コンゴ川ベルトコンベア(前編)
第十一章
ホワイトハウスでの夕食会の翌日。特務チームの面々は、突如出された緊急招集を受けて会議室へと集まっていた。
ざわつく部屋の正面に立ったビルが、ゆっくりと口を開く。
「昨晩、大統領、国務長官、私、そして結人とサラの五人で夕食会が催された。元々は、私と結人の関係を憂慮した大統領が、親睦とお互いの理解を深めるために設定してくださった場だ」
室内が一気にざわめき立つ。大統領との個人的な晩餐会という異例の事態に、メンバー同士が顔を見合わせる。ビルは手をかざしてそれを制した。
「みんな、落ち着いてくれないか。話を進めるよ。その夕食会の席上で、結人からアフリカ開発案の根拠について補足説明……というか、新たな提案があった。その内容について、大統領より『早急に特務チームの会議にかけるように』と直接指示があり、今回の緊急会議となったわけだ。急な招集に応じてもらい感謝する」
ビルは咳払いを一つ挟み、ホワイトボードの前に立った。
「さて、順を追って話そう。アフリカ再開発の進め方についてだ。先日の会議で結人はアフリカ中央部からの開発を提案し、それに対し私は沿岸部からの開発を主張して対立したところで散会となった。……先に言っておくと、昨晩の提案を受けて、今の私の立ち位置としては結人の『中央部からの開発』を支持している」
特務チームの面々にさらなる衝撃が走った。あのビルが、ひと晩で若造の案に鞍替えしたというのか。
「以前、私が中央部からの開発に反対していたのは、これまでの開発の歴史が沿岸部発で繰り返されてきたという事実と、沿岸部からのほうが輸送コストを低く抑えられるという現実によるものだった」
ビルはメンバーの目を見つめながら淡々と論理を展開する。
「それに対して結人は、物理的な『距離』と『集中』を重視した。中心から始まる開発は、同心円状に広がっていく。最初は小さな円から始まり、開発が進むにつれて円は大きく広がっていく。それに伴って開発による経済規模も大きくなっていくため、両者が高度にシンクロし、最も効率的な形で開発が進展するというものだ。……2つの考え方を比較すると、一見すると結人のほうが合理的に思える。戦争でも企業経営でも、拡大戦略を目指すときは資本を集中投入することがセオリーだからだ」
ビルはそこで一旦言葉を切り、言葉を強めた。
「だが、歴史は『沿岸部からの開発』こそがセオリーだとしている。なぜか? それを決めてきたのがロジスティクスの問題だ。中央部から開発を始めるためには、まず資材を中央部まで運ばなければならない。そのためには、運ぶためのインフラ整備に多大な時間を要する。当然、その間は開発による成果など望めない。一方、沿岸部からの開発には『海』という強力な味方がいる。資材を開発拠点に船で送り込みさえすればいい。それに、これまでは『アフリカ大陸全体を一括で開発する』などという無謀な計画自体が存在しなかった。だから沿岸部から始めて、手の届く範囲だけを開発すればよかったんだ。……ここまではいいかな?」
ビルは周りを見渡し、確信を込めて言葉を繋いだ。
「今回の結人の提案は、アフリカ中央部を流れる大河『コンゴ川』を物資の輸送ルートとして本格利用するというものだ。これにより、アフリカ中央部まで膨大な物資を届け、物理的に最も効率のよい『中心からの同心円状開発』を可能にする」
「……ちょっといい?」
挙手したのは、経済担当のキャサリンだった。彼女は鋭い眼光でビルを見つめる。
「コンゴ川が物資輸送のルートとして完璧に使えるのであれば、すでにコンゴ川流域は線上に発展しているはずよ。確かにいくつかの都市は存在するけれど、現状は未開の地というイメージのほうが遥かに強いわ。使われていないのなら、何か明確な理由があるはずだけど」
「私から説明したほうが良いかな」
席を立ったのは、長身で知的な雰囲気を纏ったドイツ系の男性だった。
結人の脳裏に、事前にサラから受けていたブリーフィングの記憶が蘇る。
