通過儀礼
風が止んでいた。
いや、止んでいるように錯覚するほど、空気が張りつめていただけかもしれない。
トロスト区の外れに設けられた広場に、百人近い少年少女が整列していた。
誰も喋らない。
ただ、呼吸だけが、ぎこちなく揃っていく。
土の匂い。
汗の匂い。
不安と緊張の混ざった、生きた人間の匂い。
べレス・アッカーマンは、その列の中でまっすぐ前を見据えていた。
だが、彼の意識は、ここにはなかった。
――似たような場所に、立ったことがある。
そう思う。
だが、それが「いつ」なのか、「どこ」なのか、思い出せない。
ただ、胸の奥にひっかかる。
まるで、忘れたはずの悪夢の続きを、今からまた見せられるような――そんな感覚だった。
「……来るぞ」
ふと、誰かの小さな声が背後で漏れる。
次の瞬間、
軍靴の音が、地面を打ち鳴らした。
――ザッ、ザッ、ザッ、ザッ。
一定の間隔で踏み鳴らされる音が、広場に響くたび、空気が削られていく。
やがて、ひとりの男が、訓練兵たちの前に立った。
「気をつけ!!」
鋭い号令が飛ぶ。
全員の背筋が、反射のように伸びた。
べレスもまた、そうしていた。
意識していないのに、身体が、やり方を知っている。
「ただ今より――」
低く、冷たく、胸の奥まで刺さる声。
「第104期訓練兵団の、入団式を行う!!」
一瞬で、場の空気が凍りついた。
男の名は、キース・シャーディス。
その眼は、人を見る眼ではなかった。
兵士として“使えるかどうか”
ただそれだけを測る、冷たい眼だった。
「私が、運悪く貴様らを監督することになった、キース・シャーディスだ!!」
怒声が、突き刺さる。
何人かが、びくりと肩を跳ねさせる。
「貴様らを歓迎するつもりは、毛頭ない!!」
「今の貴様らは、せいぜい巨人の餌になる程度の存在……」
そこで、一拍置く。
「家畜以下だ!!!」
罵声が、容赦なく広場に叩きつけられる。
誰かが、唾を飲み込む音がした。
誰かの指が、わずかに震えている。
だが、その中で――
べレスだけが、静かだった。
恐怖でも、怒りでもない。
ただ、確信に近づいていく感覚。
(……やはり、ここだ)
(ここで、俺は何かを失い、何かを取り戻す)
(そんな気がする)
とうとう通過儀礼が始まった。
「おい、貴様!」
怒声が広場に響いた。
「貴様は何者だ!」
「シガンシナ区出身、アルミン・アルレルトです!」
「そうか! バカみてぇな名前だな!」
容赦のない一言に、周囲の空気が強張る。
「貴様は何者だ!」
「トロスト区出身! ジャン・キルシュタインです!」
「何のためにここに来た!?」
「……憲兵団に入って、内地で暮らすためです!」
ジャンと名乗った少年が答えた直後――
ゴッ、と鈍い音が鳴った。
教官の額と、ジャンの額が激しくぶつかったのだ。
「おい! 誰が座っていいと言った!!」
「こんなところでへこたれる者が、憲兵団になどなれるものか!!」
ジャンの身体が、膝から崩れ落ちる。
俺はそれを横目で見ながら、心の中で思った。
(……ひどいことするな)
「貴様は何者だ!」
「ウォール・ローゼ南区、ラガコ村出身! コニー・スプリンガーです!」
さっき声をかけてきた、あの坊主頭の少年だった。
だが敬礼の仕方を間違え、左手を右胸に当ててしまう。
「逆だ、コニー・スプリンガー! 貴様の心臓は右にあるのか!?」
頭を両手で締め上げられ、コニーは泡を吹きながら地面に倒れ込んだ。
(あれは、救いようがないな……)
そのとき――
ふいに、湯気の立つ芋を頬張る音が耳に入った。
教官の眼光が、ぎらりと光る。
「貴様……何者だ!?」
驚いた少女は慌てて芋を飲み込み、右手に芋を握ったまま敬礼する。
「ウォール・ローゼ南区、ダウパー村出身! サシャ・ブラウスです!」
芋を咥えたままの敬礼に、周囲は一斉に凍りついた。
やがて彼女は、何を思ったのか
「……半分どうぞ」
と、芋を差し出す。
教官の額に、青筋が浮かんだ。
俺は、その一部始終を無言で眺めていた。
(……上には、上がいるもんだな……)
そして、運命は決した。
訓練場の空気が、ぴんと張りつめる。
「――サシャ・ブラウスゥゥ!!」
教官の咆哮が大地を揺らす。
「貴様は本日!!
日没まで走れ!!
