第一回特務チーム会議
第八章
翌朝、結人はサラと共に国務省の公用車に乗り込み、国務省本庁舎へと向かった。
案内されたセキュリティオフィスで、身分証用の写真撮影、両手の掌紋登録、そして網膜の毛細血管パターンのスキャンを矢継ぎ早に済ませた。ほどなくして、結人の顔写真がプリントされたICチップ内蔵の身分証明書が手渡された。
「これでよし」
サラは自分のIDカードと結人のそれを並べ、満足そうに頷いた。
「結人、あなたの現在の身分は合衆国政府特務職員。セキュリティレベルは私と同じ最高ランクよ。政府関連の施設であれば、このカード一枚でほぼフリーパスで入れるわ。政府所有の公用車やヘリの優先使用権もあるし、事前申請さえ出せばプライベートジェットだって手配できる」
「……」
あまりにも破格すぎる待遇に、結人は言葉を失った。
(……まあ、『すでに給料分の仕事はしてくれた』なんて言ってくれていたし、気楽に構えればいいのかな……いや、無理だ)
とても気楽になどなれるはずもない。とにかく、今の自分にできることを一つずつやるしかない――そう自分に言い聞かせながら、指定された厳重なセキュリティ扉をくぐり、会議オフィスへと足を踏み入れた。
室内にはすでに、大統領とブランディ国務長官、そして昨日モニター越しに挨拶を交わしたチームメンバーたちの姿が揃っていた。
「結人、おはよう。早速だが座ってくれ」
大統領に促され、結人は用意されていた空席へと着席する。
大統領は部屋全体を見回すと、重厚な声を響かせた。
「諸君、改めておはよう。今日が実質的に、このチームの船出の日となる。掲げる目標はあまりに困難で、一見すれば夢想家の戯言とさえ思えるレベルだ。だが、私はここにいる君たちなら必ずやり遂げてくれると信じている」
大統領は一呼吸置くと、視線を一人の人物へと向けた。
「さて、ビル」
メンバーの中で最年長と思われる、仕立ての良いスーツを着こなした初老の紳士が、優雅な所作で立ち上がった。昨日通信を切ったあの人物だ。
「知っている者もいるかと思うが、彼はビル・ミラー。私の長年の知己であり、政治の恩人でもある。彼にはこのチームで政治分野を担当してもらうが、同時にチーム全体のまとめ役もお願いするつもりだ。異論がある者は遠慮なく申し出てほしい」
室内を静寂が包む。誰も反対の声を上げる者はいない。
「……誰もいないな。では、ビル。よろしく頼むよ」
「承知いたしました、大統領」
ビルは穏やかに一礼すると、メンバーに向き直った。
「みなさん、これからこのチームの取りまとめをさせていただく、ビル・ミラーです。……といっても、我々の間に上下関係など存在しません。ここにいる12人は、それぞれの分野における最高峰のプロフェッショナルです。その自覚のもと、遠慮なく意見をたたかわせ、このミッションを成功へと導いていきましょう」
大統領はビルの言葉を満足そうに聞き終えると、ブランディ長官に目配せをし、静かに部屋を退出していった。
大統領たちが去り、オフィスには12人のメンバーだけが残された。全員が着席し、静寂が満ちたタイミングを見計らって、ビルは落ち着いた口調で開会を宣言した。
「さて、最初にこのチームの役割を再確認しておこう」
ビルは部屋全体を見回し、低く通る声で語りかけた。
「ここにいるミスター結人から提示されたスキームの肝はこうだ。既存の仕組み……ジュネーブにあるWIPO(世界知的財産機関)の機能を大幅に拡張・改組する。単なる国際特許出願の仲介機関から、『権利の一元管理・強力な仲裁裁判権・そしてグローバルな収益分配』を一手に担う超国家機関へと昇華させるものだ。これは人類の歴史上かつてないほどの巨大な変革と恩恵を世界にもたらす可能性を秘めている。……だがそれだけに、現在の既得権益――巨大特許を所有するメガテックや製薬会社、自国の技術を囲い込みたい国々といった抵抗勢力からの反発は、想像を絶するものになるだろう。我々の任務は、彼らを論理と利益で叩き伏せ、あるいは鮮やかに説得してこのスキームに巻き込むための『完璧なシナリオ』を描くことだ」
ビルはテーブルに軽く両手を突き、視線を巡らせた。
「我々が組み上げた提案は、国務省内に別途設置されたブランディ長官直属の実務検証チームへと送られる。そこで現実の外交・法的観点から徹底的に叩かれ、修正案を添えて我々にフィードバックされる。我々はそれをさらに研ぎ澄ませ、大統領に提出すべきと判断した段階で、大統領と国務長官をこの部屋に招いて最終プレゼンテーションを実施する。……ここまではいいかな?」
