大統領直轄のセーフハウス
第六章
オーバルオフィスでのあの日から数日。
結人は、嵐が過ぎ去ったあとの静寂を享受していた。大統領執務室という、世界で最も権力の集中する場所へ引っ張り出され、大物政治家相手に自説を並べ立てたなどという事実は、今となっては遠い異国の昔話のように思えた。
あれ以来、米政府からのコンタクトは一切ない。
あのとき同席していた大統領も、国務長官も、結局は若造のたわ言として一蹴し、いつもの日常へ戻っていったのだろう。結人は胸をなでおろしていた。
(……まあ、あんな大層な話、本気にするわけないよな)
自室のベッドで天井を仰ぎながら、結人はふと一人の女性の顔を思い浮かべた。
サラ。
政府の職員だとか、誰かの秘書だとか名乗っていた、あの華やかな金髪の女性だ。自分の腕を容赦なく抱え込み、強引にヘリやリムジンへ押し込んできたことには参ったが、それを引いても余りあるほど、彼女は魅力的な美人だった。
(……ほんと、綺麗な人だったな)
整った顔立ちと、からかうような青い瞳。そんな現実離れした女性と関わることも、もう二度とないだろう。自分はここで、また「普通」の出向官僚として目立たず平穏に暮らせばいい。結人はそう自分に言い聞かせ、静かに目を閉じた。
3日後の昼過ぎ。
いつものようにパソコン上の支援物資在庫データをチェックしていた結人は、上司から「ちょっと部屋まで来てくれ」と声をかけられた。
何か書類の記載ミスでもあったのだろうかと思いつつ、上司の個室のドアを叩く。
「失礼します」
室内へ足を踏み入れ、結人は思わず足を止めた。
狭い応接スペースに、妙な顔ぶれが揃っていたのだ。
デスクの主である上司の隣には、ユニセフ赴任時のオリエンテーションで会った記憶がある国連の人事担当者。その向かいには、赴任時に日本大使館へ挨拶に伺った際、挨拶を交わした人物——確か、副大使だったはずだ。誰だったかはっきりとは思い出せないが、見覚えはある。
そして、その副大使の隣に、事もなげに脚を組んで座っていたのは、あのサラだった。
結人は一瞬、部屋を間違えたかと思って引き返そうとしたが、上司の手招きによって否応なく空いている席へ着かされた。
「……ええと、これは一体どういったお集まりで?」
何が何だかわからないまま問いかける結人に、上司が咳払いをひとつ挟んで口を開いた。
「結人君。単刀直入に言おう。アメリカ政府から、君に対するヘッドハンティングの申し出があった」
「……はい?」
「君が先日、業務改善のために作ったあの物流最適化アプリだ」
上司は至って真面目な顔で続けた。
「あのプログラムの汎用性と即効性が、あちらの政府関係者の目に留まってね。政府関連施設の巨大な在庫管理システムに、あのアルゴリズムを組み込んで運用したいそうだ。ついては、システムの組み込みと現場に合わせたカスタマイズを行うため、開発者である君本人をぜひ引き抜きたい、とのことだ」
結人はポカンと口を開けた。
(……あのアプリを?)
