最終話・裏 上の七話は私が書いた
朝の6時半、私はまだ菜箸を持っている。
「涼花、次。お椀、左から置いて」
「はーい」
カメラに映るのは、手首から先だけ。手元の代役になって半年、そこは変わらない。
作業台の端には、私のマグカップが置いてある。撮影のあいだは画角の外に出しておく決まりで、毎朝、同じ場所。
撮り終えて、エプロンを外す前にコメント欄を開く。これも半年で、毎朝の癖になった。
『私も専業主婦になりたい。結局、結婚が勝ちってことだよね』
『こういう旦那さん、どこで拾えるの』
……拾えないよ。あれ、うちの照明係だし。
サブ垢に切り替えて、一行だけ打った。
『画面の外で、誰かが2時間働いてるかもしれないよ』
10分もしないうちに、返信がついた。
『嫉妬乙』
消そうとして、指が止まる。消したら、なかったことになる気がして。
残しておくのも、それはそれで負けた気がして。
結局、アプリを閉じた。
台所に戻ると、社長がモニターの前で手招きしていた。
「さっきのお椀のところ、もう一回。指、少し開いてた」
「開いてないじゃん」
「開いてた。見る?」
「……見ない。やる」
隣で課題を広げていた実穂が、顔も上げずに言った。
「涼花さん、またコメント見てたでしょ」
「見てない」
「画面、反射してたよ。お椀に」
私はお椀を裏返して、もう一回、左から置いた。
*
あの日から、私は企画書を何枚も書いた。
「働く女の人の一日、とか」
「それで、何を撮るの」
「だから、働いてるところを……」
「朝ごはんの回より、見たくなる?」
答えられないまま、白い紙が棚の奥にたまっていった。
それで、小説。
仕事が終わってから、夜中に少しずつ。一か月とちょっとかけて書いて、小説投稿サイトに載せた。
上の七話は私が書いた。
それを開いたスマホを社長に渡したのが、今日の昼休み。
「読んで。……あの、全部じゃなくていいから」
「なにこれ」
「小説。企画書の代わり」
「代わり?」
「私がいちばんなりたかった人になってみたら、何を撮ればいいか分かるかと思って」
「分かった?」
「分かんなかった。でも、書けた」
「全部読むよ」
社長はソファに座って、黙ってスクロールしはじめた。
私はマグカップを両手で持って、立ったまま待っていた。
*
最初に社長が口を開いたのは、六話目のあたりだった。
「阿部と、堂前恭平」
「え」
「わざとでしょ。この二つ」
まだ何も言っていないのに。私は、マグカップの持ち手を握り直した。
「……女帝と道鏡」
「やっぱり」
「あべ、って、昔の女帝の名前と同じ読みなの。で、どうまえ・きょうへいで、どう、きょう」
「なんで私が女帝なの」
「社長、強いし。恭平さん、毎日社長の機嫌とってるし」
「とってないでしょ」
「とってるよ。似てるじゃん」
社長は、ものすごく嫌そうな顔をした。
リビングの向こうで、本物の照明係がくしゃみをした。
*
最後の話まで読み終えると、社長はスマホを私に返した。
「どうだった?」
「読んだよ」
「それだけ?」
社長は少し考えて、それから言った。
「……まあまあ」
「まあまあ、って」
「伝わったかどうかは、読んだ人が決めるよ」
「社長に聞いてるの。私が言いたかったこと、ちゃんと伝わった?」
「次に何を撮るかは、まだ決めてない」
私はスマホを握りしめた。
「じゃあさ。これにいいねが付いたら、転向、考えてくれる?」
「転向って」
「働いてる女の人の話とか。そういうの」
社長は返事をしないで、ソファから立ち上がった。作業台の上の、来週の台本を手に取って、一枚めくって、また置く。
私はスマホを、その台本の隣に置いた。マグカップの横。
夕方の撮影まで、あと2時間ある。
エプロンを取りに行く社長の背中から、声だけが返ってきた。
「埋もれるわよ、この話。……付いたら、そのとき聞く」