誰も異論を挟まないことを確認すると、ビルは一人の人物へ視線を向けた。
「キャサリン。君のチームで、このスキームが最終目標である『全産業の特許一元管理』に達した場合の、国連収支への経済的影響を試算していたね。その結果を共有してもらえるか?」
指名されたのは、経済・金融分析を担当する知的でシャープな雰囲気を纏った中年女性――キャサリンだった。彼女は静かに立ち上がると、卓上のタブレットを操作し、メインモニターにグラフを映し出した。
「ええ。詳細なパラメータや免税条件などは今後さらに詰めていく必要がありますが、最終的に世界中の主要産業の特許の一元化が達成された場合のインパクトをお伝えします」
彼女はモニターの数値を指し示しながら、落ち着いた口調で説明を始めた。
「現状、企業間で行われている特許ライセンス料や法的な防衛コストの相場は、売上高の3%から5%に相当します。結人氏のスキームでは、これを国連の一元管理下に置くことで、グローバル統一レートを設定します。今回は仮にそれを『一律2%』まで引き下げると仮定しました。企業からすれば、従来の個別の特許出願や紛争リスクを回避できるため、十分に受け入れ可能なラインです」
キャサリンは一度言葉を切り、結人とビルを交互に見つめた。
「IT・製造業・バイオなど、世界中の主要特許関連産業の売上総額は年間でおよそ15兆から20兆ドル(約2,250兆〜3,000兆円)。なお、この数字には国家機密に属する純軍事向け――例えばステルス技術や核・兵器関連の特許などは含んでいません。あくまで民生市場で流通・取引される技術の売上ベースです。この市場から集まる2パーセントの特許使用料は、年間で3,000億から4,000億ドル(約45兆〜60兆円)という巨額にのぼります。そして、そのうち20%を国連が『プラットフォーム管理・運営費』として徴収すると仮定します」
彼女はモニターを切り替え、国連の財政グラフを提示した。
「国連の金庫に直接転がり込んでくる年間管理費収入は、600億から800億ドル(約9兆〜12兆円)。……現在の国連の年間通常予算――約35億ドル(約5,200億円)――の、実に17倍から23倍に相当する金額です」
室内から、息をのむような静かな気配が漏れた。
「つまり」とキャサリンは言葉を強めた。「この一律2%のスキームが稼働した瞬間、国連は大国の分担金未払いに脅かされる貧困状態から完全に脱却します。財政難が一発で吹き飛ぶだけでなく、世界のイノベーションを主導する圧倒的な超国家機関へと変貌するのです」
世界を根底から変革する圧倒的な数字の前で、室内に重苦しい静寂と興奮が同時に満ちていた。国連をそして世界の命運を左右する議論の熱気に、誰もが息をのんでいる。
そんな中、結人はひとり、ゆっくりと首を傾げた。
そして、隣に座っているサラのジャケットの袖をそっと引っ張り、ごく小さな声で耳打ちした。
「ねえサラ、……WIPOってなに?」
「…………っ!?」
サラの肩が、跳ねるように上がった。
息を呑み、思わず青年の顔を二度見する。彼は至って真面目な顔で、心底不思議そうにこちらを見つめていた。からかっている様子は微塵もない。本当に知らないのだ。
(嘘でしょ……!? この期に及んでそこから……っ!?)
最高度の緊張感に包まれていた室内にあって、サラの緊張の糸とツボが完全に破壊された。
「ふっ……く、ふふっ……!!」
必死に手で口元を押さえるものの、漏れ出る笑いをどうしても止められない。腹筋を痙攣させ、顔を真っ赤にしてプルプルと震えるサラの異変に、正面に座るビル・ミラーが訝しむような視線を向けた。
「……どうしたね、サラ君?」
「い、いえ! なんでもありません……っ! あまりに完璧な戦略に、感銘を受けまして……っ」
サラは必死に笑いを噛み殺しながら、完璧なビジネススマイル(ただし顔は真っ赤だ)でなんとかその場を取り繕ってみせた。ビルは首を傾げつつも、そのまま次の議論へと進めていく。
しかし――。
ひと通り込み上げていた笑いが引き始めた時、サラの脳裏に、ふと冷たい戦慄が走った。
(待って……今、この人、なんて言ったの……?)