あれはただ、現場の手作業が面倒だったから、既存のコードを組み合わせて数時間で作った不完全なツールだ。
(それなら……アイデアを出しただけの僕より、実際にシステムへ組み込んでくれた同僚のプログラマーを引き抜いたほうが、遥かに役に立つんじゃないかなあ……)
脳内で即座にそうツッコミを入れたが、大人の事情が複雑に絡み合っている雰囲気を感じ取り、口に出すのは踏みとどまった。
続いて、日本大使館の副大使が穏やかな笑みを浮かべて口を開いた。
「結人君。厚生労働省本省との事前調整は、すでにこちらで済ませてある。国益や出向期間の規定云々で君を引き留めるような真似はしない。このヘッドハンティングに応じるか、あるいはこのまま厚生労働省の官僚として留まるか……すべては君個人の意思に委ねられている。好きなように決めてくれて構わないよ」
本省が即答で許可を出したという事実に、結人は首を傾げた。あんなに事前の手続きや前例にこだわる霞が関が、なぜこんなあっさりと若手を他国政府へ差し出すような真似を許したのだろうか。
(まあ、考えてみれば入省してすぐにプロジェクトに巻き込まれ、直後にユニセフに出向じゃ、本省に対して大した貢献も出来ていないし、送り出してくれた年金局長以外の人脈もない。当然と言えば当然か)
最後に、サラが洗練された手つきで書類を滑らせてきた。
「雇用条件の概略です、Mr.結人。詳細な契約内容はこれから詰めることになりますが、年俸については現在の支給額から最低でも25%以上の増額を保証いたします。住環境も含め、全額政府が保証いたします」
破格と言っていい提示だった。
上司は結人の肩を軽く叩き、「すぐに返事をする必要はない。人生を左右する選択だ、ゆっくり考えてから教えてくれ」と告げ、話し合いはひとまず終了となった。
自分のデスクに戻った結人は、PCの画面を見つめながら、「アメリカ政府といえども大変なんだな」と他人事のように思うだけだった。
その日の退勤時。
ビルを出た結人は、夕暮れのニューヨークの涼しい風を浴びながら歩き出そうとした。
その瞬間、横からすっと伸びてきた細い腕が、結人の右腕をガッシリと抱え込んだ。
「うおっ!?」
驚いて隣を見ると、トレンチコートを羽織ったサラが、当然のような顔で並んで歩いていた。
「な、何してるんですかサラさん」
「どうせこの後はアパートに帰って、適当な冷凍食品でも食べるだけでしょ? 夕食、付き合いなさいよ」
「いや、急に言われても困りますし……」
結人が腕を引こうとすると、サラは足を止め、小悪魔的な笑みを浮かべて結人を覗き込んだ。
「女性からのアプローチを無下に断らないのは、紳士のマナーよ。それとも……私が相手じゃ、ご不満かしら?」
街行く人々が、金髪の美女とタジタジになっている東洋人の組み合わせを面白そうに眺めていく。これ以上ここで押し問答を続けるのは悪目立ちしすぎると悟った結人は、深くため息をついた。
「……分かりましたよ。行けばいいんでしょ、行けば」
「よろしい」
サラは満足そうに微笑むと、手を挙げてイエローキャブを拾い、結人を後部座席へ押し込んだ。
タクシーが到着したのは、マンハッタンの喧騒から少し離れた静かな一角にある、格式高そうな和食料理店だった。
店内に一歩足を踏み入れれば、そこはまるで京都の高級料亭のような静寂と木工の香りが漂っている。通されたのは、庭園の見える完全な個室だった。
「わ……」
結人は思わず声を漏らした。
ニューヨークに赴任して以来、和食が恋しくなることは多々あったが、この街のちゃんとした和食店は腰が抜けるほど値段が高い。出向手当が出ているとはいえ、平の事務官の財布で気軽に来られるような場所ではなかったのだ。
「喜んでくれたみたいね。さ、座って」
向かいの席に腰掛けたサラは、運ばれてきた日本酒のグラスを傾けながら、本題を切り出した。
「さて、結人。私たちのチームには、来てくれるわよね?」
結人は出された繊細な前菜に舌鼓を打ちつつ、生真面目な顔で答えた。
「……そうですね。アメリカ政府ほどの組織でも、在庫管理や物流にそこまで苦労されているとは思いませんでしたけど。まあ、せっかくのお話ですし、前向きに考えてみますよ。ただ、あまりにも突然のことだったので、心の準備が……」