(確か、マルクス・シュタイン博士……。建設・土木技術の専門家で、ドイツの有名ゼネコンで実績を上げたあと渡米。建設コンサルタントとして大成功を収めてアメリカに帰化し、現在はMITの教授をやっている人だ)
マルクスはキャサリン、そして隣に座る結人をどこか見下ろすような視線で捉えながら、朗々と語り始めた。
「コンゴ川はアマゾン川に次ぎ、世界で2番目の流域面積と圧倒的な水量を誇る大河だ。だが、アマゾン川と決定的に異なる点がある。それは下流に存在する『リビングストン滝』と呼ばれる巨大な急流域の存在だ」
マルクスは指を立てて説明を続ける。
「滝と言っても、ナイアガラのような単一で巨大な落差ではない。350キロに及ぶ流域に大小30箇所ほどの急流と滝が点在し、実に260メートルの高低差を一気に下る過酷な地形だ。このリビングストン滝の存在により、大型船での物資輸送は河口から150キロほど内陸に入った港湾都市マタディまでに制限される。ここから中流域の中心都市キンシャサまでは鉄道が敷かれており、物資はこの鉄道を経由してキンシャサまで運ばれる。そしてキンシャサから再び船や艀に積み替えられ、コンゴ川を遡って目的地へ向かうんだ」
マルクスは淡々と、しかし致命的な課題を突きつける。
「つまり、アフリカ中央部への物流はリビングストン滝が絶望的なボトルネックとなっており、上下流の水運を繋ぐ鉄道のキャパシティは常に満杯状態なのだよ。ここに我々の膨大な開発用物資を加えるとなれば、ただでさえ限界を迎えている物流インフラに過剰な負荷をかけることになる。市民の生活必需品の輸送に支障をきたすような事態になれば、『開発による貧困撲滅』という我々の崇高なスローガンなど一瞬で吹き飛んでしまうだろう。……この点について、Mr.結人はどうお考えかな?」
教授が出来の悪い生徒をからかうような、試すような視線を結人へ向けた。
結人は会議室内の視線を一身に浴び、居心地悪そうに肩をすくめながらも、静かに口を開いた。
「ええっと……シュタイン博士のご指摘は、全くもってごもっともかと思います。僕たちのプロジェクトで既存の物流インフラをそのまま利用することは、現実的なキャパシティの面からも、人道支援という理念の面からも不可能です」
結人はまっすぐにマルクスを見返した。
「とはいえ、沿岸部からの開発には『開発拠点の選定』という大きな問題があります。広大なアフリカ大陸の長い海岸線のどこを拠点にするか……沿岸諸国による熾烈な誘致合戦が予想され、それは間違いなく利権や汚職の温床になります。また、沿岸部に多数の拠点を置き、それぞれが個別に開発を進めるとなると、拠点ごとに投下できる資金には限界が生じます。さらに深刻なのは労働力不足です。現在のアフリカの教育水準を考慮すると、良質な現場労働者も、全体を取り仕切る管理者も決定的に足りません」
結人の言葉に、徐々に熱がこもり始める。
「僕たちのプロジェクトによる人道支援や経済発展が進めば、将来的には優秀な人材も育っていくはずです。ですが、それにはあまりにも時間がかかりすぎます。それは結局、今まで決してうまくいったとは言えない『従来のアフリカ支援の失敗例』を、国連がそのまま繰り返すことに他なりません。そんなやり方では、特許の一元管理スキームによって権利を制限される特許保有国や企業に対し、その資金の使い先として納得してもらうことは不可能です」
シュタイン博士はフッと冷ややかな笑みを浮かべ、腕を組みながら首を横に振った。
「そうかもしれんが、リビングストン滝という物理的な壁がある限り他にやりようがないだろう。従来通り、沿岸部の拠点を数ヶ所から十数ヶ所選定し、その拠点から扇型に開発を進める。それと同時進行で拠点間を結ぶ物流インフラを整備し、拠点間の時間的な距離を縮めることができれば、開発のスピードは上がっていくはずだ」
博士は一段階トーンを落とし、生徒を諭すように彼を指差した。