サラは隣に座る、どこからどう見ても素朴で大人しい日本の青年を、改めて凝視した。
世界知的所有権機関(WIPO)。国際特許の基本枠組みを統轄する、国連の主要な専門機関の一つだ。
知識として知っていて当然のその存在すら、彼は知らなかった。専門用語の知識も、複雑な国際条約の歴史も、彼の中には最初から何一つ存在していなかったのだ。知識のバックボーンがないからこそ、「WIPOの制度をどう改修するか」という発想すら彼には存在しない。
それなのに――。
知識がゼロの状態から、ただ「世界の経済と権利の流れ」という巨大なパズルの全体像だけを俯瞰し、現実のWIPOが半世紀かけても到達できなかった「知財による世界統治と財政自立の構造」という最適解を、たった一人で算出してしまったということなのか。
知識があるから思いついたのではない。
世界の仕組みそのものが、彼の頭の中では最初から「そうあるべきパズル」として完璧に見えているからこそ、迷いなくこの解にたどり着いたのだ。
(何なの……この人……?)
サラの背筋を、本物の恐怖と恐ろしいほどの興奮が混ざり合った、ゾクゾクとする鳥肌が駆け抜けていった。
「600億から800億ドル……途方もない金額だな。一国の国防予算にも匹敵する巨費が、管理費名目で毎年自動的に国連へ流れ込むことになるわけだ」
ビルは重厚な溜息と共に呟いた。
「はい」
経済担当のキャサリンは静かに頷き、モニターのデータを次のページへと進めた。
「ここからは私の個人的な見立てになりますが……この一元管理スキームが成立した暁には、世界中の技術進歩は間違いなく加速します。使用料が『一律2%』に抑えられ、参入障壁と訴訟リスクが劇的に下がるためです。特許の申請件数は加速度的に増え、それにつれて国連の管理費収入もさらに右肩上がりで膨らんでいくと思われます」
「なんということだ……」
ビルは椅子の背もたれに深く体を預け、天井を仰いだ。
技術革新の爆発と、国連という国際機関の財政的完全自立。それは間違いなく、戦後80年続いてきた世界秩序の解体と再構築を意味していた。
「しかし……これだけの資金と権力が国連に集まるとなれば、敵からの攻撃は苛烈を極めるだろうな。既存の知財ビジネスで甘い汁を吸ってきたメガテック、製薬大手、そして知財戦略を安全保障の武器にしてきた大国たちが、黙ってこの権益を手放すはずがない」
ビルはテーブルに身を乗り出し、鋭い眼光で12人のメンバーたちを見回した。
「彼らにとって、このスキームは自分たちの支配構造を根底から覆す悪夢そのものだ。あらゆる手段でこのプロジェクトを潰しに来る。我々が描くべきは、単なる理想論ではない。そうした巨大な抵抗勢力からの猛攻をことごとく無力化し、彼ら自身に『参加せざるを得ない』と思わせる、詰みの盤面だ」
ビルの言葉に、室内の緊張感が再び一段と高まった。
世界の仕組みそのものを書き換える戦いが、いよいよ具体的な戦略構築のフェーズへと足を踏み入れようとしていた。
ビルの熱弁に室内が静かな興奮に包まれる中、当の結人の脳内では、
(800億ドル……途方もない金額だなあ)
と、どこか他人事のようにぼんやりと現実味のない思考が巡っていた。
途方もなさすぎる数字に実感が湧かない結人は、ふと、自身の短いキャリアの中で過ごしたユニセフ職員時代の日々を思い出していた。当時、彼が扱っていた支援物資の行き先は、そのほとんどがアフリカの国々だった。
アフリカ、貧困、巨大な人口……赤道直下……。
思考の糸が繋がり、あるアイデアがふっと結人の頭に浮かび上がった。結人はゆっくりと、おずおずと右手を挙げた。
「ミスター結人。何か意見でも?」
ビルが即座に気づき、促すように問いかける。結人は弱り切ったような苦笑いを浮かべた。
「あの……『ミスター』はよしてください。あなたのような完璧な紳士からミスターなんて呼ばれたら、居心地が悪くてこの部屋から逃げ出したくなってしまいます。どうか普通に『結人』と呼んでいただけますか?」
「承知した、結人」
ビルは茶目っ気のある笑みを浮かべ、優雅に頷いた。
