第9話 腕まくり、筋肉に釘付け
時雨はいま、虹介の会社の前に立っている。
「高天原に神留り坐す――(たかまのはらにかむづまります)
皇親神漏岐、神漏美の命以ちて――(すめむつかむろぎ、かむろみのみこともちて)……」
人通りのある会社の前で、ひとり大祓詞を唱えている。
何故か。
心身を清らかな状態へと戻すためである。
――いや。
正確には、突如として発症した謎の症状を鎮めるためだ。
その名も、
**アバババババ症候群。**
時雨が突然「アバババババババ!!」という奇声を発し、首をブンブン振り回した挙げ句、一瞬無になってしまうという、恐ろしい……いや、傍から見ればかなり間抜けな症状である。
そしてこれは、そんな姉を見かねた妹ツインズが編み出した、応急処置だった。
大祓詞を唱えれば、邪念が祓われる。
邪念が祓われれば、考えたくないことを考えずに済む。
――完璧な作戦である。
「雨音さん……?」
「ひゃいぃぃぃっ!!」
完璧な作戦は、開始からわずか数分で終了した。
突然背後から声を掛けられ、時雨の口から飛び出したのは、神聖な祝詞とは到底結びつかない、間の抜けた悲鳴だった。
恐る恐る振り返る。
そこに立っていたのは――
今、一番会いたくない人No.1。
晴渡社長、その人だった。
「え? どうしたんですか?」
晴渡は不思議そうに時雨を見つめる。
「こんなところで、何かブツブツ言ってましたけど……」
「あ、あの……!」
時雨は勢いよく持っていた試作品を差し出した。
「こ、これ! また頼まれてた試作品をお持ちしましたので! 課長に持たされまして!」
「そうなんですか?」
「はい! 今日は、コレだけなので!」
早口でまくし立てる。
「じゃ!」
逃げる。
とにかく逃げる。
顔なんてまともに見られない。
見たらまた、あの言葉を思い出してしまう。
――俺には。
――君しかいない。
いやいやいやいや。
違う。
あれは聞き間違いだ。
そうに決まっている。
だから、早くここから離れなければ。
「ちょっと、待って!」
「ひゃああああっ!」
突然、腕を掴まれた。
びくんっ、と身体が跳ねる。
「うひゃぁぁ!!」
またしても、乙女としてどうなのかという奇声が飛び出した。
晴渡は、そんな時雨を見て苦笑する。
「……そんなに驚かなくても」
「す、すみません……」
恥ずかしい。
今すぐ消えたい。
できれば大祓詞を唱えながら地面に溶け込みたい。
「折角だから、この試作品を使う所、見ていかない?」
「え……」
時雨は固まった。
使うところ。
つまり――
晴渡社長の仕事を、間近で見られる。
それは、少し。
ほんの少しだけ。
興味がある。
「……はい」
小さく頷いた。
大祓詞の効果は、完全に消えていた。
◇
「こんな所があったんですね!」
地下へ降りた時雨は、目を輝かせていた。
晴渡の会社に、ワンフロアを丸ごと使った実験室がある。
そんなことは、今まで知らなかった。
「なんか秘密基地みたいで、めっちゃワクワクします!」
先ほどまで挙動不審だった人間と同一人物とは思えないほど、時雨は生き生きとしていた。
見慣れない実験装置。
並べられた器具。
何に使うのかさえ分からない機械。
その一つ一つに目を奪われている。
「へえ……!」
「ほう……!」
「おお……!」
しかし、出てくる感想は小学生並みだった。
本人も途中で気づいたらしく、
「……私、語彙力なさすぎる……」
と、心の中で少し落ち込んだ。
「あはは」
そんな時雨を見て、晴渡が笑う。
「まあ、あまりおいそれと見せられるものでもないので。秘密の実験室なのには違いないですよ」
「ですよね!」
時雨はまた装置へ視線を戻した。
晴渡は、いつものピシッと決めたスーツの上衣を脱ぐと、上質な生地で仕立てられたワイシャツの袖を、ゆっくりと腕まくりし始めた。
その瞬間。
時雨の視線が、ぴたりと止まった。
――腕。
ワイシャツの袖口から覗く腕。
仕事をするために袖をまくる、何気ない仕草。
時雨には、警察官の制服と並ぶほど、心惹かれてやまないものがある。
それは――
働く男性の腕まくり。
「…………」
見てはいけない。
そう思うのに、目が離せない。
普段はきっちりとスーツに身を包んでいる晴渡が、袖をまくっただけ。
たった、それだけなのに。
どうしてこんなにも――
「アババ……」
「アババ?」
思わず漏れた声に、晴渡が振り返った。
晴渡が振り返った。
「…………」
時雨は固まった。
しまった。
また出た。
しかし、今度はいつものように「アバババババババ!!」と叫ぶことすらできない。
ただ、真っ赤になった顔で晴渡を見つめる。
「……えっと」
晴渡が首を傾げる。
「今、何か言いました?」
「い、いえ……」
時雨は俯いた。
「何も……」
――何もない。
何もないはずなのに。
心臓だけが、やたらとうるさい。
そして時雨は、心の中で静かに思った。
妹たちよ。
すまない。
**大祓詞では、この男には勝てない。**