「Mr.結人。君の案ではコンゴ川を物流ルートとして使う想定らしいな。……おそらく、パナマ運河を思い描いているのだろう? しかし、パナマとリビングストン滝ではスケールが違いすぎる。パナマは全長82キロだが、高低差は26メートルに過ぎない。一方のリビングストン滝は全長350キロに対して高低差は270メートルだ。それにコンゴ川は世界2位の水量を誇る。ここに運河を作るとなると、難易度はパナマ運河の比ではない。いや、事実上不可能だ」
「……そうでしょうか?」
結人は静かに首をかしげた。
昨晩のホワイトハウスでの議論を脳内で反すうしながら、思考の糸を手繰り寄せるようにゆっくりと言葉をつないでいく。
「まず、リビングストン滝の上流部に分水路を設けます。水量が膨大なので何箇所かに分散して設置する必要はあると思いますが、地形的に工事可能な場所を選べば決して不可能ではないと思います」
結人は卓上のペンを手に取り、手元の資料の余白にサラサラと略図を描き始めた。
「そうしてリビングストン滝本流の水量を削った上で、川床に円形……ああ、流体力学的には紡錘形のほうがいいかな? まぁ、とりあえず円形としておきましょう。コンクリート製の薄いプレートを沈めて設置します。このプレートを何枚か重ねたところで、周囲を円筒形状に金属の板で溶接して一体化させるんです。一体化させることによって、この構造物自体の圧倒的な重量が水流に対する抵抗力になっていきます」
会議室にいる土木や経済の専門家たちが、思わず身を乗り出した。彼のペン先は止まらない。
「溶接が終了したら、さらにその上にプレートを重ねて、ある高さになったらまた溶接する。この繰り返しで必要な高さまでの施工が完了したら、堅牢な橋桁の完成です。この橋桁を必要な本数だけ設置したら、次は網目状の金属の板を渡します。網目状であれば水流の影響を逃がせるので、水圧をほとんど考慮する必要はありません。最後に、上流部であらかじめ作っておいた鋼鉄製の橋本体を、レールの上を滑らせるように流し込んでいきます。橋が繋がったら……急流部を飛び越える『導水橋』の完成です」
結人はそこでふっと息を吐き、パチリと目を開けた。
そして、まっすぐにシュタイン博士を見つめ返した。
「この導水橋を、リビングストン滝350キロの中で特に流れが激しく船が通れない箇所にだけピンポイントで設置すれば、大型の艀でも航行可能なバイパス水路が作れると思うのですが……いかがでしょうか?」
「……実現性についてはあとで詳細に検証する必要があるとは思うが、仮に船が通れる橋ができたとして、そこを通す船はどうする?」
博士は画面に並ぶ流速と勾配の計算結果を睨みつけながら言った。
「リビングストン滝自体の平均傾斜は0.74パーミルに過ぎないが、急流部、例えばインガ滝付近だと20パーミルくらいになるだろう。小型のプレジャーボートならともかく、貨物を満載した大型船が自力で登れるとはとても思えん」
「そうですね……」
彼はごく自然に、思いついたように言葉を返した。
「それでは自走する船ではなく、艀をケーブルで引っ張り上げる形にすればいかがでしょうか? たしか、ケーブルカーの傾斜ってもっと急な場所でも登っていたと思いますが」
「……350キロをケーブルで引っ張り上げる……艀ごと、だと……?」
シュタイン博士のタイピングの手がピタリと止まった。
「どうせ350キロのケーブルを急流部に設置するなら、最初から最後までケーブルで引っ張ろうかと思います。河口と、目的地……」
結人は手元の端末で衛星地図をスクロールさせ、指先で画面をトンと叩いた。
「ああ、ここだ。キサンガニですね。河口と目的地のキサンガニ近辺までケーブルを敷設し、両端をループ状につないだら1本の輪になりますよね。このケーブルの輪に艀を大量生産してつないだら、物流問題は解決できるんじゃないでしょうか?」
会議室に異様な静寂が訪れる。
シュタイン博士はディスプレイから顔を上げ、まるで目の前に突如現れた未知の超常現象を見るように、目を見開いた。
