第7話 忘れられない
未来のお兄ちゃん事件以来、業務連絡以外で会話をすることもほとんどなく、平穏な日常が続いていた。
――しかし。
その日は、突然やって来た。
「雨音さん」
いつものように仕事の話を終えたところで、晴渡社長が口を開いた。
「今日、この後……私と……」
そこで一度、言葉を止める。
「……いや、俺とランチ……どうですか?」
「え……?」
思わず顔を上げた。
「は、はい……」
突然の誘いに驚き、断る理由がとっさに出てこなかった。
こうして私は、晴渡社長と二人でランチをすることになった。
◇
連れて行かれたのは――
「……ここですか?」
私の行きつけ。
庶民感たっぷりの、昔ながらの定食屋さんだった。
「意外です……晴渡社長も、ここによくいらっしゃるんですか?」
「あ……はい」
晴渡社長は少し照れたように笑った。
「実はここ、彼女のおすすめで……」
「へえ!」
「最初は、正直ちょっと抵抗あったんですが……」
店内を見回して、ふっと笑う。
「食べるもの全部おいしくて。すっかり行きつけになりました」
「その彼女、よく分かってるじゃないですか!」
私は思わず身を乗り出した。
「そうなんです! 美味しいんですよ、ここ!」
「……ふふ」
その瞬間だった。
晴渡社長が、あまりにも幸せそうに笑った。
「…………」
その顔を見た瞬間、分かってしまった。
――ああ。
この人は今。
その彼女のことを思い浮かべている。
胸の奥を、ぐっと押さえつけられたような気がした。
「もう、晴渡社長」
私はなんとか笑ってみせる。
「そんな顔、他の女の人に見せてたら、彼女に怒られますよ?」
「…………」
晴渡社長の笑顔が消えた。
「……ない」
「え?」
「俺には……」
一瞬、言葉に詰まる。
そして、まっすぐ私を見る。
「……君しかいない」
「…………」
頭の中が真っ白になった。
「それって……」
「……っ」
晴渡社長が、はっとしたように目を逸らす。
「す、スミマセン……忘れてください!」
「え……」
「さ、ほら! 冷めないうちにいただきましょう!」
「…………」
何事もなかったかのように箸を持つ晴渡社長。
いや。
何事もなかったことにするには、今の発言はあまりにも――
その後の記憶は、ほとんどない。
一体あの後、何を喋っていたのか。
どこで晴渡社長と別れたのか。
そして私は、お会計をちゃんと済ませたのだろうか。
記憶が曖昧すぎて、自分でも怖い。
――よく会社に無事に戻ってこれたな、私。
……
――回想。
『俺には……君しかいない』
いや…
「忘れられるかぁぁぁぁぁぁいっっ!!」
オフィス中に私の絶叫が響き渡った。
「…………」
「…………」
周囲から一斉に向けられる視線。
「…………すみません」
こうして私は、その日一日、同僚たちから何とも言えない目で見られることになった。
――晴渡虹介の回想――
昼食はいつも、ゼリー飲料かバランス栄養食で済ませていた。
食事に割く時間が惜しかったからだ。
健康には、それなりに気をつけていた。
日課の早朝ランニングは欠かさなかったし、サプリメントなどで不足する栄養素も補っていた。
**彼女に教えてもらうまでは――。**
「食べるもの、全部おいしくて。すっかり行きつけになりました」
具はしょぼいが、丁寧に出汁を取られていることが分かる味噌汁。
生臭さを取るよう工夫された、サバの味噌煮。
火加減、水分量、そしてたくさん炊くことで、低価格の米でも旨味を引き出した白米。
ほんの少し添えられただけの自家製のぬか漬けでさえ、食べる人のことを考えて、丁寧に作られていることが伝わってくる。
「ほら、美味しいって顔してる」
……うん。
君の言うとおりだったよ。