「それでは私のことも、ビルと呼んでくれたまえ」
(それはそれで居心地悪いなあ……)
心の中で冷や汗をかきながら、結人は意を決して言葉を続けた。
「……僕たちが描くべき『シナリオ』というのは、国連に入ってくるその800億ドルの使い道を、誰からも文句が出ない……いえ、世界中が賛同せざるを得ない形で提案する、ということで間違いないでしょうか?」
ビルは、感心したように結人を凝視した。
「結人。その通りだ。その使い道が正しければ正しいほど、このスキーム全体に絶対的な正当性を与えることができる。それどころか、このスキームに参加しない国や企業に対して『理想に反する悪』という強烈なネガティブイメージを植え付けることだってできる」
ビルは一旦言葉を切ると、結人の真意を試すように、探るような視線を向けた。
「結人。君にはすでに、そのシナリオがあると言うのかな?」
「はい」
結人は淡々と、しかし静かな確信を込めて返答した。
「僕は以前、ユニセフの職員として働いていました。そこで目にしたアフリカ最貧国の現状は、あまりにも惨状と呼ぶしかないものでした。食料、安全な水、医療、教育、インフラ……そしてそれらを賄うための資金。すべてが圧倒的に不足していたんです」
結人は会議室のメンバーたちを見回した。
「今回のスキームで得られる管理費――年間600億から800億ドルという巨額の資金について、収支を完全に透明化した上で、そのすべてを『アフリカの再開発と教育国家建設』に投じるというのはいかがでしょうか?」
瞬間、ビルは目を見開き、一瞬だけ脳内で計算を巡らせた。
そして次の瞬間、まるで難問で満点を叩き出した優秀な生徒を見るような、輝かしい眼差しを結人に向けた。
「……素晴らしい! 素晴らしいアイデアだ!」
ビルはパンッと手を叩いた。
「ユニセフという既存の国連組織のパイプをそのまま活用でき、人道的名分としては完璧だ。なにしろ、このスキームに異論を唱えた瞬間に、その国や企業は『アフリカの子供たちの未来と復興を拒む非人道的な存在』というレッテルを全世界から貼られることになる!」
ビルは興奮を抑えきれない様子で、12人のメンバーへ向き直った。
「みんなはどう思う?」
室内からは、誰一人として異論の声は上がらなかった。それどころか、全員が結人の思いもよらない角度からの「詰みの王手」に、半ば呆れ、半ば感嘆したようにうなずいていた。
「異論はないようだな。……よし、それではさっそく、この『アフリカ再開発シナリオ』をまとめ、国務長官に初期レポートとして報告するとしよう」
ビルは手元資料を閉じると、全員を見渡した。
「他にアイデアのある者はいるか? ……いないようだな。では、次回の会合は国務省の実務検証チームからのフィードバックを待って開催する。日時は追って調整するので、各自、共有スケジュールアプリに自分の予定を入れ忘れないように。さもないと――歴史が動く最高の瞬間を見逃すことになるぞ」
いたずらっぽく告げると、ビル・ミラーは晴れやかな顔でチーム会議の散会を宣言した。
実務検証チームからのフィードバックには、およそ一週間かかるという報告が入った。そのため、次回の全体会議は一週間後に設定されることとなった。
その期間、結人は手持ち無沙汰になることもなく、サラからチームのメンバー10人それぞれについてのレクチャー――ブリーフィングを受けていた。
「せっかくだから、顔合わせがてら少し彼らのオフィスを覗いてみない?」
サラの提案で、結人は国務省内に用意されたメンバーの個別オフィスを順に訪問することになった。
ITネットワークとインフラ設計の責任者であるアーサーの部屋を訪れたときのことだ。アーサーは頭を抱え、モニターに映る世界地図をひどく険しい顔で睨みつけていた。
「……何か問題でも?」
結人が尋ねると、アーサーは充血した目で振り返った。
