第1話 秋雨前線、出会い
雨音時雨は、その日、駅のホームで気になる男を見つけた。
いつもの帰り道。
いつもの駅。
いつものように、帰りの電車を待っているだけの、なんの変哲もない一日だった。
秋雨前線が居座り、連日のように雨が降り続いている。
雨が嫌いなわけではない。
ただ、こう何日も続けば、さすがに気分も滅入ってくる。
そんな、少し憂うつな時雨の日常に、その男は突然現れた。
どこが気になるのか。
まず、スタイルがいい。
すらりとした体躯に、仕立ての良さが素人目にも分かるスーツをまとっている。
しかも、そのスーツを着こなしている身体が、ただ細いだけではない。
肩の張り。
背中の厚み。
無駄のない腰回り。
おそらく、丹念にトレーニングをしているのだろう。
そして足元。
これもまた、きっとそれなりのブランドなのだろうと思わせる革靴だった。
年齢は、二十代後半から三十代前半といったところか。
顔は見えない。
時雨から見えるのは、男の後ろ姿だけだった。
しかし――
悪くないに違いない。
なぜなら、後頭部の形がいい。
……我ながら、ずいぶん雑な推察だと思う。
だが、時雨はそう思った。
そして。
時雨が何より気になったのは、男そのものではなかった。
カバンだ。
明らかに、合っていない。
良いスーツ。
良い靴。
鍛えられた身体。
どこからどう見ても、そこそこ……いや、かなり裕福そうな男。
そんな男が肩から下げているのは――
近所のスーパーへ買い物に行くときに使いそうな、アイボリー色のトートバッグ。
しかも。
丸まった黒猫のイラストが、堂々とプリントされている。
……安い。
どう見ても、安い。
少なくとも、今の男が身につけているものとの釣り合いが、まったく取れていない。
時雨は思わず、そのトートバッグを二度見した。
いや。
三度見した。
一体、どういうことなのだろう。
男は、あれほど仕立ての良さそうなスーツを着ている。
なのに、なぜカバンだけが近所のおばちゃん御用達の猫トートなのか。
もしかすると、奥さんに頼まれて買い物をしているのだろうか。
しかし、それならこの駅の近くにはスーパーがある。
わざわざ、電車に乗る必要はないだろう。
では、誰かへのプレゼントでも入っているのか。
あるいは――
時雨は、もう一度その猫トートを見た。
そして、ふと思いつく。
「あ……あれか!」
もしかして。
**自社製品の宣伝?**
そう考えると、妙に納得がいく。
もしそうだとしたら――
あなた、大成功だわ。
だって。
「あなたのその格好に、合わなさすぎてメッチャ目立ってるんだから!」
もちろん、声には出さない。
ただ、時雨の中では完全に広告戦略として成立していた。
高そうなスーツ。
高そうな靴。
鍛え抜かれた身体。
そこに、妙に庶民的な黒猫トート。
合っていない。
だからこそ、目に入る。
一度目に入ってしまえば、気になって仕方がない。
そして今、時雨はまんまとその罠に引っかかっている。
……もし本当に宣伝だったら。
これは確かに、かなりの成功例だ。
そんなことを考えながら、時雨は目の前に立つ男を眺めていた。
やがて電車がホームへ滑り込んでくる。
男が乗り込む。
時雨も少し遅れて、その後に続いた。
男は三駅先で降りていった。
結局、最後まで顔を見ることはなかった。
あの猫トートの謎も、解けないままだった。
電車のドアが閉まり、男の姿が駅の改札口に続く階段へ消えていく。
時雨はぼんやりと窓の外を眺めながら思った。
知らない人の人生なんて、知らないままのほうが面白いこともある。
今日の帰り道は、少しだけ退屈じゃなかった。




