第3話 クロネコさんの名は
時雨は今、会社の応接室のソファに座る男に、静々と来客用のお茶を出していた。
「わあ、いい香り〜! さすが玉露様! ぬるめのお湯で、時間をかけてじっくり淹れるのが鉄則なんだよね〜。あはは! 私ってホント、有能だわぁ……」
――いや、落ち着け、私。
電車を降りた瞬間から、なんとなく違和感はあった。
――あ、そうか。クロネコさんも最初はこの駅から電車に乗ってたもんね。もしかしたら、会社もこの辺りなのかも……。
向かう方向も同じだった。
――まあ、オフィス街ですからね〜。会社、やっぱり近いのかもね〜。あり得るあり得る!
そう自分を納得させながら会社まで来たのだが。
そして、今。
時雨「申し訳ございません。柚木はもうすぐ到着いたします。こちら、資料で……」
資料を差し出した、その時だった。
クロネコさん「財布はちゃんと見つかりましたか?」
「……え?」
一瞬、時雨の動きが止まる。
――う……。課長との会話、聞かれてたか……。
時雨「はい……お陰様で、なんとか……」
クロネコさん「それはよかったですね! 休日なのに、私の急な用事に付き合わせてしまうことになって申し訳なかったです! なんだか、とてもお嫌そうでしたからね(笑)」
――うっ……!
あの時の課長との電話、そんなに嫌そうに聞こえてたのか!
時雨「いえ! あの時は、別にそういう状況ではなくてですね!」
クロネコさん「あはは! 冗談です。困らせて申し訳ない(笑)」
そう言って、彼は爽やかに笑った。
クロネコさん「私はここで待たせていただきますので、雨音さんはどうぞお帰りください。せっかくの休日なんですから!」
時雨「……」
――くっ…、なんたる爽やかイケメン!!
お前はホントに少女漫画のヒーローかぁ?!
クロネコさん――本名、晴渡虹介さんとの出会いは、そんな感じだった。
結局、あの後。
柚木課長が到着するまでの間、私たちは他愛もない世間話で盛り上がった。
そして、ずっと気になっていた「クロネコちゃんトート」の謎も、あっさり判明した。
どうやら、この鞄。
――彼女のご命令らしい。
彼女さん曰く、
「あなたは隙がなさすぎて、つまらない」
……だそうだ。
そして、ひょんなことから彼女と喧嘩をしてしまったものの、どう謝ればいいのか分からず困り果てていた晴渡さん。
そんな彼に彼女が渡したのが、このトートバッグだった。
「罰として、私がいいって言うまで、このトートバッグで過ごすこと」
……という、なんとも可愛らしい罰ゲームとともに。
――はい、はい。
ごちそうさまでした!
別に……期待なんかしてなかったんだからね!
……ほんのちょっとだけ、期待してたけど。
晴渡「ふふ……可愛い人なんです」
「……え?」
晴渡さんは、そう言ってから、なぜかじっと私の目を見つめた。
そして、そのまま何も言わなくなる。
その口元には、笑みが浮かんでいた。
けれど――
どこか、寂しそうな微笑みだった。
そして、晴渡さんの会社との取引が正式に決まった。
新興企業ながら、どうやらかなり勢いのある会社らしい。
それからというもの、私はちょいちょい「お使い」に出されるようになった。
晴渡さんの会社へ、サンプル資料を届けたり、確認事項を伝えたり。
ある日のこと。
柚木課長「いやぁ、えらく晴渡さんが雨音さんを気に入られたみたいだね! これも会社のためだと思って!」
雨音「はぁ……別に、私は構いませんが……」
――気に入った?
私を?
……どこで?
たしかに、最初に会った時も他愛もない世間話で盛り上がった。
でも、気に入られるような要素、あったっけ?
腑に落ちない気持ちはあったものの、仕事は仕事。
私は資料を抱え、晴渡さんの会社へ向かった。
会社が入っているのは、大きなビルのワンフロア。
入口は社員専用のパスキーか、インターホンで中からオートロックを解除してもらわないと入れない。
……なんだか、ちょっと緊張する。
私は呼び出しボタンを押した。
雨音「お世話になっております。〇〇コーポレーション、雨音と申します」
すると、すぐに聞き覚えのある声が返ってきた。
晴渡「雨音さん! お待ちしておりました! どうぞ、中にお入りください!」
――本人!?
間もなく、オートロックの解除音が響いた。
中へ入ると、案内の人に奥まで通される。
そして――。
社長室の扉が開いた。
晴渡「お待ちしてました、雨音さん!」
そこには、例のごとく仕立ての良いスーツを完璧に着こなした晴渡社長が、満面の笑みで立っていた。
……。
しがない一事務員ごときが。
取引先の社長室に通される日がくるとは。
恐悦至極に存じます。
「気に入られてる」と言われたものの、実際に晴渡社長に会ってみると、普通に仕事の話だけで終わることも多い。
少し世間話をすることもあるけれど、これといって特別な好意を感じるわけでもない。
まあ、私を通したほうが仕事がやりやすいと思ってもらえているのなら――
事務員冥利につきますよ、ええ。
恐悦至極に存じます。