「特許一元化に伴って新設する、国連のグローバル・データセンターの建設候補地さ。世界中の特許データを処理・管理するには、どうしても『巨大なデータセンター』が必要になる。だが、それほどの規模の施設を稼働させるとなれば、大型ショッピングモールや巨大工場のコージェネレーション設備に匹敵するレベルの電力と、サーバーを冷やすための大量の水が要るんだ。だから、今や巨大なデータセンターはどこに行っても迷惑施設扱いでね。環境団体と地元住民の反対運動が激しくて、欧米のどこも土地の確保が難航しているんだ」
それを聞いた結人は、ふと不思議そうに首を傾げた。
「あの……巨大なデータセンターを一つ建てるのと、スマホの基地局を建てるのって、どっちが楽ですか?」
「は? そりゃあ基地局だ。すでに世界中に無数に立っているし、ビルの屋上にも置ける。だが、基地局にはデータを保管する巨大なストレージはないぞ?」
「ええ。でも、そこに繋がっている『スマートフォン』にはありますよね」
「……どういうことだ?」
怪訝な顔をするアーサーに対し、結人は手元の自分のスマートフォンを軽く振ってみせた。
「今って、写真もデータもクラウド保存が一般化してますよね。最新のスマホはストレージが256ギガや1テラバイトとかありますけど、ぶっちゃけ一般ユーザーには完全にオーバースペックで、大半が空き容量になっているはずです。……その空き容量の25パーセントくらいを、国連が借りればいいんじゃないですか?」
「個人のスマホを……分散型データセンターにするだと?」
アーサーの目がわずかに見開かれたが、すぐにプロのIT技術者としての反論が口をついて出た。
「技術的なブロックチェーンの分散処理ならともかく、一般ユーザーが自分のスマホの容量を、どこの馬の骨とも分からない国連のシステムにタダで提供するわけがないだろう! それに、24時間アクセスさせたらバッテリーも通信網も一瞬でパンクするぞ!」
「ええ、タダなら誰も貸しません。だから『実質ギガ無制限』にするんです」
結人は事もなげに言った。
「ユーザーには一番安い『最小ギガ数のプラン』を契約してもらいます。そこに『国連の分散サーバー用オプション』を付ければ、データ通信が無制限になる。国連の特許資金を使って、その無制限プランへのアップグレードの差額分だけを通信キャリアに支払うんです」
「……通話料や基本料金はユーザーが払い、国連は『データ通信の差額』だけを負担するのか?」
「そうです。関係ないサービスまで国連が全額負担するのは無駄が多いですからね。これなら、ユーザーは最低料金でギガ使い放題になるから喜んでストレージを貸すし、キャリアも確実なオプション収入が入るから大歓迎するはずです。
それに、稼働させるのは『スマホが充電ケーブルに繋がっていて、かつ自宅のWi-Fiに接続されている時』……つまり、ユーザーが寝ている間だけに限定します。これならモバイル回線への負荷もバッテリーの消費も起きませんよね?」
「しかし、それじゃあユーザーが朝起きて家を出たら、システムがダウンしてしまうじゃないか!」
「だから、アメリカ、ヨーロッパ、アジアの三拠点にタイムゾーンを分散して保存するんです」
結人はさらりと、とんでもないことを口にした。
「三つの地域に分散保存させれば、地球の自転に合わせて『常にどこかの拠点のユーザーが夜中で、スマホを充電して寝ている状態』が完璧にローテーションできますよね。物理的な回線落ちが起きても、別の時間帯にいるスマホのバックアップデータで瞬時に補完すればいい。……これで、絶対にダウンしない地球規模のクラウドの完成です」
ここで、それまで黙って聞いていたサラが眉をしかめて割って入った。
「ちょっと待って、結人。発想は面白いけれど、個人の端末に国連のデータを預けるなんてセキュリティ上のリスクが高すぎるわ。もし端末が盗難に遭ったり、悪意あるハッカーに解析されたらどうするの? 各国の政府も世論も絶対に猛反発するわよ」
「え? でもサラさん、そこに保管するのって『特許データ』ですよね?」
結人はきょとんとした顔で返した。
「……ええ、そうよ」
