのを再生した。
シャンパンの栓が抜ける音。助手席の窓から見える、海沿いの道。
最後に、白い文字が出た。
『悩みとか知らない。親が全部くれるから』
「わざとだよ。燃えるほど、数字になるから」
「じゃあ偽物? お坊ちゃんじゃないの?」
「身分は本物。言ってることが嘘」
涼花は眉を寄せて、動画をもう一度最初から再生した。
*
「涼花は、どう思う?」
「どうって……」
彼女は字幕の一行を、指でなぞった。
「この話術、聞き覚えが……」
それから、私の顔を見た。私も、彼女を見ていた。
「秦の始皇帝だって、不老不死を欲しがった」
二人の声が、きれいに重なった。
涼花は、ふっと吹き出しかけて、すぐに真顔に戻った。
「親の会社でしょ? ずっと同じように稼げるかは別じゃん」
「どうして?」
「中堅って、大きい取引先がひとつ抜けたら傾くところもあるし。今、どこも楽じゃないって、前の会社でもずっと言ってた」
「うん」
「それに、お父さんは跡を継げる人が欲しいはずだよね。ネットで客を怒らせてる息子を見て、喜ぶかな」
「続けて」
「……でも、そこまで動画に出してないよね。会社がどうなってるかは、分かんない」
「うん」
「分かんないけど、悩みがないってことはないと思う」
私は手を叩いた。3回。
「拍手やめて、恥ずかしい」
ノックスの動画のコメント欄を、涼花がスクロールしていく。罵倒と称賛のあいだに、短い一行が埋もれていた。
『炎上商法乙』
*
その夕方、涼花のスマホに通知が来た。
「え、うそ」
彼女が見せてきたのは、34階の社長夫人からのDMだった。お茶会で、涼花の前職を聞いた人。
『倉持さん、ご無沙汰しています。朝ごはんの動画、阿部さんのところでしょう?』
『やっぱり、育ちのいい方は違うのね』
『あの方を紹介して。主人の会社の広告のことで、ご相談したいの』
涼花は画面を持ったまま、私を見た。
「どうする?」
「涼花のDMでしょ。涼花が返して」
彼女はしばらく指を浮かせていた。
「育ちじゃないのに」
一文字ずつ打ちはじめる。打ちながら、小さく声に出した。
「あの人は、運じゃない」
送信の音が鳴った。
「……紹介するかどうかは、本人に聞いてください、って、続けて送っとく」
*
夜、撮影の片づけが終わったあと、なんとなく全員がリビングに残っていた。
「ノックスみたいな人ってさ、ほんとは何が欲しいんだろうね」
涼花がつぶやいた。
「欲しいものが全部手に入る人なんて、いないよ。手に入らないものがあるうちは、誰でもどこかで、自分が足りないって思ってる」
「お坊ちゃんでも?」
「お坊ちゃんでも。死ぬことだけは、全員に同じように来るしね」
誰も、すぐには返事をしなかった。
「それを隠して、楽そうに見せて、羨ましがらせる。そうすると、人は見に来る」
私はノートパソコンの縁を指でなぞった。
「私がやってたことと、同じ」
部屋が静かになる。多恵さんが湯呑みを置く音だけが、こつんと響いた。
恭平が、喉を鳴らしてから言った。
「今の。大学の頃のあんたみたいだ」
「やめて」
「いや、ほんとに。あの頃のあんた、そういうこと言って、学部じゅう敵に回してた」
実穂が、クッションを抱えたまま私のほうへ身を乗り出した。
「社長は、何が欲しいの? あたし、それが聞きたい」
私は答えずに、ノートパソコンを閉じた。
*
その夜、山の夢を見た。
尾根が波のようにうねって、追いかけてくる。古いバスの座席で、私は冬実の手を握っている。
降りて、走る。息が切れても、斜面の暗がりがすぐ後ろにある。
二人で、ずっと走っていた。
朝、キッチンの水切り籠から湯呑みを取ると、実穂がもう起きてきていた。
「昨日の答え」
私は湯呑みにお茶を注いだ。
「蕨伏っていう、山の中の集落。冬実と二人で、バスで出てきたの」
実穂は黙ってうなずいた。
「私の劣等感は、あそこで生まれたこと」
湯呑みを、実穂の前へ押した。
「欲しいのはお金。二度と帰らないため」
洗面所から出てきた多恵さんが、タオルを持ったまま立ち止まった。
「あの辺りの出身なの? 話していても、全然分からなかった」
「練習したから」
多恵さんは何か言いかけて、タオルをたたみ直した。
*
その日の午後、次の台本の読み合わせをしていると、涼花がペンを置いた。
「社長は、自分で稼いで、自分で決めてる。独立した女の人がすることをしてるのに、撮ってるのは主婦ものなんだよね」
「商売だから」
「これからも?」
「人は見たいものしか見ないよ。疲れてる人は、楽そうな人を見たいの」
「私も、見たかったよ。見て、信じて、会社辞めた」
涼花は、自分のスマホのコメント欄を開いた。
「扶養の壁があるから働く時間減らした、とか。育休明けに戻る場所がなくて辞めた、とか」
「うん」
「そういう人が見て、やっぱり家に入るのが正解なんだって思ったら?」
「視聴者に説教するな、って。この仕事の、最初のルール」
「説教じゃなくて! ……変えられるの、社長しかいないじゃん」
「買い被らないで」
実穂と多恵さんが顔を見合わせた。恭平が、台本を丸めて自分の肩を叩く。
「じゃあ、企画書にすれば? 撮るものが決まらないと、俺も動けないし」
涼花が、恭平を見た。それから、私を見た。
「書くよ」
彼女は棚から企画書の用紙を一枚抜いて、作業台に置いた。
来週の台本の、すぐ隣に。




