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雨音時雨は、晴渡虹介を知らない  作者: 白ご飯
第一章 雨音時雨

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第2話 秋晴れ、再会


― 土曜日 ―


今日は休日だ。


時雨は休日になると、必ずと言っていいほど行きつけのパン屋へ行く。


お目当ては、いつもの――


**特盛☆明太子フランス**


それを買うために、通勤用の鞄からエコバッグへ財布を移し替えようとした、そのときだった。


ふと、あの日の光景が蘇った。


「……ふっ……ふふ……クロネコちゃんトート……」


仕立てのいいスーツ。

高そうな靴。

形のいい後頭部。


そして――


あの、どう考えても服装に似合っていなかった、アイボリー色の黒猫トート。


「あはははは!」


時雨は、あの日から事あるごとに思い出しては、一人でニヤニヤしていた。


別に、男が面白かったわけではない。


いや。


面白かったのかもしれない。


あの男が何者なのか、結局分からないままだ。


ただ、あの組み合わせだけは、どうしても頭から離れなかった。


そんな雨の日から数日。


停滞していた秋雨前線はようやく通過し、空には気持ちのいい秋晴れが広がっている。


今日は絶好の散歩日和だ。


「ちょうどいい。散歩にもなりそう」


時雨は鼻歌交じりに、鞄の中を探った。


財布を。


財布を……。


「あれ?」


もう一度、鞄の中を探る。


ない。


昨日の服のポケットも探す。


ない。


「…………」


時雨の動きが止まった。


そして――


「ああああああ!!!」


痛恨のダメージ。


思い出した。


昨日の昼休み。


会社の近くの食堂へ行くため、財布を持って外へ出た。


そして会社へ戻ったあと、すぐに課長に呼ばれたのだ。


そのとき、財布を鞄へ戻さず、机の引き出しへ入れた。


――そのままだ。


今や、電車も買い物もスマートフォン一つで済んでしまう。


帰り道に財布が鞄に入っていないことに、まったく気づかなかったのだ。


「どうしよう……」


スマホがあれば、パンは買える。


しかし、財布にはクレジットカードも、マイナンバーカードも入っている。


「……取りに行くしかないかぁ」


迷っている場合ではない。


時雨は即座に決断した。


――会社へ行こう。


せっかくの休日だが仕方がない。


財布を取り戻すため、時雨は玄関を出た。


◇


時雨は自宅を出て、いつも使っている最寄り駅のホームに立っていた。


休日の朝。


平日の通勤時間とは違い、ホームにはどこかのんびりとした空気が流れている。


さて、会社へ財布を取りに行って、ついでにパン屋へ寄ろう。


そう思っていた、そのときだった。


――あ。


時雨の目の前に、あの男が立っている。


間違いない。


あの、猫トートの男だ。


スーツは前に見たものとは違っていた。


それでも、やはり仕立てがいい。


身体の線を綺麗に見せながら、決して不自然なほどピタピタではない。

肩まわりにはきちんと余裕があり、太腿のあたりにも窮屈さを感じさせないゆとりがある。


それでいて、ただ大きめに作られているわけではない。


男の身体を美しく見せながら、同時に、その身体の動きを邪魔しないように設計されている。


時雨には服飾の専門的な知識などない。


それでも、これは職人の技術なのだろうと、素直に感心した。


「……すごいなぁ」


思わず、心の中で唸る。


そして足元。


曇り一つない、ぴかぴかの革靴。


今日の秋晴れの空のように、実に爽快だ。


「毎日、自分で磨いてたらメッチャマメ……」


時雨はそんなことを考えながら、男を眺めていた。


そして――


ふと、視線が肩へ向かう。


もちろん、そこには。


「あ……」


あのときの。


アイボリー色のトートバッグ。


丸まった黒猫のイラスト。


今日も、いる。


時雨は思わず口元を緩めた。


「こんにちは、クロネコさん……笑」


そのとき、不意に時雨のスマートフォンが鳴った。


画面に表示された着信者の名前は――


**「課長」**


家を出たあと、忘れ物を取りに会社へ入るため、時雨は課長に一言メールを送っていた。


その返事だろう。


「……課長か」


時雨がスマートフォンを手に取った、その瞬間だった。


不意に――


「クロネコさん」が、後ろを振り返った。


そして。


時雨が応答ボタンを押し、スマートフォンを耳へ近づけようとした、その瞬間。


目が合った。


――ばっちりと。


「あ……」


思わず、声が漏れる。


ほら。


やっぱりね。


顔立ちも、いい。


切れ長の目。


すっと通った高い鼻梁。


薄い唇。


そして、シャープな顎。


贅肉の影など、どこにもない。


……どこの少女漫画の住人ですか?


時雨の思考が、一瞬だけ停止した。


しかし、そんな時雨を現実へ引き戻すように、スマートフォンから声が響く。


『もしもし? 雨音さん? 今、大丈夫?』


「あ、はい。もうすぐ電車が来るので、少しだけですが……」


『実はね、僕も今日、急な来客があって、今から会社に向かうんだけど、間に合わなくて!』


「はい……」


『申し訳ないんだけど、お客様にお茶を出してほしいんだ。ああ、それからパソコンから資料の印刷を――』


「はい……はい……分かりました。はい、大丈夫です……」


課長の声が、耳元で続いている。


時雨は相槌を打つ。


仕事の内容も、一応聞いている。


聞いてはいる。


しかし――


視界の端にいる男の存在が、どうしても気になった。


クロネコさんは、とっくに前を向き直っている。


何事もなかったかのように、ホームに立っている。


時雨も電話を続けながら、なんとか平静を装っていた。


「はい。では、会社に着いたら――」


そう答えながらも。


頭の中では、さっきの光景が何度も繰り返されていた。


振り返る。


目が合う。


切れ長の目。


高い鼻梁。


薄い唇。


シャープな顎。


――目が合う。


「あ……」


また、脳内で再生される。


時雨は課長の話を聞きながら、ひたすら相槌を打った。


「はい……はい……分かりました」


しかし、その思考はすっかり別のところへ飛んでいた。


――クロネコさん。


あの顔は、反則じゃないだろうか。



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