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雨音時雨は、晴渡虹介を知らない  作者: 白ご飯
第一章 雨音時雨

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第11話 クロネコさんの……馬鹿

 

 それからというもの、事あるごとに晴渡社長は、私をランチに誘うようになった。


「じゃ、行こうか」


 と、自然に一緒に出かけるほど、晴渡社長とのランチは、私の日常の一部になっていた。


 それどころか、夕方に資料を届けに行ったとき、


「そういえば、あそこの居酒屋が出す刺身が……」


 なんて話になれば、そのまま飲みに行くことさえある。


 すっかり、そんな間柄になってしまった。


 ただ、そのたびに私は心の中で、


**この人は彼女持ち。

この人は彼女持ち。南無阿弥陀仏。**


 と、神道は捨てて必死に念仏を唱えていた。


 だって、ほら。


 今日も、あのクロネコちゃんトートを下げている。


◇


 今日は、オフィス近くの大衆居酒屋チェーン店で、大ジョッキを五杯空けた。


 さすがに酔いが回って、世界がふわふわと浮かんでいる。


 椅子に掛けられたクロネコちゃんトートがじっとコチラを見ている。


「クロネコさんの……馬鹿……」


 ぽろり。


 酔いに任せて、口から不満がこぼれた。


「クロネコさん?」


「――!」


 しまった。


 口が滑った。


「あ……いえ、その……そのクロネコちゃんトートが、馬鹿可愛いなって話で……あはは」


 我ながら、苦しい言い訳だ。


 けれど晴渡社長は、


「ああ……そうでしょう?」


 そう言って、ふわりと笑った。


 ――なんて、優しい顔。


 もう、ダメだった。


 ぽろり。


 ぽろり。


 気づけば、時雨の目から涙がこぼれていた。


 雨粒のような涙が、頬を伝って落ちていく。


 誰を想って、そんな優しい顔で笑うの……?


「もう……無理れす……私……もう……」


 酔いで理性の利かなくなった時雨は、胸の奥に押し込めていた感情を、ただ口にすることしかできなくなっていた。


「どうしたの? 気持ち悪い? かなり飲んでたもんね……ごめん、気づかなくて。どうしよう……帰れそう?」


 時雨は、首をぶんぶんと勢いよく振った。


「そうじゃなくて!」


「え?」


「もう……晴渡社長のそばに……そばにいるのは、辛くてムリなんれすうぅぅぅ!!」



「ええっ!?」



「うあぁぁぁぁぁん!!」



 泣きながら叫ぶ時雨を前に、晴渡は、ただ目を丸くしている。


 最初は、ただ――


**なんか、後ろ姿のカッコいい人が、似合わないトートバッグを下げてるな。**


 その程度だったはずなのに。


 ……でも、思えば。


 あの瞬間には、もう落ちていたのかもしれない。


 何度も、あの雨の日のホームで見た晴渡社長の後ろ姿を思い出しては、一人でニヤニヤしていた。


 そして、秋晴れの土曜日。


 駅のホームで再会して。


 その人が取引先の社長だと知って。


 会社のお得意様になって。


 年が明けて、映画館で一緒に映画を観て。

 

 あの地下の実験室で、目を輝かせながら研究の話をする姿を見て。


 晴渡虹介という人の新たな一面を知ることができた。


 それからも、何度も、何度も。


 一緒に食事をして。


 くだらない話をして。


 笑って。


 時間を重ねた。


 ――その、重ねた時間の分だけ。


 私の想いも、少しずつ、少しずつ募っていったんだ。


 こんなにも。


 自分でも、制御できないくらいに。



◇



 俺は、何を間違えたんだろう。


 彼女は今、俺と一緒にいることが辛いと言って泣いている。


 俺は、白くなるほど拳を握りしめた。


「雨音さん……いや、時雨。話したいことがあるんだ。一緒に来てくれないか?」


 何事かとこちらを見つめる視線が痛い店内から、泣きわめく彼女をなんとか連れ出す。


 俺は時雨を、自分のオフィスへと連れてきた。


「さ、座って……」


 自販機で買ったミネラルウォーターの栓を開け、時雨に手渡す。


「ごめん……。まず、謝罪からさせてほしい」



 ソファに座った彼女を前に、俺は慎重に言葉を選んだ。


 何年経っても、脳裏に焼きついているあの日の記憶が俺の胸を締め付ける。


 

 「ごめんね。仕事のメールしてて……」

  

 「もう……お家デートの意味ない……」


 「今、大事な時なんだ。遊びに来たなら、さっさと会社に戻ってくれ!」


 「……虹介のバカ!! もう知らん!」


 「え……もう、会えないって、どういうこと?」


 「それじゃあね! 今までありがとう! 楽しかったよ!」 

    

 やっと…やっとここまで来たんだよ…俺、やっと後悔もない、失わない未来を掴めそうって所まで…もう、手遅れなのか…?



 ◇

 

 「きっと……俺は、何かとてもひどいことを雨音さんにしてしまったんだね……」

  


 ――あ。


 時雨。


 もう、「時雨」って呼んでくれないんだ……。


「はい。特級の重罪犯です」


 思わず、そんな言葉が口から出た。


 晴渡社長は、苦笑した。


「もう、俺に会うのが……そんなにつらい?」


 コクリ。


 肯定の意を示す。


「そっか……。そんなに雨音さんを傷つけてしまっていたんだね……」


 優しいな。


 好きじゃない私のために、そんな辛そうな顔をして。


 ……なんだか、私の方が重罪犯になったような気分になってきた。


「何が、そんなに雨音さんを傷つけてしまったのか、聞いてもいいかな?」


 晴渡社長が、真っすぐに私の目を見つめる。


 真剣な眼差しだった。


 言えるわけがない。


 こんなドロドロで醜い私の感情を、好きな人に晒すなんて。


 何の公開処刑だ……。


 結局、私はその真っすぐな視線を受け止めきれず、目を逸らした。


「…………」


 何も言えない。


 何も言えるはずがない。


 晴渡社長は、何かを諦めたように、


「はぁ……」


 と、小さく息を吐いた。


 ――あ。


 失望された。


 そう思った瞬間、酔いが一気に醒めていく。


 きっと私は今から、とても大切なものを失う。


 そんな予感がした。


 胸騒ぎがする。


 酔いからくる動悸じゃない。


 もっと苦しくて、逃げ出したくなるような鼓動。


 ドクン。


 ドクン。


 不安と緊張が、心臓を激しく打ちつける。


「そっか……話せないんだね」


 晴渡社長は、静かに言った。


「わかった」


 ――もう、会わない。


 そんな言葉を、私は予想していた。


 次の瞬間。


「――え?」


 私は、晴渡社長の腕の中に閉じ込められていた。


 あまりにも突然のことで、何が起きたのか理解できない。


 爽やかで、品のいい大人の男性の香水が、私の嗅覚を支配する。


 予想していた言葉とも、行動とも違う。


 あまりにも斜め上から飛んできた抱擁に、私の頭は真っ白になった。


「ごめん……最後にするから」


 耳元で、掠れた声がする。


「ほんの少しだけ……許して……」


 冗談とは思えない声色だった。


 本当に心の底から、切実に訴えている。


 どうして?


 なんで、そんな泣きそうな声で言うの……?


「分かりません……」


 声が震える。


「晴渡社長が何を考えているのか……私、まったく……」


 顔は見えない。


 けれど、困ったように晴渡社長が笑った気配がした。




「好き……だから……」





 ――は?





「好きだよ……ずっと……」



 アバ……?



 アババ……??



 アバババババババババババババババ!!!





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