「特許って、そもそも『全世界に広く公開されている情報』じゃないですか。最初から誰でも閲覧できるオープンなデータなんだから、万が一スマホの中身を覗かれたって、情報漏洩も国家機密の流出も起きようがないですよね。機密性ゼロの公開データを細切れにして暗号化して置いておくだけなんですから、世論が反対する理由もないはずです。……それに、端末の安全管理アプリくらい、アーサーさんなら朝飯前で作れますよね?」
「……ッ! 当たり前だ! そんなもの数日もあれば完璧なバックグラウンドプロセスを組んでみせる!」
サラは息を呑み、言葉を失って立ち尽くした。
セキュリティという最大の懸念点すら、「特許はそもそも公開情報である」という身も蓋もない事実によって、一瞬で無力化されてしまったのだ。
「それに……」結人はダメ押しのように付け加えた。「通信費が浮けば、消費者はそのお金で、カメラ性能がいい一番の高機能モデル……つまり『ストレージが一番大きいモデル』を買いやすくなります。ユーザーは最新モデルが手に入って嬉しいし、アップルやサムスンといった携帯メーカーは高付加価値製品の売り上げ比率が跳ね上がる。全員ニコニコですよね?」
「……ユーザーのスマホを……データセンターに……!」
アーサーはうわ言のように呟いた。
「これなら冷却コストはゼロ! 用地買収もゼロ! それどころか、メガテック企業がこぞって我々の最強のロビイストに変わるぞ!!」
奇声を上げて狂ったようにキーボードを叩き始めた世界的権威を見て、サラは「……完全にやられたわね」と頭を抱えてため息を漏らした。
しかし、アーサーはバッと顔を上げ、血走った目で結人を指差した。
「待て! クラウドの件は完璧だ。だが、そのシステムを安定稼働させるための国連専用の基地局はどうする!? 既存のキャリアのアンテナ網だけではいずれキャパシティが限界を迎える。かといって、専用基地局を世界中に新設するとなれば、またビルの屋上や土地の確保、地権者との地道な交渉が必要になるんだぞ!」
「あ、それなら……『学校』を使えばいいんじゃないですか?」
食い下がるアーサーに、結人はまたしてもあっさりと答えた。
「学校?」
「はい。ユニセフに出向していた時に気づいたんですが、学校ってどんな国でも一定の間隔で配置されている公共インフラですよね。しかも、人口が密集している都市部には学校がたくさんあって、過疎地域には少ない。つまり、学校を基準に置けば、通信トラフィックの需要に合わせて基地局の配置が『自然と最適化』されるんです。……国連主導のプロジェクトなんですから、ユニセフとタッグを組んで、各国の政府に『教育現場の通信インフラ整備』という名目で基地局を置かせてもらえばいいんですよ」
「しかし、校庭に巨大なアンテナ塔を立てれば、親たちが電磁波だなんだと騒ぎ出すぞ」
「だから、百葉箱小型の基地局にするんです。例えば……日本の学校には『百葉箱』っていう気象観測用の白い箱が必ず校庭にあったんですけど、今は使われなくなって撤去されつつあるんです。世界中にも、そういう『学校の敷地内にある、使わなくなったスペースや高い場所』ってありませんか?」
「……百葉箱? ああ、スティーブンソン・スクリーンのことか。なるほど、日本の学校にはそんなものが全校にあったのか。……だが、言わんとしていることは分かる。世界中の学校にも、必ず『国旗掲揚台』や『夜間照明の鉄塔』があるな」
「それです! 電源も引きやすいし、ポールの先端や照明塔にカモフラージュして設置しておけば、景観も損ねませんし親たちも気づきませんよね」
アーサーの動きが、今度こそ完全に停止した。
面倒な地権者との交渉は「ユニセフを通じた政府間交渉」というトップダウンで一気にクリアされ、インフラ設計の要であるトラフィックの分散最適化、さらには設置場所の確保という難題すら、「そこにある公共の鉄塔」という盲点で見事に解決されてしまった。
「……ポールにスモールセルを……需要の自動最適化……」
アーサーは震える手で頭を抱え、やがてモニターに向かって猛烈な勢いで新しいネットワーク構成図のプログラミングに没頭し始めた。
「……さて、次に行きましょっか。アーサーはもう、私たちの声なんか聞こえてないみたいだし」
これ以上彼を刺激するのは危険だと判断したサラは、呆気にとられつつも結人の腕を掴み、そそくさとそのオフィスを後にした。