「……艀を大量生産して、ケーブルにつなぐ……コンゴ川をケーブルカーの軌道に……いや、これはもはやベルトコンベアだ!」
博士は椅子をガタリと鳴らして立ち上がると、両手を机に叩きつけるようにして身を乗り出した。
「Mr.結人!……いや、結人! 君はコンゴ川そのものをベルトコンベアにしようとしてるのか!? 2000キロだぞ! ニューヨークとマイアミを結ぶようなもんなんだぞ!」
シュタイン博士の悲鳴にも似た絶叫が会議室に木霊した。
「コンゴ川を……ベルトコンベアに……?」
経済担当のキャサリンをはじめとする特務チームの面々は、そのあまりにも常識外れなスケールを前に、完全に理解が追いつかず思考を停止させていた。彼らの視線は、ディスプレイの地図、肩で息をするシュタイン博士、そしてきょとんとしている結人の間を、ただ呆然とさまようばかりだ。
そんなパニックに陥る世界最高峰のエリートたちを眺めながら、ビルとサラは「昨晩の自分たち」を見るような目で視線を交わし、密かにニヤリと笑い合っていた。
さらに部屋の奥、オブザーバーとして静かに同席していたブランディ国務長官に至っては、驚愕に震えるシュタイン博士に向けて、同類をひどく哀れむような視線を送っていた。
第十二章
「ベルトコンベア! そうです、シュタイン博士。ああ、その表現が一番しっくり来ますね」
結人は我が意を得たりとばかりにパッと顔を輝かせた。
「マルクスでいい」
シュタイン博士――マルクスは、先ほどまでの小馬鹿にしたような態度を完全に捨て去り、一人の技術者として結人と真っ直ぐに向き合っていた。
「結人、このバカげたスケールのベルトコンベアを君はどうやって動かすつもりだ? 私にも想像つかないが、数億トン以上の超重量の構造物を動かすとなると、とんでもないエネルギーが必要だ。中央アフリカの貧弱な発電所ではとても賄えんぞ」
「あの……例えばなんですけど、艀の船底に収納式のフラップをつければいかがでしょう?」
結人は身振り手振りを交えて説明する。
「登るときは収納して水の抵抗を最小限にして、下るときにフラップを展開して、水流を直接受けて動力にするんです」
「……コンゴ川の流れそのものを巨大な動力源にする訳か! しかも、ただ船底に板を1枚つけるだけで!」
マルクスは信じられないものを見たかのように笑い出し、額に手を当てた。だが、数秒で研究者の鋭い顔に戻る。
「いや、待て、結人。コンゴ川がいかに大河と言えど、リビングストン滝を除けば、ほとんど傾斜がなく流れは緩やかだ。下りの水流だけではエネルギーがとても足りない。船底フラップはあくまで補助動力にしかならんな。やはり全体を駆動させるには、巨大なモーターを使うべきだろう」
「はい。僕もそう思います」
結人はあっさりと肯定し、頭の中の設計図をさらに開示していく。
「河口と目的地。それに急流のリビングストン滝には2箇所。あと流れが緩やかな中流域にも1箇所。計5箇所くらいには、メインの駆動モーターが必要かと思います」
「となると、電力は既存の発電所を当てにするわけにはいかないな。専用のものを新設すべきだ」
「はい。安定的に膨大な電力が確保できて、かつ環境への負荷が小さい原子力発電所が適当ではないかと思います。コンゴ川流域は人口希薄な地域も多いため、比較的容易に建設が可能かと思うのですが……」
「原発か……」
マルクスは顎を撫でながら深く頷いた。
「資材の運搬を含め、問題点は山積みだが、これだけの巨大システムの電源なら安定した高出力が絶対条件だ。確かに原発しかないだろうな」
二人の間で、アフリカ大陸の地図を書き換えるような超巨大プロジェクトの仕様が、まるで世間話でもするかのように次々と決定されていく。周囲の特務チームのメンバーたちは、完全に置いてけぼりを食らい、奇妙な面持ちでマルクスと結人の異次元の議論を見つめることしかできなかった。
ふと、マルクスが最大の懸念事項を口にした。
