第二話 おばさん、まだいたの?
予約したビストロは、通りから一段下がった半地下にあった。
テーブルの脇に、籐の荷物籠が置いてある。涼花は自分のバッグをそこに入れかけて、やめて、膝の上に戻した。
「旦那さん、何時に来るの?」
「7時半。ちょっと押すかもって」
「お仕事、忙しいんだ」
「開発のほうだから。リリース前は、だいたいこう」
涼花はメニューを開いたまま、さっきから一ページもめくっていない。
前に一度、聞かれたことがある。
「旦那さんって、けっこう年上なの? 顔、一回も出さないじゃん」
「出さない約束なの」
「えー。じゃあ、出せない顔だったりして」
7時40分に、ドアのベルが鳴った。
「ごめん、遅くなった。会議が延びて」
ジャケットを脱ぎながら、恭平が私の隣に座る。背が高いので、椅子を引く音まで少し大きい。
「夫の恭平。こっちが涼花、いつも話してる子」
「堂前です。晴実がお世話になってます」
涼花はグラスを持ち上げかけて、テーブルに戻した。
「……あ、はい。倉持です」
「涼花、さっき年上だと思ってたでしょ」
「言ってない! ……もっとこう、落ち着いた方かと」
「よく言われる。老けて見られたいんだけどね、仕事柄」
「大手のIT企業でエンジニアやってるの。休みの日も、だいたい家でパソコン触ってる」
私が付け足すと、恭平は困ったように笑った。
「開発って、アプリとかですか」
「まあ、そのへん。中身の話をすると、だいたい嫌われる」
「私は嫌いじゃないよ。その話してるときの顔」
前菜の皿が来るあいだ、私は夫の話をした。去年のボーナスで家族旅行に行ったこと。
「娘の数学もね、夜中に見てくれるの。私じゃ分かんないから」
「晴実、それ動画でも言ってたよね」
「言ったっけ」
涼花は相づちを打っていた。打つたびに、口角が少しずつ下がっていく。
パンをちぎりながら、彼女が小さく言った。
「なんで、この人ばっかり……」
聞こえなかったことにして、私はオリーブオイルの皿を彼女のほうへ押した。
メインの肉が半分ほど減ったころ、涼花がスマホを取り出した。
「恭平さん、よかったら連絡先、交換してもらえません? 晴実へのサプライズとか、相談したいときに」
私の目の前で、まっすぐ恭平に向けて言う。
「いいよ。QRでいい?」
恭平はあっさりスマホを出した。読み取りの音が鳴る。
涼花がこちらを見て、にっこりする。勝った、という顔。
私は恭平のほうを見た。恭平も、私を見ていた。
どちらからともなく、目をそらす。
「あ、そうだ。私、明日から10日くらい海外なの」
「えっ、また?」
「朝が早いから、今日は先に帰るね。恭平、涼花を駅まで送ってあげて」
「了解」
コートを取って、店を出た。階段を上がりきるまで、二人の声は聞こえなかった。
*
ここから先の10日間のことは、全部あとから聞いた話になる。
聞いた順番のまま、並べておく。
翌朝、涼花から恭平にメッセージが来た。昨日はごちそうさまでした、晴実がいないあいだ、何か手伝えることがあったら言ってください。
3日目には、もう家に上がっていた。
娘の実穂は、制服のまま帰ってきて、ダイニングで輸入物のノートを広げるのが習慣になっている。涼花はその横に座って、ペンケースを覗いたらしい。
「そのマーカー、かわいいね」
「限定のやつ。もう、駅前じゃ売ってないんだよね」
次の日、同じマーカーの全色セットが、ダイニングテーブルに置いてあった。リフィルとコラボのシールも一緒に。
「えっ、いいの? 涼花さん、ありがと」
「いいのいいの。勉強、がんばってるもんね」
「……うん」
実穂がうなずくと、涼花は目を細めたそうだ。
義母の多恵さんには、健康食品の箱が届いた。それから、指輪とブレスレット。
「細いのより、少し幅のある指輪のほうが好きなの。手が小さく見えるでしょう」
多恵さんがそう言ったのは、テレビのショッピング番組を見ながらだった。3日後には、同じ形の指輪が小さな箱に入って届いた。
「あら、涼花さん。こんな、悪いわ」
「恭平さんのお母さんなら、絶対似合うと思って」
多恵さんは、その場では箱を開けなかったそうだ。
恭平は涼花に私のナイトウェアを着せて、寝室に入れた。
6日目、涼花は会社に退職届を出した。
「だって、ここでごはん作るほうが大事じゃん。恭平さん、毎日帰り遅いし」
「退職金とか、大丈夫なの?」
恭平が聞くと、涼花は首を振った。
「わかんない。失業給付も、あとで調べる」
「あとで、って」
「今はそれどころじゃないじゃん」
引き継ぎの日程だけを決めて、彼女は帰ってきたという。
恭平が何か約束をしたわけではない。涼花も、何かを約束してほしいとは言わなかったらしい。
ただ、冷蔵庫の中身が少しずつ、涼花の買ってきたもので入れ替わっていった。
*
私が「帰国」する前の日。
夕方の4時すぎに、実穂が帰ってきた。キッチンでは涼花が、エプロンの紐を背中で結んでいるところだった。
「おかえり。今日はハンバーグにしようと思って」
「……ふうん」
「お父さんの好きなやつだよね?」
実穂は鞄を床に置いて、冷蔵庫と涼花を順番に見た。
それから、眉を寄せた。
「おばさん、まだいたの?」
涼花の手が、紐の結び目のところで止まった。
「明日、お母さん帰ってくるんだけど」
「……うん、知ってる」
実穂の話では、涼花はそこで紐をほどいて、もう一度きつく結び直したそうだ。
部屋へ戻ろうとする実穂の背中に、涼花は笑って声をかけたという。
「そっか。まだ、慣れないよね」
「……」
「急に知らない人が台所にいたら、そりゃ、びっくりするよね。いいよ、ゆっくりで」