結人がそこまで言ったときだった。
対面に座るサラの肩が、くっくッと微かに震えているのに気づいた。
見上げると、サラは両手で口元を覆い、必死になって笑いを噛み殺していた。顔を真っ赤にし、青い瞳に涙すら浮かべている。
「……サラさん?」
「……っ……ふふっ……あははははは!」
ついに耐えきれなくなったように、サラは声を上げて笑い出した。個室の静寂に、彼女の鈴を転がすような笑い声が響き渡る。
「ちょっと、何がそんなに面白いんですか」
「だって……っ、あなた……本気で言ってるの!? あの説明を真に受けてたわけ!?」
サラは目元を指で拭いながら、呆れたように、けれど愛おしそうな視線を結人に向けた。
「大統領執務室で大統領や国務長官相手にあの恐ろしいゲーム理論を展開しておいて、あなたをスカウトする理由が『現場の在庫管理アプリ』なわけないじゃない!」
結人は箸を止め、またしても頭の上に大量のクエスチョンマークを浮かべた。
「……え? アプリが目的じゃないなら……なんで僕なんかをスカウトするんですか?」
サラは深々と溜め息をつき、肘をついて結人をじっと見つめた。
「あの日からこの3日間、ワシントンで何が起きていたか教えてあげるわ。政府内にはね、特許の国連一元管理化と、それに伴う財政・外交構造の改革を推進するための、極秘プロジェクトチームが発足したの。責任者はブランディ国務長官。……そしてあなたには、そのチームの『主任研究員』として着任してもらうために、私はここに来たのよ」
「しゅ、主任研究員……!?」
「そう。さっき提示した『25%アップ』っていうのは、国連や日本政府の目を眩ませるための表向きのダミー条件。実際のあなたの報酬は、今の2倍以上……ううん、あなたが望むならもっと出せるわ。でも、あなたはアイデアを出した時点ですでにその価値以上の仕事をやってのけているんだから、気負わずに気楽に受けてくれればいいわ」
サラはそこまで一気にまくし立てると、イタズラが成功した少女のように微笑んだ。
「住む場所も政府が最高のセキュリティ付きの高級アパートメントを用意するわ。……まあ、そのあたりの案内は後日にしましょう。きっと気に入るはずよ」
あまりにも現実離れした法外なオファーの連続に、結人は完全に固まっていた。
「な……なんで僕なんかに、そんな無茶苦茶な好待遇を……」
唖然とする彼の反応を見ながら、サラはふと、今日の午前に交わされた日本政府との交渉報告を思い出していた。
厚生労働省との交渉を担当したスタッフは、拍子抜けしたような顔で「驚くほど簡単に引き抜きが承認された」と報告してきたのだ。『本人さえ良ければ、どうぞ引き取ってください』と言わんばかりのあっけなさだったという。
(……信じられない)
サラは心の内で深く溜め息をついた。
日本政府も、霞が関の人間たちも、そして何より目の前にいる当の本人すらも。
この青年の頭脳が持つ、世界を根底から作り替えてしまうほどの圧倒的な価値を、何ひとつ理解していないのだ。
ユニセフに流れてきたのだって、本当に本省の政治的な配慮か何かという、まったく下らない理由なんだろう。
(もし、あのとき私がカフェで彼に声をかけなかったら……)
サラは柄にもなく、これまで一度も頼ったことのない「神」という存在に、初めて心の中で感謝を捧げた。
この無自覚な天才が、自分の手の届く場所に転がり込んできたという幸運に。
「さあ、結人」
サラは完璧な笑みを浮かべ、テーブル越しに彼の手にそっと重ねた。
「美味しい和食を食べて、覚悟を決めなさい。あなたはこれから、私達と一緒に世界をひっくり返すのよ」
結人は運ばれてきた最高級の刺身を見つめながら、「また面倒なことになったな……」と、本日何度目になるかわからない溜め息を深く吐き出すのだった。
翌朝。
上司の部屋のドアを叩いた結人は、昨日のスカウトを受け入れる旨を静かに伝えた。
「そうか、受けるか」
上司は頷き、手元の書類に視線を落としながら退職や引き継ぎの時期について尋ねてきた結人に、あっけらかんとした口調で返した。