「ところで、結人。そのベルトコンベアの要となる『ケーブル』はどうやって調達するんだ? 往復4000キロの牽引に耐えうる巨大なワイヤーケーブルなど、製造できる工場も運搬する方法も、私には思い浮かばんが」
「4000キロを、最初から1本のケーブルで作らなくてもいいんじゃないでしょうか?」
結人は事もなげに答えた。
「1キロくらいのケーブルをたくさん作って、それぞれの両端を電磁石にして、それを4000本つなげるんです。5箇所の原発が作り出す豊富な電力を専用化すれば、強力な磁力で連結を維持することは可能かと思います」
「電磁石……その手があったか!」
マルクスは目を見開き、バンッと勢いよくテーブルを叩いた。
「確かにそれなら世界中の工場で製造可能だ。1キロ単位なら、製造も運搬もいくらでも実績はある!」
「ちょっと待ってくれ」
そこでたまらず、耐えきれないといった様子で声が割って入った。ビルだ。
ビルは痛むこめかみを押さえながら、興奮冷めやらぬ二人の天才を交互に見やり、深くため息をついた。
「シュタイン。結人。……どうかみんなに分かるように説明してくれないか?」
ホワイトボードの前に立ったマルクスが、興奮も露わに特務チームの面々へ「コンゴ川ベルトコンベア化計画」の全貌を説明し始めた。専門用語と凄まじいスケールの数字が飛び交う中、サラはそっと結人の腕を引き、会議室の隅にあるリフレッシュスペースへと連れ出していた。
「はい。アイスティーでいいかしら?」
「ああ、サラ。ありがとう。喉が渇いてたので助かるよ」
結人はグラスを受け取ると、フル回転で熱を持った頭を冷やすように、冷たい紅茶をひとくち飲んで息をついた。
その様子を横で見つめながら、サラはいたずらっぽく笑った。
「さっきは2人で随分と盛り上がってたわね。でも、あの気難しいシュタイン博士が自ら『マルクスでいい』なんて言うとはねえ……。あなた、本当に人たらしね」
「人たらしって……」
結人は困ったように眉尻を下げて、グラスの水滴を指で拭った。
「そっか。これからはマルクスって呼ばなきゃいけないんだ。シュタイン博士といいビルといい、年少者に優しいのは本当にありがたいんだけど……正直、気が重いよ」
大国のトップエリートたちからファーストネームで呼ぶことを強要(?)される現状に、結人は本気でため息をついている。
サラはそんな結人の横顔を見つめながら、小さく首を振った。
(それは単なる優しさじゃなくて、同じ立ち位置で対等に議論ができることへの『嬉しさ』の表れなんだけど…。あの人たちのレベルの頭脳になると、心からそう思える相手がどれだけ貴重か……)
天才ゆえの圧倒的な孤独。それを一瞬で埋めてくれる結人という存在に出会えた歓喜を、当の本人はまったく理解していないらしい。
「おおい。結人、ちょっと来てくれ!」
不意に、会議室の反対側から大きな声が響いた。振り返ると、マルクスがマーカーを握りしめたまま手招きをしている。
「技術的に至急、君と協議したい事が出てきたんだ!」
すっかり結人を「共同研究者」としてロックオンしている様子だ。結人は助けを求めるようにチラリとサラを見た。
「ほら。お呼びがかかったわよ」
サラはふふっと笑い、結人の背中をトンと軽く押した。
「行ってらっしゃい。いきなり呼び捨てがしんどいなら、『マルクスさん』って呼んでおけば大丈夫よ」
「わかった、行ってくるよ」
グラスを置き、小走りでマルクスの元へ戻っていく彼の背中を見送りながら、サラはふと、自分の胸の奥に小さなさざ波が立っていることに気がついた。
自分でも意外なことに、結人をマルクスのもとへ送り出した今の自分の心境に、ほんのわずかな「嫉妬」の感情が混じっていたのだ。
彼のその特別な才能と無自覚な魅力に惹きつけられるのは、自分だけではない。わかっていたはずなのに、自分以外の誰かと通じ合って熱狂する彼の姿を見るのが、少しだけ面白くない。
サラは深くため息をつき、残った自分のアイスティーを飲み干した。
第十三章
「ワイヤに駆動力を伝える方法なんだが」
