第五話 隣の部屋
翌朝の6時、涼花はエプロンを持ってやってきた。
月が替わって、最初の朝。キッチンの作業台に、私は書類を二部並べた。
「先に、これ読んで」
「……契約書?」
「手元だけの撮影補助。顔は映さない」
「お金は?」
「基本の報酬に、歩合がつく。締めは月末」
涼花は一枚目を、指でなぞりながら読んだ。
「辞めたくなったら?」
「言ってくれればいい。それまでにやった分は、ちゃんと払う」
「それだけ?」
「それだけ」
彼女はしばらくペンを持ったまま動かなかった。それから、二部ともに名前を書いた。
一部を、自分のエプロンのポケットに折ってしまう。
*
8品と、汁物がひとつ。
だし巻き、ほうれん草のおひたし、鮭の西京焼き。涼花が鍋とフライパンのあいだを行き来するのを、私はカメラの後ろから見ていた。
「晴実、次なに? 煮物?」
「その前に、お皿を左に寄せて。もう少し……そこ」
画角は手元だけ。モニターの横に、去年の動画を止めて並べてある。
ポットを傾ける私の手が映っている回だ。
涼花の手が、菜箸で卵を返す。長い指の先で、短く切った爪が光った。
二つの画面を見比べて、私は小さく息を吐いた。
「似てる、やっぱり似てる」
「何が?」
「なんでもない。続けて」
最後の味噌汁を椀によそったところで、涼花は作業台に両手をついた。肩で息をしている。
額の汗を、手の甲でぬぐおうとした。
「カット。力を入れてない顔で」
「顔、映らないじゃん」
「顔が力むと、手も力むの。もう一回、お椀を置くところから」
「2時間作ったんだけど!」
「うん。台本だから」
涼花は天井を仰いで、それから大きく二回、深呼吸をした。お椀を持ち直す。
撮り終えると、彼女はソファに倒れこんだ。
「ねえ、前みたいにセレブやってればいいじゃん。なんで急に、ごはん作る主婦なの」
「見る人が変わったから」
私はノートパソコンを開いて、素材を取りこみはじめた。
「仕事がきつくて家に入る人も、入りたくて入る人もいる。そういう人が見て、参考にするか……安心するか、くらいにはなる」
「働きたい女だっているよ。みんながみんな、家に入りたいわけじゃないし」
私は手を止めて、彼女のほうを見た。
「……涼花が言う?」
涼花の顔が、耳まで赤くなった。
*
数週間が過ぎた。
「社長、この前の朝ごはんの回、80万回いった」
実穂がタブレットを掲げて、リビングの真ん中で言った。
コメント欄には、見慣れない言葉が増えていた。
『セレブも節約の時代か』
『北米のトラッドワイフみたい。こっちのほうが好き』
『旦那さんの朝ごはん、うちの夕飯より品数多い』
『このお椀、どこのですか』
概要欄の商品リンクを二つ増やして、私は返信の下書きを打った。
「なんでみんな、そんなに晴実の味方なの?」
ソファから、涼花が聞いた。
「本当の家族じゃないんでしょ。なのに、娘役も、恭平さんも……」
「社長だから」
リングライトの脚を伸ばしながら、恭平が答えた。
「給料くれるし。仕事も回してくれる」
恭平は顎で、衣装部屋のほうを指した。
「多恵さんの今日の撮影もそうだよ。ミセス向けの服の広告、社長が取ってきたやつ」
衣装を替えに行っていた多恵さんが、次のブラウスを腕にかけて戻ってきた。撮影の合間の、10分の休憩。
涼花はしばらく迷ってから、多恵さんに向き直った。
「多恵さんは、どうしてここに?」
「私? もとは中学校の教員なの」
「先生……」
「子どもたちはみんな、海外で暮らしてる」
多恵さんは、ブラウスのボタンを上から順に外しながら話した。
「退職してから、健康食品の話に乗ってしまってね。貯めていたお金を、ずいぶん減らしたの」
「……そうだったんですか」
「子どもたちには、言えなかった」
「それで……」
「写真を載せて、仕事を探していたの。家事のお手伝いでもいいからって」
多恵さんは、3つめのボタンで手を止めた。
「返事をくれたのが、晴実さん」