「向こうのアメリカ政府からは『可及的速やかに頼む』と連絡が来ている。君がこちらに着任してから日も浅いし、引き継ぐほどの特殊な業務もないからね。極端な話、明日から向こうへ行ってくれても構わないよ」
「明日からでも、ですか……」
あまりの展開の早さにあっけにとられる結人に対し、上司は「君の作ったアプリには助けられたよ。あちらの政府でも頑張ってくれ」と、形式的ながらも温かみのある労いの言葉をかけた。
自分のデスクに戻った結人は、手渡されたアメリカ政府の人事担当部署の連絡先へ電話を入れた。事務的なやり取りの末、「担当者から折り返し連絡させますので、個人の携帯電話番号を教えていただけますか」と求められ、番号を伝えて一旦通話を切る。
ポケットの中でスマホが震えたのは、それから1分も経たないうちだった。
人事担当者にしては早すぎるなと思いながら画面を見ると、表示されたのは見覚えのない携帯番号だった。通話ボタンをスライドさせて耳にあてる。
『――決心は固まった?』
受話器の向こうから聞こえてきたのは、鈴を転がすような、しかし聞き慣れたあの女性の声だった。
「……サラさん?」
『そうよ。どう、腹は決まったかしら?』
「決心ってほどの大層なものじゃないですけど……お世話になろうと思います」
『良かった! 結人、これからよろしくね』
弾んだ声で返され、結人は苦笑を浮かべた。
「こちらこそよろしくお願いします。ところで、勤務地はワシントンですよね? いつまでに着任すればいいんでしょうか。上司からは『明日からでも構わない』なんて言われてしまったんですが」
『じゃあ、明日ね』
一瞬、思考がフリーズした。
「……は?」
『聞こえなかった? 明日よ』
「いや、着任が、ですか!? まだ引っ越しの準備も、今のアパートの解約も、役所の手続きだって何ひとつ手付かずですよ? そもそもワシントンでの新しい部屋だって探さなきゃいけないのに――」
『あなたは身一つで国務省に来ればいいの』
サラは呆れたように、けれど絶対的な確信を込めて言い放った。
『今のアパートは当面そのままにしておいて問題ないわ。費用はこちらが全額負担するから。引っ越し先や住環境の保証については、昨日も言ったでしょ? それに役所の手続きって……結人、あなたがこれからどこで働くと思っているの?』
「……」
『それじゃ、明日の13時に国務省で待ってるわね』
一方的に通話が切れ、結人は手の中のスマホをただ呆然と見つめた。
その異様な様子に気づいたのか、席を立ちかかった上司が声をかけてくる。
「どうした、結人? 何かトラブルか?」
「いえ……スカウトを受けると連絡したら『明日13時にワシントンに着任しろ』と言われまして。アメリカの転職って、いつもこんな感じなんですか?」
「そんなわけないだろ」
上司は声を上げて笑うと、結人の肩をパンと叩いた。
「まあ、覚悟しておくんだな。向こうの現場でも、相当物資の在庫と注文書が大渋滞を起こしてるんだろうからね」
「……はあ」
結人は生返事を返しながら、頭の片隅で(絶対そういう理由じゃないんだけどな)と諦めにも似た溜息を呑み込んだ。
第七章
次の日。
言われた通り手配された航空便に乗り込み、結人は取り敢えず週末までの着替えだけをボストンバッグに詰め込んでワシントンD.C.へと飛んだ。
現地で軽い昼食を済ませ、約束の13時少し前に重厚な国務省ビル(トルーマン・ビルディング)のエントランスへと足を踏み入れる。受付カウンターへ向かおうと歩を進めた瞬間、不意に右腕を強く掴まれた。
「ようこそワシントンへ、結人。待っていたわ」
振り向くと、そこには洗練されたビジネススーツに身を包んだサラが立っていた。
これで三度目となる唐突な身柄の確保に、結人ももはや驚く気力すら湧かなかった。
「お招きありがとう、サラ。……一応、お言葉通り身一つで出てきたよ。ところで、僕は今日からこの国務省の中で働くことになるのかな?」
そう尋ねると、サラはまるで隠していたプレゼントを明かすかのような、会心の笑みを浮かべた。
「ここから少し離れた場所よ。今から案内するわね」
サラが受付の警備担当者に短く声をかけると、5分も経たないうちに玄関横の車寄せに黒塗りの高級セダンが滑り込んできた。