マルクスはホワイトボードの前に立ち、特務チームの面々、そして結人に向けて熱を帯びた声で語り始めた。
「ロープウェイの原理を参考にすれば、両端はブルホイールにギアボックスを介してモーターをつなぐ。ワイヤの張力と摩擦力によって駆動させるのが、理にかなっていて実績もある。……問題は中間地点だ」
マルクスはそこで一息つき、全員の顔をゆっくりと見渡してから言葉を続けた。
「このような長距離・超重量の場合、一般的には回転するローラーにワイヤを両側から押し付けて駆動力を伝える。ただ、今回のような数億トンクラスの超重量を牽引するだけの力でローラーを押し付けると、ワイヤ自体が圧力で潰れてしまい、引っ張りに対する強度が不足して破断してしまう。では、潰れない程度に押し付ける力を弱くするとどうなるか? ローラーがワイヤ表面を滑ってしまい、駆動力を伝えられないだけでなく、摩耗による破断のリスクが跳ね上がる。……結人、どう思う?」
問いかけられた結人は、目を閉じて数秒ほど黙り込んだ。やがてパッと目を開けると、無言のままマルクスに近づき、彼の手からマーカーを借りてホワイトボードの前に立った。
そして、不器用な手つきで長い線を引きながら話し始める。
「ローラーのように力を『点』で伝えるのではなく、ワイヤを2本のレールで挟み込むようにして『面』で固定してはいかがでしょうか?」
結人は、お世辞にも上手とは言えない図を書き足しながら説明を続ける。
「駆動プラントの手前200メートルくらいを助走区間とします。この助走区間に入ったワイヤを、トングのように挟み込む形で100メートルくらいの長いレールで固定します。そして、レールごと駆動プラントに運び入れるんです。駆動プラント内では、レールをクランクのような機構で一気に押し出します。駆動プラントを出たレールは分解エリアでワイヤを解放し、再び助走区間に戻る。……このサイクルを複数用意して繰り返せば、ワイヤへの局所的な負荷を抑えつつ、巨大な駆動力を伝えることができないでしょうか?」
「……なるほど」
マルクスは顎を撫でながら、結人の描いた歪な図形を食い入るように見つめた。
「確かに『面』で伝えればワイヤへの負担は劇的に下げることができる。レールを使ったサイクル機構も秀逸だ。クランクを使用したり、挟み込み治具のメンテナンスをどうするかという課題はあるが、ローラー駆動よりはるかに現実的だろう」
しかし、マルクスは完全に納得しきれていないように顔を歪め、腕を組んだ。
「ただ、私には金属のレールと金属のワイヤでは、結局のところ超重量に摩擦力が負けて滑りが発生するように思える。……結人、そもそも君はこのコンベアをどれくらいのスピードで動かすつもりだ?」
突然の問いかけに、結人はマーカーを持ったまま少し驚いた表情を見せ、宙を見て計算した。
「そうですね……4ノットから5ノットってところでしょうか」
マルクスは腕を解き、難問に正解した生徒を見るような目で結人を見た。
「ほう。思ったより控えめな速度だな。てっきり、貨物船レベルの15から20ノットを想定しているのかと思っていたよ」
「超重量のシステムですから、無理に速度を上げるより、これくらいかなって」
結人は頭をかきながら、少し自信なさげに肩をすくめた。「すみません、単なる思いつきです」
「いや、かなりいい線かもしれんぞ」
マルクスは満足げに深く頷いた。「仮に5ノット(秒速約2.5メートル)とすると、助走区間の200メートルを通過するのに約78秒。レールを挟み込む作業時間としては十分だな」
「あの」
結人がふと思いついたように口を挟んだ。「そのスピードなら、単なるワイヤではなく、ラック(ギア)付きのワイヤにしたらどうでしょうか? そうすれば、駆動側もピニオンギアで効率的に駆動力を伝えられますが」
「いい考え……と言いたいところだが、ラック付きの特殊なワイヤを4000キロ分も製造・運搬するのは物理的に不可能だ」
