第一話 40代の専業主婦
並木通りの信号が青に変わったところで、マイクを向けられた。
「すみません、街頭インタビューの動画なんですけど。ご職業は?」
マイクの先が、私の顎の下で止まる。口を開くより先に、隣から腕が伸びてきた。
「専業主婦です! この人、専業主婦なんです」
涼花が私を指さしていた。日曜で会社が休みの彼女は、今日も買い物袋を半分持ってくれている。
はいとも、いいえとも言わずに、サングラスを外した。カメラには、それで十分だったらしい。
「えっと、普段はどんなことをされてるんですか」
「ダンスと……美容医療。あとは、海外旅行かな」
インタビュアーのペンが、メモの上で一度止まった。美容医療、のあたりで。
「月の……お給料、って言い方は違いますよね」
「違うって。専業主婦なんだから、お給料なんてないの」
涼花がまた先回りする。インタビュアーは手元の質問カードを、一枚めくった。
「自由に使えるお金は、月にどれくらいですか」
ショーウィンドウに映った前髪を、指先で一度だけ直す。
「使いたいだけ使う、かな。でも、月に50万円は、ないと」
カメラを担いだスタッフの肩が、わずかに沈んだ。信号待ちの人たちが、こっちを見ないふりをして聞いている。
「……では、人生で一番の挫折は?」
「挫折……」と口の中で繰り返して、ビルのあいだの空に目をやる。
横断歩道の信号が、青から赤へ、また青へ。インタビュアーがちらりと腕時計を見たのは、視界の端でも分かった。
「さすがに、何かありますよね?」
「あ、あった。ダンスの振り付けがね、なかなか覚えられないの」
言い終えて、日傘をぱちんと開く。そこから先、インタビュアーの質問は目に見えて短くなった。
「ご出身は」
「都内。ずっと」
「ごきょうだいは」
「いないの。ひとりっ子」
「お住まいは……」
「親が用意してくれた部屋。タワマンの、2戸」
「お子さんは」
「義母が見てくれてる。家のことは、家事代行の人が来るから」
カードをめくる手が、だんだん遅くなる。最後の質問は、カードを見ないまま出てきた。
「失礼ですけど……おいくつですか」
カメラマンが一歩寄った。UVマスクから上、目のところへ、レンズが近づいてくる。
寄ったまま、なかなか引かない。
寄られて困るものは、今朝のうちに鏡で全部確かめてある。レンズの真ん中に、目を合わせた。
「40代です」
カメラマンが、担いでいたカメラを一度おろした。涼花の口は、半分開いたまま止まっている。
*
叩かれるのを待っていた。
叩かれて、ついでに何人か覗きに来てくれれば上出来。公開から3日、コメント欄はそういう計算をまるごと素通りしていった。
『来世はこの人で』
『40代は絶対うそ。うそでもいい』
『挫折が振り付けって、平和すぎて泣いた』
『タワマン2戸のとこ、3回巻き戻した』
年齢を疑う声は、ひとつもない。
翌週の土曜、涼花はいつものようにうちへ来た。ベルクレスト・レジデンスの32階、窓の大きいほうの部屋。
テーブルには紅茶と、焼いたばかりのカヌレが並んでいる。
「はあ……」
涼花はカヌレをひとつ口に入れて、天井を仰いだ。
「晴実って、ほんと生まれが違うよね」
「そう?」
生返事をして、私は自分のアカウントを開いた。フォロワー100万人。
いちばん新しい海外旅行の動画は再生15万回で、いいねは2万に届いていない。
涼花が肩越しに覗きこんでくる。
「えっ、晴実でも数字とか気にするんだ?」
スマホを、画面を下にしてテーブルに伏せた。
「まさか。どんな悪口が付いてるか見てただけ」
「えー、悪口なんて見て楽しい?」
「暇つぶしにはなるよ」
「ていうか悪口なんてないじゃん。みんな羨ましがってるだけだよ」
彼女はもうひとつカヌレをつまんで、断面をしげしげと眺めた。
「これ、お店のじゃないよね? 型、高いでしょ」
「どうして?」
「焼き色が違うもん。ちゃんとした銅のやつだ」
「よく分かるね。焼く前に、内側に蜜蝋を塗るの」
彼女の膝の上で、スマホのカメラが小さく鳴った。撮ったばかりの型の写真が、検索窓に吸いこまれていく。
私はカップに目を落としたまま、蜜蝋の話を続けた。温度が低いと、表面が白っぽく焼けてしまうこと。
コースターの角が、少しめくれていた。
「私も毎日、こんなお茶がしたいなあ。ねえ、その型、今度いっしょに買いに行こうよ」
「いいけど、重いよ」
「重いのがいいんじゃん、高い感じがして」
涼花は、私のフォロワーだった。限定のお茶会でたまたま隣の席になって、帰りの電車が同じ方向だった。
それだけのことを、彼女は「親友」と呼んでいる。
「あ、お茶、もうないね。私やるよ」
涼花がポットを取って、私のカップに紅茶を注いだ。
ポットの持ち手に添えられた彼女の手を、私は見ていた。
指が長い。爪は、短く切りそろえてある。
「晴実、どうしてこんなに優しくしてくれるの? フォロワーやってて、ほんとによかった」
彼女がテーブルの上に手を置く。私はその甲を、二回、軽く叩いた。
言葉は足さない。
涼花はしばらく、カップの縁を指でなぞっていた。
「晴実のご家族って、きっとすごく優しいんだろうね」
「普通だよ」
「普通の人は、旦那さんの話を動画でしないよ。してたじゃん、優しいって」
「したっけ」
「私、こっちに出てきてから、友だちってほとんどいなくてさ。会社とアパートの往復で、休みの日は晴実の動画見て……」
言葉が途切れる。それから、ほんの少し声の高さが変わった。
「あの……ご家族に、会わせてくれませんか」
カップを置こうとしていた手を、私は止めた。
ソーサーの手前、2センチのところで。そのまま顔を上げて、涼花の目を見る。
彼女の肩が、わずかに引いた。椅子の脚が床をこする音がした。
「いいよ」