車に乗り込むと、セダンは静かに発進した。車窓の外には見覚えのある国務省周辺の街並みが遠ざかり、ほどなくして緑豊かな敷地に囲まれたホワイトハウスのシルエットが視界をかすめる。だが、車はその敷地を通り過ぎ、ホワイトハウスにほど近い一角に建つ、格式高そうな高級ホテルの地下駐車場へと滑り込んでいった。
車を降り、サラのあとに続いて地下の通路を進む。
途中で通り抜けた重厚な扉には、明確に『関係者以外立ち入り禁止(STAFF ONLY)』のプレートが掲げられていた。不審に思いつつもついていくと、突き当たりに無機質なエレベーターがぽつんと佇んでいた。
サラは呼び出しボタンを押す代わりに、操作パネルの横にある金属プレートに右手のひらを広げて押し当てた。
静かな電子音が鳴り、ドアが開く。
中に足を踏み入れ、結人は思わず首をかしげた。エレベーター内部の操作盤には、階数を示すボタンが一切存在しなかったのだ。代わりに付いているのは、小型のカメラレンズのような装置だけだった。
サラがそのレンズを覗き込むと、網膜認証が完了したのか、ドアが静かに閉まり、エレベーターは滑らかに上昇を始めた。
「……まるでスパイ映画だ」
「ふふ、お気に召したかしら?」
エレベーターは最上階と思われるフロアで静かに停止した。
降り立った廊下は、ホテルの他の客室フロアとは明らかに異なり、静けさと重厚な緊張感に満ちている。廊下の突き当たりにある、分厚い木製の扉の前でサラが足を止めた。
「ここが、あなたが今日から働くオフィスよ」
サラが重厚なドアノブを回して扉を開く。
室内に一歩足を踏み入れた結人は、その光景に息を呑んだ。
そこはオフィスという概念を遥かに超えた空間だった。壁一面を占拠する16分割の巨大な高解像度マルチスクリーン。洗練されたデザインの作業デスクが4セット。部屋の奥には最高級の革張り応接セットに加え、完璧にセットされたバーカウンターまで備え付けられている。
「……すごいね。我ながら平凡な感想だけど、他に言葉が思いつかないよ」
結人は部屋を見回しながら、ぽつりと呟いた。
「まさかとは思うけど、僕のためにたった3日でこの部屋を突貫工事で作ったわけじゃないよね?」
サラはくすりと笑い、首を振った。
「まさか。ここはもともと、有事の際に大統領やNSC(国家安全保障会議)が使う政府の極秘セーフハウス(隠れ家)よ。そこを結人、あなた専用に大統領令で丸ごと借り受けたの。……まあ、あの16分割のメインモニターだけは、大規模なデータ分析に必要になると思って昨日の夜に急遽搬入させたけれど」
元来、人混みや目立つ場所を嫌い、日陰で静かに過ごしたい結人にとって、この過剰なまでに豪華で重々しい空間は、居心地が良いどころか圧迫感すら覚える代物だった。
「ところで、僕の上司は誰になるんだろう? 着任の挨拶をしたいんだけど……まさか君ってことじゃないよね?」
「上司、ね……」
サラは淡々とした口調で、人差し指を立てた。
「省を出る時に連絡しておいたから、そろそろかしら。そうね。その前に、このオフィスの全体像を説明させて。ここはホワイトハウスにほど近いホテルの最上階。政府がフロアごと借り上げて万全のセキュリティを施してるの。ここと国務省本省との間は専用の独立光ファイバーケーブルで直結されているから、いつでもリアルタイムで国務省のメインサーバーや分析AIにアクセスできる。もちろん、全体会議の時は国務省に出向く必要があるけれど、基本的にはこの部屋の中だけで全ての作業が完結する体制を整えたわ。ホテルだから24時間ルームサービスが利用可能で、何を頼もうと費用は全額政府持ちよ。……それと」
サラは奥の壁に設置された、二つの頑丈そうなドアを指さした。
「あっちの扉の奥は、私とあなたのプライベートルーム(私室)になっているわ」
「……え? 私室?」
結人は思わず引いた声を漏らした。
「ええ。高級アパートメントを用意すると言ったでしょ。これはあなたの移動時のセキュリティリスクを極限まで減らすためでもあるの。それと、私は今日付けで国務省から大統領直属の特別補佐員兼ボディガードに役職が切り替わったわ。国務省との連絡調整も含め、ここであなたを24時間体制でサポート及び護衛、監視するのが私の任務よ」
「……監視する?」