マルクスはそこで言葉を切ると、視線を床に落とし、考え込むように数歩歩き回った。室内に彼の革靴の音だけが響く。
そしてふと立ち止まると、何かを閃いたように目を見開いて振り返った。
「……そうか。ワイヤとラックの中間だ。ワイヤに一定間隔で『ノード(節)』を付ければいいんだ! そうすれば、挟み込むレール側にノードと噛み合う凸凹パターンをあらかじめ作っておけば、摩擦力は爆発的に増加する。ノード付のワイヤであれば、世界中の既存の工場で製造も運搬も可能だ!」
「マルクスさん、もう一ついいですか?」
結人は即座に反応し、ホワイトボードの空いているスペースに新たな四角形を書き足した。
「駆動プラントに併設して、メンテナンスエリアを設置してはどうでしょう? コンゴ川の水を引込線に入れて、ループを何周かしたワイヤは、電磁石の接合を切ってその引込線に送ります。そして隣のレーンには新しいワイヤを準備しておいて、古いワイヤと入れ替えを行うんです。駆動レールの配置を工夫すれば、システムを止めずに可能かと思うのですが」
「……それはいい考えだ!」
マルクスは興奮で顔を紅潮させ、バンッと勢いよくホワイトボードの縁を叩いた。
「その仕組みなら、システム全体を止めることなく、計画的にワイヤのメンテナンスを実施できる。中間の駆動エリアは3箇所を想定しているから、メンテナンスのキャパシティとしても十分だろう。破断などの事故発生リスクを劇的に下げられるぞ!」
二人の天才による異次元のブレインストーミングが、もはや誰にも止められない領域へと加速していく。特務チームの面々がその速度に眩暈を覚え始めたときだった。
「……いいかね?」
静かに手が挙がった。ビルだ。
完全に二人の世界に入り込んでいた結人とマルクスが、ハッとして声の主を見る。
「ワイヤは川底をただ這わせるつもりなのかね? 軌道が安定しないと、危険ではないか?」
「それなら、ロープウェイの支柱のようなものを川底に固定し、ワイヤをガイドするつもりです」
結人は事もなげに答えながら、川底の断面図らしきものを描き始めた。「200メートルから300メートルくらいの間隔で設置すれば十分じゃないでしょうか?」
「往復4000キロを200メートル間隔……?」
ビルは呆れたように天を仰ぎ、こめかみを揉んだ。「約2万本の支柱を作るというのか!」
その数字を聞いた瞬間、経済担当のキャサリンが弾かれたように顔を上げ、手元の資料に急いでメモを書き込み始めた。
「もちろん、流れの緩やかなところは両側に腕を伸ばすような形にして上り下り共用にすれば、設置本数は減らせます」
結人は図にY字型の支柱を描き足しながら、ビルの懸念に真面目に答える。「それでも、1万から2万本は必要でしょうね」
「いや、先ほどノード付きワイヤの話をしていたが」
ビルは身を乗り出し、鋭く指摘した。「そうすると、支柱からの脱落や、ノードがガイドにぶつかることによる破損が懸念されるのではないか?」
結人は少し考えてから、再びペンを走らせた。
「ガイドローラーは、上下左右からワイヤを挟み込む構造にしたらいかがでしょうか?」
結人はマーカーを持たない方の手で、四方から包み込むようなジェスチャーを作った。「遊園地のジェットコースターみたいな感じですね。そして、それぞれのガイドローラーと支柱の間には、可動ストロークを長めに取ったショックアブソーバーを組み込みます。こうすれば、ノードの衝撃を吸収してくれるだけじゃなく、水流の変化などにも対応できると思います」
「……それにしても、2万本の支柱とは大工事だな」
ビルは深くため息をつき、椅子の背もたれに体重を預けた。「リビングストン滝の導水橋に比べれば難易度は低いと思うが」
「はい。大工事です」
結人はマーカーを下ろし、澄んだ瞳でビルを見つめ返した。そして、極めて純粋なトーンで言った。
「だからこそ、僕はこの工事を、先進国のゼネコンと現地企業のジョイントベンチャーに請け負ってもらいたいと考えています」
ガタッ!!
