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雨音時雨は、晴渡虹介を知らない  作者: 白ご飯
第一章 雨音時雨

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第9話 腕まくり、筋肉に釘付け

 時雨はいま、虹介の会社の前に立っている。


「高天原に神留り坐す――(たかまのはらにかむづまります)

 皇親神漏岐、神漏美の命以ちて――(すめむつかむろぎ、かむろみのみこともちて)……」


 人通りのある会社の前で、ひとり大祓詞を唱えている。


 何故か。


 心身を清らかな状態へと戻すためである。


 ――いや。


 正確には、突如として発症した謎の症状を鎮めるためだ。


 その名も、


 **アバババババ症候群。**


 時雨が突然「アバババババババ!!」という奇声を発し、首をブンブン振り回した挙げ句、一瞬無になってしまうという、恐ろしい……いや、傍から見ればかなり間抜けな症状である。


 そしてこれは、そんな姉を見かねた妹ツインズが編み出した、応急処置だった。


 大祓詞を唱えれば、邪念が祓われる。


 邪念が祓われれば、考えたくないことを考えずに済む。


 ――完璧な作戦である。


「雨音さん……?」


「ひゃいぃぃぃっ!!」


 完璧な作戦は、開始からわずか数分で終了した。


 突然背後から声を掛けられ、時雨の口から飛び出したのは、神聖な祝詞とは到底結びつかない、間の抜けた悲鳴だった。


 恐る恐る振り返る。


 そこに立っていたのは――


 今、一番会いたくない人No.1。


 晴渡社長、その人だった。


「え? どうしたんですか?」


 晴渡は不思議そうに時雨を見つめる。


「こんなところで、何かブツブツ言ってましたけど……」


「あ、あの……!」


 時雨は勢いよく持っていた試作品を差し出した。


「こ、これ! また頼まれてた試作品をお持ちしましたので! 課長に持たされまして!」


「そうなんですか?」


「はい! 今日は、コレだけなので!」


 早口でまくし立てる。


「じゃ!」


 逃げる。


 とにかく逃げる。


 顔なんてまともに見られない。


 見たらまた、あの言葉を思い出してしまう。


 ――俺には。


 ――君しかいない。


 いやいやいやいや。


 違う。


 あれは聞き間違いだ。


 そうに決まっている。


 だから、早くここから離れなければ。


「ちょっと、待って!」


「ひゃああああっ!」


 突然、腕を掴まれた。


 びくんっ、と身体が跳ねる。


「うひゃぁぁ!!」


 またしても、乙女としてどうなのかという奇声が飛び出した。


 晴渡は、そんな時雨を見て苦笑する。


「……そんなに驚かなくても」


「す、すみません……」


 恥ずかしい。


 今すぐ消えたい。


 できれば大祓詞を唱えながら地面に溶け込みたい。


「折角だから、この試作品を使う所、見ていかない?」


「え……」


 時雨は固まった。


 使うところ。


 つまり――


 晴渡社長の仕事を、間近で見られる。


 それは、少し。


 ほんの少しだけ。


 興味がある。


「……はい」


 小さく頷いた。


 大祓詞の効果は、完全に消えていた。


     ◇


「こんな所があったんですね!」


 地下へ降りた時雨は、目を輝かせていた。


 晴渡の会社に、ワンフロアを丸ごと使った実験室がある。


 そんなことは、今まで知らなかった。


「なんか秘密基地みたいで、めっちゃワクワクします!」


 先ほどまで挙動不審だった人間と同一人物とは思えないほど、時雨は生き生きとしていた。


 見慣れない実験装置。


 並べられた器具。


 何に使うのかさえ分からない機械。


 その一つ一つに目を奪われている。


「へえ……!」


「ほう……!」


「おお……!」


 しかし、出てくる感想は小学生並みだった。


 本人も途中で気づいたらしく、


「……私、語彙力なさすぎる……」


 と、心の中で少し落ち込んだ。


「あはは」


 そんな時雨を見て、晴渡が笑う。


「まあ、あまりおいそれと見せられるものでもないので。秘密の実験室なのには違いないですよ」


「ですよね!」


 時雨はまた装置へ視線を戻した。


 晴渡は、いつものピシッと決めたスーツの上衣を脱ぐと、上質な生地で仕立てられたワイシャツの袖を、ゆっくりと腕まくりし始めた。


 その瞬間。


 時雨の視線が、ぴたりと止まった。


 ――腕。


 ワイシャツの袖口から覗く腕。


 仕事をするために袖をまくる、何気ない仕草。


 時雨には、警察官の制服と並ぶほど、心惹かれてやまないものがある。


 それは――


 働く男性の腕まくり。


「…………」


 見てはいけない。


 そう思うのに、目が離せない。


 普段はきっちりとスーツに身を包んでいる晴渡が、袖をまくっただけ。


 たった、それだけなのに。


 どうしてこんなにも――


「アババ……」


「アババ?」


 思わず漏れた声に、晴渡が振り返った。


 晴渡が振り返った。


「…………」


 時雨は固まった。


 しまった。


 また出た。


 しかし、今度はいつものように「アバババババババ!!」と叫ぶことすらできない。


 ただ、真っ赤になった顔で晴渡を見つめる。


「……えっと」


 晴渡が首を傾げる。


「今、何か言いました?」


「い、いえ……」


 時雨は俯いた。


「何も……」


 ――何もない。


 何もないはずなのに。


 心臓だけが、やたらとうるさい。


 そして時雨は、心の中で静かに思った。


 妹たちよ。


 すまない。


 **大祓詞では、この男には勝てない。**



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