第22話 空中の社(ヤシロ)
名前すら知らない不健康美少女に騙されていないことを祈りながら、俺はエントランスへ向かった。
当然のように、自動ドアは開かない。
脇に設置された来訪者用のインターホンに、昨日見せられた部屋番号――『1005』を入力する。
数回の呼び出し音のあと、聞き覚えのある声がした。
『…………来たのね』
「あ……昨日の――」
『コンシェルジュには話を通してあるわ』
「え?」
『時空ワタル(トキソラワタル)の家庭教師の面接に来た。そう言ってちょうだい』
「……トキソラ、ワタル?」
『私の名前よ』
「ああ……」
ここで、初めて彼女の名前を知った。
『それと、余計なことは喋らないで』
「わ、わかりました」
『本当にわかってるのかしら……』
小さなため息とともに通話が切れ、目の前の自動ドアが静かに開いた。
中へ入ると、制服姿のコンシェルジュが俺に一礼する。
「晴渡虹介様でございますね。時空様より伺っております」
「……はい」
「家庭教師の面接でお越しとのことで」
「…………ええ、まあ……」
背筋に冷たいものが走った。
――俺、名前教えたっけ?
昨日差し出した名刺は、革の染料が滲んで名前すらまともに読めなかったはずだ。
これ以上グズ扱いされないためにも、余計なことは言わない方がいい。
俺はコンシェルジュに対しても細心の注意を払い、その案内に従った。
◇ ◇ ◇
「昨日のうちに身元は調べさせてもらったわ。晴渡虹介、三十二歳。株式会社――代表取締役。……ずいぶん立派な『良識ある大人』だったのね」
エレベーターを降りると、そこはもう住居の玄関だった。
そして開口一番、不健康美少女――時空ワタルさんは、俺にそう告げた。
「そ……そうなんですね……」
やはり、とんでもない世界に首を突っ込んでしまったらしい。
いや。
それでも知りたいから、ここまで来たんじゃないか。
「ふん……! 別に敬語なんて使わなくていいわよ。あなたより十五歳も年下なんだから!」
「十五歳……?」
十七歳か。
改めて見ると、やはり身体は小さく、ひどく痩せている。
青白い顔も相まって、とても健康そうには見えなかった。
そんな俺の視線に気づいたのか、彼女が眉を吊り上げる。
「何よ! 私の身体がそんなにおかしい?!」
「すみません……じゃなくて……ごめん。その、あまり体調が良くなさそうに見えたから」
「……余計なおしゃべりはもういいわ。時間がないの。行くわよ」
「え?」
ワタルさんは車椅子を進め、玄関から奥へと続く廊下を進んでいく。
そのあとをついていった俺の前に現れたのは――
もう一基のエレベーターだった。
「……これに乗るの?」
「なに? 眺めて楽しむつもり?」
「…………」
俺はもう、余計なことは言わないと胸に誓った。
◇ ◇ ◇
――ポーン。
エレベーターが目的の階に到着したことを知らせる。
操作盤の上にあるインジケーターには、『11』の数字。
ゆっくりと扉が開いた。
その瞬間、異質な空気が流れ込んできた。
「…………」
俺は目の前に広がる光景に圧倒され、そこから先へ足を踏み出すことができなかった。
最低限の照明だけに照らされた、薄暗く静謐な空間。
まず目に飛び込んできたのは、見上げるほど巨大な朱色の鳥居だった。
それだけのものを設置してなお、天井は遥か高い。
十一階から上――おそらく五、六階分を丸ごと吹き抜けにしている。
「なんだ……ここ……」
鳥居の向こうには、本宮らしき建物が見えた。
そして、そのさらに上。
薄闇の中に、巨大な何かが浮かんでいる。
――砂時計?
一瞬、そう見えた。
だが、違う。
透き通った巨大な器の中を満たしているのは、砂ではなく――水だった。
一滴。
また、一滴。
水がゆっくりと下へ落ちていく。
静まり返った空間に、その音だけが規則正しく響いていた。