結人の言葉が終わるか終わらないかのタイミングで、キャサリンが椅子を蹴り倒す勢いで立ち上がった。
「ジョイントベンチャー……先進国と現地企業との……開発支援とセットの技術移転……!!」
キャサリンは震える声で呟き、信じられないものを見る目で彼を凝視した。
「この大工事を受注した企業には、先進国の土木建設ノウハウが移転される。……結人……あなた、まさか……」
横で聞いていたサラも、唖然としながら、ある考えが思い浮かび青ざめた唇を開いた。
「……これで、先進国は『国連の特許一元化管理』を断れなくなります」
サラの声が、水を打ったように静まり返った会議室に響き渡った。
「この巨大事業。先進国の巨大ゼネコンはこぞってこのプロジェクトに参加を希望するでしょう。ただ……これはあくまで、国連が特許一元管理で得た資金で行われる事業です。特許一元管理化を断れば、それはこのプロジェクトから……アフリカから締め出される事を意味します」
サラは立ち上がり、全員の顔を見渡した。
「巨大な人口。国連からの巨大な資本投下と開発支援。それに伴い誕生、急成長する巨大市場。……特許一元管理を断れば、その入り口に立てないかもしれない恐怖が生まれます。つまり、特許一元化を拒絶した瞬間、その国は自国の国民から強烈な批判を受けることになるんです……!」
「アフリカの貧困を救う」という大義名分。
「クラウドファンディング」による全人類の監視。
そして、「巨大プロジェクトのJV化」による経済界からの猛烈な同調圧力。
特許を手放すことを渋る先進国を、外堀から完全に包囲し、自滅か服従かの二択を迫る完璧な政治的トラップ。
会議室の大人たちは、ホワイトボードの前でペンを持ったままポツンと立っている青年に向かって、声にならない戦慄を覚えていた。
――ただ一人、サラを除いて。
張り詰めた沈黙の中、サラだけは全く別のものを見ていた。彼女の視線は青年ではなく、背後のホワイトボードに向けられている。そこには、マルクスが息をするように描き上げた緻密で美しい機械デッサンと、彼が描いた「ナスカの地上絵」と見間違いかねないほど不格好なスケッチが並んでいた。
世界を震撼させる恐るべき頭脳と、絶望的なまでに下手くそな絵。
そのあまりにも極端なアンバランスさに、サラは呆れたように息を吐き、誰にも気づかれないようにそっと苦笑を漏らしていた。
会議は十分間の休憩に入った。
ホワイトボードの記録がシステムに保存されたことを確認したサラは、マルクスの緻密な機械デッサンと彼の下手くそなスケッチをイレーザーで消しながら、隣に立つ結人に小声で話しかけた。
「ねえ、結人。さっきのジョイントベンチャーのこと、昨日の夕食会では話していなかったわよね? ひょっとして……さっき思いついたの?」
「そうだよ」結人は屈託なく頷いた。「ビルが『導水橋に比べれば難易度が低い』って言ってくれたから、じゃあ現地の企業にやってもらえば雇用も生まれていいなと思って。でも、アフリカの企業だけじゃ技術的に少し不安だから、先進国のゼネコンに監督してもらったら安心かなって」
「……呆れた」サラは小さく息を吐いた。「大量破壊兵器並の政治的インパクトを持ったトラップが、まさかのその場の思いつき?」
「そんなにすごいかなあ。それよりも、すごいのはサラだよ」
「えっ?」
「だって、僕たちは特許のお金で『何をするか』を考えていただけなのに、サラはそれを材料にして、特許所有国が参加せざるを得ないフィールドに追い込む仕組みを作っちゃったんだから」
サラは手を止め、彼を見返した。
他のエリートの言葉なら、高度な嫌味か皮肉だと言われているように感じたかもしれない。しかし、彼のまっすぐな瞳と言葉には、素朴で心からの称賛の意だけが溢れていた。