走って、走って、走り続けろ!!」
「は、はいぃぃっ!!」
サシャは泣きそうな顔で芋を握りしめたまま、全力で走り出した。
「……あと、晩飯は抜きだ」
その一言に――
「………………え?」
サシャの顔から、色という色が消えた。
絶望。
飢餓。
そして、遠ざかっていく背中。
(あれはもう……何かに取り憑かれてる目だな……)
夕陽に染まる訓練場の端で、俺は静かに呟く。
(……うん。ここは最高の場所だ。なぜだか血が騒ぐ……)
入団式は、ただの宣告にすぎなかった。
本当の意味での始まりは、そのあとだった。
今までの人生を否定され、
個としての輪郭を削られ、
ただの「兵士候補」という記号へと塗り替えられていく。
――その過程こそが、この場所における通過儀礼だった。
明日から、夜明け前に叩き起こされるらしい。
(俺にとっては……遅すぎるぐらいだが)
眠気も、空腹も、痛みも、甘えも、すべて振り落とすまで止まらない。
誰もが一度は、自分の選択を呪う。
誰もが一度は、「ここに来なければよかった」と後悔する。
だが、それでもなお立ち続けた者の中にだけ、
“兵士になる資格”が芽生える。
訓練とは、生き残るための技術ではない。
恐怖に慣れるための儀式であり、
死と隣り合わせで呼吸するための、慣習であり、
そして――心を折るための、試練だった。
それは、誰にとっても平等で、
誰にとっても残酷で、
だが、ひとりだけ。
べレス・アッカーマンにとっては――
どこか「懐かしい」感覚を伴っていた。
「さあ……飯にするか」
俺は、訓練場のグラウンドを死にそうな顔で走るサシャを横目に、食堂へと向かった。
(……あとで、何か持っていってやるか。流石に一人くらい、異性の友達がほしい……)
食堂はすでに、訓練兵たちのざわめきで賑わっていた。
エレン、ミカサ、アルミン、ジャン、アニ、ライナー、ベルトルト、マルコ――生き残りそうな者たちに加え、他の訓練兵たちも、ぎゅうぎゅうに並ぶ長テーブルを埋めていた。
俺は自然と、端っこの方へと足を向ける。
目立たず、目立ちすぎず。
しかし、それだけで周囲の空気は微妙に変わる――無自覚のまま放たれる圧倒的な“武のオーラ”。
(……座るだけで、みんな少し緊張してるな……)
そんな俺の視界に、ふいに小さな影が滑り込んできた。
「……あの、隣に座ってもいいかな?」
振り向くと、どこか上品な少女がにこやかに立っていた。
明るく柔らかい雰囲気で、自然と笑顔になる。
「もちろん、どうぞ」
俺が端の席を指すと、クリスタはぴょんと座った。
距離は近い。だが、威圧感はない。
「自己紹介しよっか」
彼女はすぐに話を切り出した。
言葉遣いはフランクで、旧友に話しかけるようなタメ口だ。
「私はクリスタ・レンズ。よろしくね!」
「俺はべレス・アッカーマン。トロスト区の小さな教会の孤児院出身だ。よろしく」
俺は自然に答えた。
言葉少なめだが、決して冷たくはない。
「……べレスって静かだね。怒ってるの?」
「いや、怒ってないよ。心配しなくて大丈夫だよ。ただ様子を見てるだけ。」
「ふーん、じゃあ私はべレスのこと、ちょっと知りたいな」
「うん。俺なんかでよければ教えるよ。」
クリスタは満足そうに笑う。
隣にいるだけで、なんだか安心できる。
俺は箸を手に取り、静かに食事を始めた。
クリスタも隣で、にこにこしながらシチューを食べている。
ざわめく食堂の中で、二人だけが、自然に穏やかな空間を作っていた。
――訓練兵としての緊張感の渦の端っこで、ほんの少しだけ、安らぎの時間。
視界の端で、ジャンたちが談笑しながら入ってくる。
アニは無言で眉をひそめ、ライナーとベルトルトは軽く目を合わせて笑う。
マルコは周囲を見回しつつ、席を探している。
(……みんな、まだ少年だけど、すでにそれぞれの何かを抱えてるな)
俺は再びクリスタに目を向ける。
彼女は俺の無言の存在を恐れず、笑顔で話しかけてくる。
「ねえ、べレス。サシャにパンを持って行ってあげようよ。流石にあれはかわいそう。」
「ああ。孤児院育ちとしてあれは見過ごせない。さあ意見が一致したのでさっそくミッション開始と行きますか!」
「うん、ありがとう。べレス。じゃあ食べたらすぐにサシャを助けに行こう!」
「水も持って行こうか。もしかしたら脱水症状になって倒れてるかもしれない。本能がそう言っている。」
(……まあ悪くないな、こういう瞬間も)
俺は小さく笑って頷き、再びスプーンを手に取った。
クリスタも隣で、にこにこしながらシチューを味わっている。
ざわめく食堂の中で、二人だけが短くも確かな“安息の時間”を共有していた。
これが運命的な出会いになることをこの時の二人は知らない。
まさか孤児院育ちの異質な少年が王女様と結婚するだなんて!!




