第43話 涙
「……やめて。今すぐ離れなさい……ッピぃ」
ワタルさんは、小さな両手で俺の肩を押し返そうとした。
その非力な抵抗に、俺はしばらく黙って耐えていた。
「どういうつもり!? 同情のつもりかしら……ピぃ!!」
ワタルさんの手に、ぐっと力がこもる。
俺は、抱きしめていた腕をゆっくりと緩めた。
「ワタルさん……ありがとう」
彼女の顔を見つめる。
「それと、ごめん。俺、君より十五歳も年上なのに……ずっと甘えてばかりだった」
ワタルさんが、ひゅっと息を呑んだ。
「……何よ……馬鹿かしら……ピぃ……」
その声が、かすかに震えている。
「言ったじゃない……私が……私があんな未来さえ視なければ……!」
ワタルさんは、何かを堪えるように唇を噛んだ。
「私が……私が!! 私が!!! ……ピぃ……」
……ああ。
だから、俺も言ったじゃないか。
起こることが決まっていた未来なら、たとえワタルさんが視ていなくても、時雨は……。
だけど――。
それで、この子の苦しみが消えるわけじゃない。
たった十七歳。
まだ、自分自身の人生を生きていていいはずの少女に、どれほどの苦悩を背負わせてきたのだろう。
自分の視た未来によって、一人の女性が命を捧げることになった。
そして、その女性は――。
時雨だった。
時雨は、その身一つを捧げて、干ばつに喘ぐ国に恵みの雨をもたらした。
数えきれない命が、彼女によって救われた。
けれど、その奇跡の裏側で。
ワタルさんは、どんな思いであの夜を過ごしていたのだろう。
目の前の少女は、今にも泣き出しそうなほど顔を歪めている。
それなのに、涙は一粒も零れない。
まるで、泣くことさえ自分に許していないかのようだった。
……そして俺は、不意に思い出した。
あの夜。
時雨からかかってきた、最後の電話を。
――だからね、もう会えなくなるの……私たち。
――あはは! 本当にやってくれるとは思わなかった!
――虹介、そういうところ律儀で可愛いっていうか……。
――愛おしいよ……本当に。
…………。
あのとき、時雨はどんな思いで俺に電話をかけてきたんだろう。
もう二度と会えないと知りながら。
俺の声を聞いて、笑って。
それでも最後には、あんな言葉を残して――。
……どうして。
どうして俺は、何も気づいてやれなかったんだ。
いや……違う。
あの電話より、もっと前からだ。
時雨が突然、俺に会いに来たあの日。
仕事に追われていた俺は、彼女と些細なことで喧嘩をしてしまった。
あのとき、時雨は何か話したい事があるって言っていた。
俺は、それを聞こうともしなかった。
そのあと、時雨は俺から離れていった。
……あいつは、いったい何を言おうとしていたんだろう。
俺に何を伝えたくて、あの日、会いに来てくれたんだろう。
今となっては、確かめることさえできない。
目の前が、すうっと暗くなった。
胸の奥から、どうしようもない後悔が込み上げてくる。
けれど――。
今、俺の目の前にも、同じように苦しんでいる少女がいる。
自分を責め続け、泣くことさえできずにいる、小さな女の子が。
「ワタルさん……」
俺は、震えそうになる声を押さえた。
「頼むから……泣いてくれないか」
ワタルさんの顔を、まっすぐ見つめる。
「君は……もっと、自分に優しくしてあげないとダメだ……」
俺だって、今すぐ泣きたい。
時雨のことを思い出すだけで、胸が張り裂けそうになる。
でも、今は――。
こんなにも苦しそうな顔をしているのに、涙一つ流せずにいるこの子の前で、俺が先に泣くわけにはいかない。
せめて、この子が安心して泣けるようになるまでは。
「やめなさいっ!! クズ!! バカっ!! それ以上、何か言ったら……許さないからっ!! ピぃいいっ!!」
ワタルさんが、震える声で叫んだ。
それでも、俺にはどうしても伝えたいことがあった。
「……ワタルさん。時雨は、最後に言ってくれたんです」
喉の奥が、きゅっと締めつけられる。
「ありがとう、楽しかったよ……って」
ワタルさんが、はっと息を呑んだ。
それきり、何も言わなくなった。
「きっと……そう思える時間を、時雨にくれたのは……」
言葉が途切れる。
胸の奥から、どうしようもない悲しみが込み上げてきた。
「ワタルさんが……あの未来を視てくれた……お陰……なんだと……思う……」
……ダメだ。
心から、そう思っているのに。
喉が潰れそうなほど苦しくて、言葉がつかえて出てこない。
それでも、どうにか彼女へ伝えたかった。
時雨が最後に残してくれた、あの言葉の意味を。
「……馬鹿……かしら……」
ワタルさんが、ぽつりと呟いた。
「彼氏が……彼氏なら……彼女も彼女……だわ……」
その声は、今にも消えてしまいそうなほど小さかった。
「ホントに……お似合いの……お人好し同士……」
ワタルさんは、笑おうとした。
「……笑える……わ……ピぃ……」
けれど、その声は途中で震え始めた。
「ひっ……うぅ……」
小さな喉から、押し殺したような声が漏れる。
「恨言の……一つでも……」
ワタルさんが、くしゃりと顔を歪めた。
「なんで……なんで……っ!」
そして――。
「あぁぁぁぁぁっ!!」
とうとう、堪えていたものが溢れ出した。
ワタルさんの目から、大粒の涙が次々と零れ落ちる。
小さな肩を震わせながら、彼女は声を上げて泣いた。
いつもお読みいただき、ありがとうございます。
私事で恐縮ですが、諸事情により、しばらく更新が不定期になるかと思います。
物語はこれからも大切に書き続けていきたいと思っていますので、気長にお付き合いいただけましたら幸いです。




