第三話 石のベンチ
玄関のドアを開けた途端、実穂が飛びついてきた。
「おかえり、お母さん。焼けてないじゃん、日焼け止め塗りすぎ」
「塗るに決まってるでしょ。はい、お土産」
スーツケースから紙袋を3つ出す。恭平にはネクタイ、多恵さんには刺繍のストール、実穂には向こうの文房具屋で買ったというペンのセット。
リビングには、小さな垂れ幕まで下がっていた。おかえりなさい、の手書きの文字。
「お義母さん、留守のあいだ、ありがとうございました」
「いいのよ。晴実さんこそ、疲れたでしょう」
もうひとつ、紙袋が残っていた。
私はそれを持って、開いたままの玄関に戻った。廊下では涼花が、ポケットサイズのカメラをこちらに向けている。
帰国の様子をVlogにしたい、と言い出したのは彼女のほうだ。
「涼花にも。撮ってくれてるお礼」
「え、私にも? ……ありがと」
彼女はカメラを下ろさずに、片手で袋を受け取った。
その肩越しに、リビングが見える。恭平はネクタイを首に当てていて、多恵さんは実穂とストールの色を比べている。
3人とも、廊下のほうを見なかった。
涼花の奥歯が、きし、と鳴った。
*
パーティーのあと、撮影のお礼に涼花を焼肉に誘った。
店員がタンを並べて離れていくと、涼花はハイボールのジョッキを半分、一息で空けた。
「……知ってるんでしょ。私が恭平さんと寝たこと」
私はトングを持ったまま、網の上の肉を裏返した。
「全部わざとでしょ。わざと私を家に入れて、わざと海外に行って」
「涼花、焦げるよ」
「家族みんなで私のこと笑ってたんでしょ。あの子もお義母さんも、最初から」
ジョッキの縁を握る彼女の指が、白くなっていた。
私は箸袋を折りたたんで、網の脇に置いた。
「涼花の会社、IT系の取引先も多かったよね」
「……だから何」
「大手のエンジニアって、何人か見たことあるでしょ。あの忙しさで、恭平みたいな身体、作ってる暇あると思う?」
涼花はしばらく、私の顔を見ていた。焼けた肉の脂が、炭に落ちてはぜる。
「身体は……丈夫だったよ」
「そう」
「晴実が都内生まれで、お金があって。だから旦那さんも、ああなんでしょ」
「ああ、って?」
「ジムとか、いいもの食べてるとか。そういうの全部、お金じゃん」
彼女はジョッキを持ち上げて、空なのに気づいて、また置いた。
その夜の会計は、私がカードで払った。
*
それから何週間かで、涼花の生活は形を変えた。
退職の手続きが全部終わった次の週、彼女はベルクレスト・レジデンスの12階に越してきた。家賃のことは、聞いていない。
エレベーターで乗り合わせた彼女は、私が先月の動画で持っていたのと同じバッグを提げていた。靴も、たぶん同じ。
「ここのラウンジでね、奥様たちのお茶会があるんだって」
「誘われたの?」
「誘われるようにするの」
夜の11時過ぎ、コンビニから戻る途中で中庭を通った。
植え込みのそばで、ヒールを片方手に提げてふらつく涼花に、警備の制服の管理人さんが話しかけていた。
「こちらの住民の方ですか。お部屋の番号を伺っても」
「12階の倉持さんです。私の知り合いなので、送っていきます」
管理人さんは私の顔を見て、うなずいた。
「では、お願いします。夜は冷えますので」
涼花を中庭の石のベンチに座らせて、私はガラス越しに灯りのついたラウンジに入った。夜のカウンターで、温かいハーブティーを二つ頼む。
「お部屋づけでよろしいですか」
「はい。帰りに精算します」
伝票を一枚受け取って、ベンチに戻った。
*
涼花は、紙カップを両手で包んだまま、しばらく黙っていた。
「最近のお茶会、どう?」
「……全然だめ」
彼女は顔を上げずに笑った。
「晴実と仲良くなったときのやり方、あの人たちには一個も通じないの」
「たとえば?」
「34階の社長夫人、資産が十数億円あるんだって。なのにずっと、旦那さんの取引先になりそうな人を探してるの」
「涼花にも聞かれた?」
「どこの会社にいたのって。もう辞めましたって言ったら、それで終わり」
「うん」
「医者の奥さんは、子どもの話しかしない。ボーディングスクールとか、アイビーリーグのサマースクールとか」
「涼花は、何て?」
「なんにも分かんなくて、相づちしか打てなかった」
彼女はカップの縁を噛んだ。
「あの人たち、仲良くする相手を、役に立つかどうかで選んでるんだよ。私なんか、何の役にも立たないから」
「よく見てるじゃない」
「見えたって、しょうがないじゃん」
涼花が顔を上げた。目の縁が赤い。
「なんで教えてくれなかったの。お金持ちの奥さんって、こんなに大変なんだって」
「…………」
「私、ただ楽そうだと思って、何の準備もしないで会社辞めて……」
人差し指を伸ばして、彼女の鼻の頭を、ちょん、と突いた。
「教えなかったんじゃないよ。私は本当に、何もやってないの」
涼花は鼻を押さえたまま、目を瞬いた。
「……そうだ。晴実は子どもも見ないし、旦那さんの仕事にも口出さないし」
「うん。遊んで、旅行してるだけ」
「じゃあ、なんで? 晴実よりお金ある人がこんなに頑張ってるのに、なんで晴実だけ、何もしなくていいの?」
「ほんとにね。なんでだと思う?」
私はカップを膝に置いた。
「恭平が働いて稼いだお金を、どうして何もしない私が使っていられるんだと思う?」
「それは、恭平さんが晴実のこと……」
「親だってそう。一生かけて買った部屋を、何もしない娘にどうして2戸も渡すと思う?」
涼花の口が、閉じた。
「みんな子どもの学校のことで必死なのに、どうして私だけ、娘を放っておけるんだと思う? おかしいと思わない?」
ベンチの石が、薄いスカート越しに冷たい。
涼花はカップを握りつぶしそうになって、それから叫んだ。
「運がいいだけでしょ!」
中庭の植え込みに、声が吸いこまれていく。
「生まれがよくて、たまたまいい人と結婚して。それだけでしょ、晴実は」
私は立ち上がって、スカートの裾を払った。
「秦の始皇帝だって、不老不死を欲しがった」
「……は?」
「国のいちばん上にいた人でさえ、まだ欲しいものがあったんだよ。ちょっとお金があるだけの私が、何ひとつ挫折しないで生きてると思う?」
涼花は口を開けたまま、私を見上げていた。街灯が、彼女の顔の半分だけを照らしている。
私は、思いきり笑ってみせた。
「配信の私を信じるくらいなら、いっそ、私が始皇帝だって信じたら?」
返事はなかった。
涼花はカップを持ったまま、ゆっくり背もたれに寄りかかった。それから、首がこくりと傾く。
少し待った。寝息が聞こえてくるまで。
ラウンジのカウンターに伝票を出して、部屋番号の欄に数字を書いた。ハーブティー二杯分。
ペンを返して、ガラスの扉を押した。