「当たり前でしょ。将来はともかく、現時点であなたはアメリカ国民ですらないのだから」
「……」
逃げ場のない完全管理体制とドライな現実を突きつけられ、結人は絶句するしかなかった。
その時、重厚な入口の扉が静かに、しかし勢いよく開かれた。
「――ワシントンへようこそ、結人! 君の部屋は気に入ってくれたかい?」
入れ代わり現れた人物を見て、結人の思考が一瞬停止した。
そこに立っていたのは、数日前にテレビ越し、そしてオーバルオフィスで対面したばかりの男――合衆国現職大統領、その人だった。
そしてそのすぐ後ろから、あきれた表情を浮かべた国務長官ブランディが、ゆっくりと部屋へと入ってきた。
「大統領……いくら何でもフットワークが軽すぎます」
ブランディ長官は短く溜息をつくと、結人とサラに視線をやった。
「それになんだね、サラ。君は大統領にどんな入れ知恵をしたんだ? 国務省で最も有能なスタッフの一人を、こうもあっさりと直属に引き抜かれるなんて。本省の作業効率が露骨に落ちるんだがね」
「申し訳ありません、長官」
サラはまったく申し訳なさそうにない、隙のないビジネススマイルを浮かべた。
「ですが、世界をひっくり返すプロジェクトの現場には、相応の体制が必要です。長官も国連改革という歴史的偉業のためなら、多少の不便は喜んで許容してくださると信じております」
「やれやれ……」
ブランディ長官は肩をすくめて首を振った。
そんな長官の肩を、大統領はポンポンと楽しそうに叩いて見せる。
「いいじゃないかブランディ。君が手塩にかけて仕込んだ部下が、これから世界の歴史を新しく書き換えるんだ。実に誇らしいことじゃないか!」
大統領は笑みを浮かべ、中央のデスクに両手を突いて結人を直視した。
「さて、結人。お膳立てはすべて整えた。ここが君の新しい主戦場だ。……早速だが、あの『国連特許一元管理スキーム』の具体的実行シナリオについて、第一歩の詰めに入るとしようか!」
「……今から、ですか?」
さすがに驚きを隠せず、結人は問い返した。昨日ワシントン着任を命じられ、先ほど足を踏み入れたばかりの部屋で、荷物すら下ろしていない。いくらなんでも展開が急すぎた。
大統領が口を開きかけたが、それを制するように国務長官ブランディが素早く手を出した。
「大統領、いい加減にしてください」
長官は戒めるような視線を大統領へ向けたのち、視線を中央のデスクへと戻した。
「今日のところはメインモニターの確認を兼ねて、国務省で待機しているプロジェクトメンバーと目標の共有を行うだけでおしまいです。……サラ、回線を繋ぎなさい」
「了解いたしました」
サラが手元の端末を操作すると、壁一面を覆う16分割の大型モニターに、次々と映像が映し出された。
「みんな、揃っているか?」
ブランディ長官が静かに問いかける。
モニターには、10人の男女の顔がそれぞれ映し出されていた。老若男女問わず、背景のオフィス環境もまちまちだが、画面越しにも伝わってくるその眼光の鋭さは、彼らが只者ではないことを雄弁に物語っていた。
長官は結人の横に立ち、画面を示しながら言葉を続けた。
「このプロジェクトの専任メンバーは、君とサラを入れて12名だ。詳しくは後日紹介するが、ここにいるのは法律、政治、経済、経営、そして最新テクノロジー……いずれの分野においても最高峰の知見を持つスペシャリストたちだ。もしこのメンバーでも対応できないような想定外の問題が発生するなら、即座に新たな人選を行って追加投入する」
結人は整然と並ぶ画面の顔ぶれを見回した。画面の向こうにいる者たちもまた、画面中央に立つ見知らぬ東洋人の青年に、好奇と分析の入り混じった視線を向けている。
「彼らは現在、国務省内に用意した部屋からログインしているが、国務省の職員ではない」
長官の口調が、一段と重みを増す。
「君を含め、この12名は政府職員でありながらも既存のどの省庁にも属さず、合衆国大統領直轄の独立プロジェクトチーム『特別戦略室』の所属となる。つまり……君たちに指示を出し、命令を下せる権限を持つのは、各省の長官でも、国連事務総長でも、連邦議会でもない。アメリカ合衆国大統領ただ一人ということだ」
