異変
夜の訓練兵舎は静まり返り、規則正しい寝息だけが、暗闇の中に溶けていく。
だが、その静寂の中で——
「……っ……!」
ベレスの喉から、かすれた息が漏れた。
額に、冷たい汗がにじむ。
最初は、ほんの小さな違和感だった。
だが次の瞬間、頭の奥を内側から叩き割られるような鋭い痛みが走った。
(……なんだ、これ……!?)
視界が揺らぎ、天井の木目が歪んで見える。
次第に、同じ音が何重にも重なって聞こえ始めた。
―― 起きろ
どこからともなく、声が響く。
「……誰だ……」
―― 思い出せ
―― お前は、何者だ
―― 忘れるな
頭の中で、無数の声がこだました。
映像の断片が、雷のように流れ込んでくる。
炎。
崩れる街。
巨人の影。
血に染まった空。
叫び声。
「……やめろ……っ!!」
ベレスは頭を押さえ、ベッドの上で身をよじる。
痛みは、これまで感じたどんなものとも違った。
まるで、自分の中にもう一人の何かが目覚めようとしているかのような感覚。
ドサッ
ついに耐えきれず、床に転がり落ちる。
「っ……う、あ……!」
その音に、周囲の兵士たちが目を覚ました。
「おい!? ベレス!?」
「どうした!?」
駆け寄ってきたのは、ライナー、ベルトルト、ジャン、コニー、アルミン、マルコ。
「ひどい汗……息も荒い……!」
「ベレス、聞こえるか!?」
返事はない。ただ、苦しそうに眉を歪め、唇からかすかなうめき声が漏れる。
「これは……ただ事じゃない……!」
ライナーが言う。
「急いで医務室に!今すぐだ!」
ベルトルトとジャンが肩を貸し、ライナーが背中を支える。
「しっかりしろ、ベレス……!」
「大丈夫だ、すぐ楽になるから……!」
だがベレスの意識の奥では、まだ声が続いていた。
―― 覚醒は近い
―― 逃げるな
―― お前は“扉”だ
そして次の瞬間——
ベレスの身体がびくりと大きく震え、
一つ、叫ぶような息を吐いた。
「……っ……うああああっ!!」
暗い廊下に、その声が響き渡る。
眠っていたはずの訓練兵たちは、誰もが不安そうな顔で扉から顔をのぞかせた。
——遠くで、誰かの叫び声がした。
「……今の、なに……?」
クリスタは、ぼんやりと天井を見つめていた目を瞬間的に見開いた。
最初は、夢かと思った。
だが次の瞬間、廊下の方から駆ける足音と、ざわめきがはっきりと聞こえてくる。
「……きゃっ」
ミーナが身を起こす。
「今の声……男の人じゃなかった?」
「外……? それとも……」
サシャも不安そうに辺りを見回す。
けれどクリスタの胸には、もうひとつ別の感覚が広がっていた。
(……違う)
理由はわからない。
けれど、直感に近い何かが、ひどく嫌な胸騒ぎを起こしていた。
(まさか……)
ベレスの顔が、ふっと脳裏に浮かぶ。
水汲み場で見せた、少しだけ寂しそうな横顔。
遠くを見ていた、その目。
「……行ってみる」
そう言って、クリスタは毛布を跳ねのけた。
「え? ちょっとクリスタ!」
ミーナの声を聞きながら、裸足のまま部屋を飛び出す。
冷たい床を踏みしめ、廊下を曲がった先。
そこには、数人の男子訓練兵に囲まれたベレスの姿があった。
「……ベレス……!」
その名を呼んだ瞬間、胸が締めつけられる。
ライナーが支え、ジャンとベルトルトがもう一方の腕を抱えている。
顔色は悪く、髪も額も汗で濡れていた。
「運ぶぞ! 早く!」
「医務室だ!」
緊迫した声が飛び交う。
「……大丈夫、なの……?」
思わず、口からこぼれる。
誰に向けたのかもわからない言葉。
ベレスの腕が、かすかに震えたように見えた。
(怖い……でも……)
怖いのは「今の姿」だけじゃなかった。
もっと深いところで、
何か、とても大きなものに触れてしまったような感覚。
「クリスタ、下がって!」
誰かにそう言われ、はっと我に返る。
彼らは、ベレスを支えたまま駆け出した。
医務室へと続く暗い廊下の先に、すぐ姿が消えていく。
その場に、ひとり立ち尽くす。
「……あなたまで、いなくならないよね……?」
誰にも聞こえないほど小さな声で、そう呟いた。
月明かりが、冷たい床に細く伸びている。
胸の奥に残ったのは、不安と、拭いきれない「気配」。
それはただの偶然ではない、と
クリスタは本能的に感じていた。
何かが、
確実に「始まってしまった」のだと。




