第11話 クロネコさんの……馬鹿
それからというもの、事あるごとに晴渡社長は、私をランチに誘うようになった。
「じゃ、行こうか」
と、自然に一緒に出かけるほど、晴渡社長とのランチは、私の日常の一部になっていた。
それどころか、夕方に資料を届けに行ったとき、
「そういえば、あそこの居酒屋が出す刺身が……」
なんて話になれば、そのまま飲みに行くことさえある。
すっかり、そんな間柄になってしまった。
ただ、そのたびに私は心の中で、
**この人は彼女持ち。
この人は彼女持ち。南無阿弥陀仏。**
と、神道は捨てて必死に念仏を唱えていた。
だって、ほら。
今日も、あのクロネコちゃんトートを下げている。
◇
今日は、オフィス近くの大衆居酒屋チェーン店で、大ジョッキを五杯空けた。
さすがに酔いが回って、世界がふわふわと浮かんでいる。
椅子に掛けられたクロネコちゃんトートがじっとコチラを見ている。
「クロネコさんの……馬鹿……」
ぽろり。
酔いに任せて、口から不満がこぼれた。
「クロネコさん?」
「――!」
しまった。
口が滑った。
「あ……いえ、その……そのクロネコちゃんトートが、馬鹿可愛いなって話で……あはは」
我ながら、苦しい言い訳だ。
けれど晴渡社長は、
「ああ……そうでしょう?」
そう言って、ふわりと笑った。
――なんて、優しい顔。
もう、ダメだった。
ぽろり。
ぽろり。
気づけば、時雨の目から涙がこぼれていた。
雨粒のような涙が、頬を伝って落ちていく。
誰を想って、そんな優しい顔で笑うの……?
「もう……無理れす……私……もう……」
酔いで理性の利かなくなった時雨は、胸の奥に押し込めていた感情を、ただ口にすることしかできなくなっていた。
「どうしたの? 気持ち悪い? かなり飲んでたもんね……ごめん、気づかなくて。どうしよう……帰れそう?」
時雨は、首をぶんぶんと勢いよく振った。
「そうじゃなくて!」
「え?」
「もう……晴渡社長のそばに……そばにいるのは、辛くてムリなんれすうぅぅぅ!!」
「ええっ!?」
「うあぁぁぁぁぁん!!」
泣きながら叫ぶ時雨を前に、晴渡は、ただ目を丸くしている。
最初は、ただ――
**なんか、後ろ姿のカッコいい人が、似合わないトートバッグを下げてるな。**
その程度だったはずなのに。
……でも、思えば。
あの瞬間には、もう落ちていたのかもしれない。
何度も、あの雨の日のホームで見た晴渡社長の後ろ姿を思い出しては、一人でニヤニヤしていた。
そして、秋晴れの土曜日。
駅のホームで再会して。
その人が取引先の社長だと知って。
会社のお得意様になって。
年が明けて、映画館で一緒に映画を観て。
あの地下の実験室で、目を輝かせながら研究の話をする姿を見て。
晴渡虹介という人の新たな一面を知ることができた。
それからも、何度も、何度も。
一緒に食事をして。
くだらない話をして。
笑って。
時間を重ねた。
――その、重ねた時間の分だけ。
私の想いも、少しずつ、少しずつ募っていったんだ。
こんなにも。
自分でも、制御できないくらいに。
◇
俺は、何を間違えたんだろう。
彼女は今、俺と一緒にいることが辛いと言って泣いている。
俺は、白くなるほど拳を握りしめた。
「雨音さん……いや、時雨。話したいことがあるんだ。一緒に来てくれないか?」
何事かとこちらを見つめる視線が痛い店内から、泣きわめく彼女をなんとか連れ出す。
俺は時雨を、自分のオフィスへと連れてきた。
「さ、座って……」
自販機で買ったミネラルウォーターの栓を開け、時雨に手渡す。
「ごめん……。まず、謝罪からさせてほしい」
ソファに座った彼女を前に、俺は慎重に言葉を選んだ。
何年経っても、脳裏に焼きついているあの日の記憶が俺の胸を締め付ける。
「ごめんね。仕事のメールしてて……」
「もう……お家デートの意味ない……」
「今、大事な時なんだ。遊びに来たなら、さっさと会社に戻ってくれ!」
「……虹介のバカ!! もう知らん!」
「え……もう、会えないって、どういうこと?」
「それじゃあね! 今までありがとう! 楽しかったよ!」
やっと…やっとここまで来たんだよ…俺、やっと後悔もない、失わない未来を掴めそうって所まで…もう、手遅れなのか…?
◇
「きっと……俺は、何かとてもひどいことを雨音さんにしてしまったんだね……」
――あ。
時雨。
もう、「時雨」って呼んでくれないんだ……。
「はい。特級の重罪犯です」
思わず、そんな言葉が口から出た。
晴渡社長は、苦笑した。
「もう、俺に会うのが……そんなにつらい?」
コクリ。
肯定の意を示す。
「そっか……。そんなに雨音さんを傷つけてしまっていたんだね……」
優しいな。
好きじゃない私のために、そんな辛そうな顔をして。
……なんだか、私の方が重罪犯になったような気分になってきた。
「何が、そんなに雨音さんを傷つけてしまったのか、聞いてもいいかな?」
晴渡社長が、真っすぐに私の目を見つめる。
真剣な眼差しだった。
言えるわけがない。
こんなドロドロで醜い私の感情を、好きな人に晒すなんて。
何の公開処刑だ……。
結局、私はその真っすぐな視線を受け止めきれず、目を逸らした。
「…………」
何も言えない。
何も言えるはずがない。
晴渡社長は、何かを諦めたように、
「はぁ……」
と、小さく息を吐いた。
――あ。
失望された。
そう思った瞬間、酔いが一気に醒めていく。
きっと私は今から、とても大切なものを失う。
そんな予感がした。
胸騒ぎがする。
酔いからくる動悸じゃない。
もっと苦しくて、逃げ出したくなるような鼓動。
ドクン。
ドクン。
不安と緊張が、心臓を激しく打ちつける。
「そっか……話せないんだね」
晴渡社長は、静かに言った。
「わかった」
――もう、会わない。
そんな言葉を、私は予想していた。
次の瞬間。
「――え?」
私は、晴渡社長の腕の中に閉じ込められていた。
あまりにも突然のことで、何が起きたのか理解できない。
爽やかで、品のいい大人の男性の香水が、私の嗅覚を支配する。
予想していた言葉とも、行動とも違う。
あまりにも斜め上から飛んできた抱擁に、私の頭は真っ白になった。
「ごめん……最後にするから」
耳元で、掠れた声がする。
「ほんの少しだけ……許して……」
冗談とは思えない声色だった。
本当に心の底から、切実に訴えている。
どうして?
なんで、そんな泣きそうな声で言うの……?
「分かりません……」
声が震える。
「晴渡社長が何を考えているのか……私、まったく……」
顔は見えない。
けれど、困ったように晴渡社長が笑った気配がした。
「好き……だから……」
――は?
「好きだよ……ずっと……」
アバ……?
アババ……??
アバババババババババババババババ!!!