そんな怒涛の挨拶回りを経て、全員が各分野の第一人者であり、超一流のスペシャリスト集団であることは結人にも身をもって理解できたが、中でも政治・取りまとめを担当するビル・ミラーの経歴は圧巻の一言だった。
優秀なロビイストとしてワシントンでその名を轟かせていたビルは、現大統領の強い推薦で政策ブレーンとして陣営に招かれた。彼はすぐさま選挙対策チームを一つにまとめ上げ、綿密なイメージ戦略と「国際協調路線」を核とした革新的な政策案の数々を立案。それを選挙公約の柱に据えることで、現職が有利とみられていた事前の予想を根底から覆し、最終的には歴史的な大勝と言われる大統領選勝利の最大の立役者となった人物だったのだ。
(……やっぱり、あんなすごい人を『ビル』なんて呼び捨てにはできないよなあ……)
心の中で冷や汗をかきながら、そんな弱気なことを考えていた結人に、サラが気さくに声をかけてきた。
「結人、そろそろニューヨークのアパートの荷物、引き上げに行かない?」
「あっ……」
結人は呆然と固まった。怒涛の展開とワシントンでの緊張感にかまけて、すっかりニューヨークに残してきた自分の自宅の存在を失念していたのだ。
「そうだね……。明日は何か予定はあったっけ?」
「特にないわよ。フリーにしてあるわ」
「それなら、明日ちょっと行ってくるよ」
「了解。急ぐわけじゃないから、今回はヘリじゃなくて飛行機で行きましょう。現地に荷物運搬用のトラックを手配しておくわね」
そう言うと、サラは手際よくスマートフォンを操作し始めた。指先を滑らせてわずか十数秒。
「はい、チケット取れたわ。明日は午前9時にホテルのロビー集合ね」
「え? ……ついてきてくれるの?」
結人が驚いて聞き返すと、サラは不思議そうに片眉を上げた。
「護衛担当なんだから当然でしょ。それとも、私と一緒だと何か不都合でも?」
「いや! そうじゃなくて……こんな僕のプライベートな引っ越し作業に付き合わせるのが申し訳なくて」
「今更なにを遠慮してるのよ」
サラはクスッと笑い、悪戯っぽく微笑んだ。
「ちょっとした日帰り旅行のつもりで楽しみましょう?」
渡米してからというもの、慣れない破格のVIP待遇や国家規模の重圧に戸惑うことばかりだった結人にとって、こうしてサラが常に寄り添い、サポートしてくれるのは正直なところ心底ありがたかった。
それに、彼女の持ち前の軽やかで洗練された話術のおかげで、彼女と一緒に過ごす時間が自分にとって実に楽しく、心地よいものになっていることもまた、紛れもない事実だった。
翌日。飛行機と手配された車を乗り継ぎ、結人が暮らしていたニューヨークのアパートに到着したサラは、部屋の中を見回して呆れたような声を上げた。
「……しかし、本当に見事に何もないわね」
サラの言葉通り、結人のアパートには最初から備え付けられていた最低限の家具以外、申し訳程度の衣類が置かれているだけだった。あまりにも生活感が薄い。
「手伝う必要もないかもしれないけど……何をすればいい?」
サラは彼に自分の(個人的な)目的や観察する視線を悟られないよう、至って平静を装った声で問いかけた。
「じゃあ、クローゼットの中の服を段ボールに詰めてもらえると助かるよ。荷物と言っても、本当にそれくらいしかないから」
「分かったわ。結人は何をするの?」
「僕は部屋の掃除をするよ」
「掃除?」
サラは不思議そうに首をかしげた。
「掃除なんて、どうせ退去した後に専門のハウスクリーニングが入るんだから、わざわざ結人がやる必要はないわよ?」
「いいんだ」
結人は雑巾を手に取り、どこか愛おしそうに部屋の隅々を見つめながら、柔らかく微笑んだ。
「短い間だったとはいえ、お世話になった場所だからね。できるだけ綺麗にしてから立ち退きたいんだ」
「……ふ〜ん」
サラの口から漏れたのは、短い一言だけだった。
けれど、その声に滲み出た温かな心地よさと、胸の奥から湧き上がってくる柔らかな感情が――彼という人間に対する明らかな『好意』であることを、サラ自身もはっきりと自覚していた。