「写真写り、よかったもんね」
私は軽く付け足した。
「今度は騙されないでね」
「晴実さん、今の言い方はない」
実穂が顔を上げた。
「多恵さんの話、最後まで聞いて」
多恵さんはブラウスに袖を通して、最後のボタンをとめた。
「自分の分が入ったら、いくら残せるか見てる。前より、確かめることが増えたね」
「……貯まってます?」
「少しずつね」
*
実穂はダイニングテーブルに、通信制大学の課題を広げていた。
ノートの横に、輪ゴムの箱がある。
「実穂ちゃんは?」
「そこ、まだ解いてる。話は聞けるけど、答えは言わないで」
彼女は統計の問題にシャープペンを走らせながら、続けた。
「高校のとき、ノートだけは褒められてたの」
「うん」
「でも、家が大学のお金は出さないって。働けって」
「勉強、苦手だったの?」
「苦手だったんじゃなくて、出してもらえなかったの。そこ、一緒にしないで」
涼花は小さく「ごめん」と言った。
「ノートの写真を上げてたら、社長が見つけて連絡くれた。ここで働きながら、通信で単位取ってる」
「……あ、ここ違う」
消しゴムをかけて、実穂はもう一度、式を書き直した。
*
涼花は、ソファの上で膝を抱えた。
「騙されてここに来たの、私だけ?」
「俺も」
脚立の上で、恭平が言った。リングライトの角度を、少しずつ変えている。
「俺の話、まだ要る? この照明だけ直させて」
「要る」
恭平は、ねじを締める手を止めなかった。
「大学のとき、付き合ってた相手を傷つけて、それを金にしてた。最悪だろ」
涼花は黙っていた。
「で、社長の妹を口説こうとしたら、社長にばれた。社長が、前に俺と付き合ってた子たちを全員探してきてさ。その子たちと一緒に、俺を大学に訴えた」
「全員……」
「処分も受けたし、謝って、払った」
「……それで?」
「卒業しても、どこも雇ってくれなかった。頼れるところがなくなって、最後に頭を下げに行ったのが、この人」
「線は私が引いてる。撮るものも、出すものも、私が全部見てから」
私はパソコンから目を上げずに言った。
「検査も、定期的に受けてもらってる」
恭平はリングライトの首を一段下げて、こっちを見ないまま言った。
「一生あんたに頭が上がらない」
恭平は脚立を降りて、ライトのスイッチを入れた。部屋の一角だけが、白く明るくなる。
涼花が、ひと呼吸おいてこちらを向いた。
「待って。……妹?」
「うん」
「晴実、ひとりっ子じゃ……」
テーブルの上で、私のスマホが震えた。
画面に出た名前を見て、スピーカーにする。
「姉ちゃん、私の方は撮れてる。今、話せる?」
向こうの空気の奥で、ピッ、と短い電子音が鳴った。
「話せるよ。今、人がいる」
「じゃあ、買い付けの確認を先にしよう。送る素材の話は、そのあとで」
冬実は注文の数を3つ読み上げて、私の返事を待った。それから、海岸の素材を二本、ホテルのロビーを一本、送ったと言った。
「使う分が決まったら、知らせて。じゃ、切るね」
通話が切れる。
涼花が、私とスマホを交互に見ていた。
「双子なの。冬実」
「双子」
「向こうで語学をやって、今はビザも仕事のやつ。買い付けの代行をしてる」
「じゃあ、海外の動画って」
「冬実が撮ってる」
*
「私、一度も海外に行ったことないの」
涼花の口が、開いて、閉じた。
「じゃあ、リゾートに行くって言ってた10日間は?」
私は立ち上がって、リビングの奥の壁の前に立った。
本棚の横の、白い壁。指先で一か所を押すと、壁と同じ色のパネルが、内側にわずかに沈んだ。
内扉が開く。
「この階の2戸、隣同士なの。こっちが撮る部屋で、向こうが編集の部屋」
扉の向こうには、モニターが三台並んだ机があった。
涼花がふらふらと近づいて、敷居の手前で足を止める。
いちばん手前の画面に、書き出しの履歴が並んでいた。日付の列が、私が「海外」にいたはずの10日間を、一日も欠けずに埋めていた。