行政機構のあらゆる縦割りや利害関係から完全に切り離された、超法規的な特務チーム。その圧倒的な権力と責任の重さに、結人の胃が引きつるような感覚を覚えた。
「そして、このチームに与えられた最初のミッションは――『特許の国連一元管理スキーム』の完全な構築と、国内外のあらゆる反発や懸念を抑え込み、納得させ得る実行シナリオの作成だ」
説明を終えたブランディ長官は、隣で腕を組み、満足そうに頷いている大統領へと一歩身体を引いた。
大統領は一歩前へ出ると、モニターの向こうの10人と、そして結人の目をまっすぐに見つめ、力強く言い放った。
「結人、そしてみんな。世界の新しいルールを作る戦いだ。よろしく頼むぞ」
大統領と国務長官が去り、モニターに映る顔のうち最年長と思える初老くらいの男性が「明日の朝から本格的な詰めに取りかかる」と告げて通信を切ると、オフィスには静寂が戻った。結人は大きく肩の力を抜き、サラに案内されるまま奥の私室へと足を踏み入れ――そして、思わず足を止めた。
「……ここが、僕の部屋?」
「ええ。気に入ってくれたかしら」
与えられたプライベートルームは、ホテルのスイートルームを思わせる上質な空間だった。
壁にはメインオフィスほどではないものの、埋め込み式の大型液晶テレビが鎮座している。部屋の中央には、結人が今までの人生で見たこともない大きさの――おそらくキングサイズと呼ばれるような――巨大なベッドが構えられていた。
部屋の隅には機能性を損なわない程度に豪華で上質な書斎デスクが置かれ、そこには3台の外部モニターが接続された高スペックなノートパソコンがセットされている。
さらに部屋の奥へ進むと、結人の実家にあるものと同等サイズの冷蔵庫と、小ぶりながら清潔感のあるカウンターキッチンまで備え付けられていた。
冷蔵庫の扉を開けてみると、ミネラルウォーターやスポーツドリンク、いくつかの飲料が綺麗に整列している。
「……至れり尽くせりだな」
デスクの椅子に深く腰掛け、結人はようやく長旅と立て続けの緊張から解放され、深々と息を吐き出した。
静かな部屋の中で天井を見上げていると、不意に胃が小さく鳴った。そういえば、ワシントンに到着してからまともな食事をとっていない。
「お腹、減ったな……」
つぶやいた、まさにその直後のことだった。
ピンポーン、と軽い電子音が部屋に響いた。ドアのチャイムだ。
「……はい」
体を起こして扉を開けると、そこには私服に着替えたサラが立っていた。
「結人、ご飯食べに行かない?」
結人は扉を掴んだまま、まばたきを繰り返した。そして、あり得ないとは思いつつも、つい口から疑問が漏れ出た。
「……ねえ。監視って、ひょっとして盗聴も含まれてるの?」
「盗聴?」
その言葉が出た瞬間、サラの表情から軽やかさが消え、鋭い緊張が宿った。彼女は瞬時に廊下の左右へと視線を走らせ、結人の部屋の奥を警戒するように見回す。
「何かあったの? 不審な電波でも拾った?」
「あ、ごめん! そうじゃなくて!」
結人は慌てて両手を振った。
「いま部屋で『お腹減ったな』って独り言を言った直後にサラが来たから……それで、食事に行こうって言われたものだからさ」
サラは危険がなかったことに脱力したように、狐につままれたような表情で結人を見つめた。
そして次の瞬間――ふっと肩を揺らし、声を上げて爆笑した。
「ふふっ、あははは! 盗聴なんかしないわよ。ここはあなたの完全なプライベートスペースなんだから。私がマイクなんて仕掛けるわけないでしょ」
サラはひとしきり笑うと、悪戯っぽく口元を緩めた。
「でも、そうね……彼女なんかを部屋に連れ込むのは諦めてちょうだい。デートをするなら外でお願いね。このフロアそのものが国家機密なんだから」
「彼女……?」
結人は呆れたように肩をすくめた。
「そんな相手はいませんし、作る余裕なんて今まで一度も無かったですよ。僕のことを調べたんなら、お分かりかと思いますけど」
「ふふ、言われてみればその通りね」
サラは期待通りの回答が得られたと言わんばかりに、満足そうな笑みを浮かべた。
「仕方ないわね。それじゃあ、孤独な天才さんには、このサラさんが美味しい夕食をご馳走してあげるわ。ワシントンの最高の夜に乾杯しましょう?」




