合衆国大統領へのチェックメイト
第三章
ニューヨークに赴任してからの2週間は、あっという間に過ぎ去っていった。
入国手続きに始まり、省内への赴任の挨拶、関係部署への紹介、日本大使館への挨拶、アパート探しにホテルからの引っ越し、生活必需品の買い出し、そして運転免許の切り替え手続き――。
山のような書類の提出をなんとか期限内に終え、ようやく一息ついたところに上司から声が掛かった。
「どうだい。こっちの暮らしには慣れたかい?」
結人が配属されたのは、途上国への支援物資の調達と、その国際物流を管理する部門だった。
「なんとか……といったところです」
「それは良かった。じゃあ、仕事の話だ。主にアフリカへの援助物資の物流を担当してもらいたいんだが、どうかな?」
どうかも何も、出向してきた身で断れるはずもなかった。
「分かりました。やってみます」
前任者から引き継がれた業務内容は、驚くほどシンプルだった。
支援国で既に買付け契約された物資をコンテナヤードまで輸送し、乙仲(海運貨物取扱業者)と調整して可能な限り効率よくコンテナに詰め込み、目的の途上国まで船で届ける。基本的にはそれだけだった。
ユニセフの看板があることと、輸送物資のほとんどが食料や医薬品であるため、輸出管理手続きも大幅に簡略化されている。支援国も援助先も多岐にわたるため絶対的な業務量は多いものの、結人にとっては決して難しい仕事ではなかった。
結人はまるで、洗練されたパズルを解くような感覚で淡々と業務をこなしていった。
そんなある日。結人のパソコンの画面の端にポップアップが跳ねた。乙仲からのフラグ付きメールの着信通知だった。
何事かとメールを開くと、文面にはこう記されていた。
『明日がカット日(搬入期限)ですが、指定の積荷がコンテナ半分しか集まっていません。もったいないので、他社貨物との混載に切り替えますか?』
(荷物が届いていない……?)
コンテナの積載データを確認すると、本来なら小麦粉で満載になる予定の貨物だった。
小麦粉であれば、港の近くにある一時保管倉庫に備蓄があったはずだ。結人はすぐに倉庫担当者へ電話を入れ、無事に小麦粉約10トンの在庫を確保させると、保税倉庫へ走らせる横持ちトラックの手配を速やかに済ませた。
一息つき、念のため商社との契約ステータスを確認してみると、前渡し金の振り込みが確認されなかったという理由で、最初の買い付け契約自体がキャンセル扱いになっていた。
手元の画面を見つめたまま考え込む彼に、上司が通りがかりに声をかける。
「どうした。トラブルかい?」
「いえ……支援物資が予定通り届かないと港から連絡がありまして」
「ああ、そうか。先月の予算カットの影響だろうね」
「予算カット、ですか?」
「ほら、前に台湾の総統が国連総会で演説したろ。それに対する腹いせの拠出金停止さ」
「……なるほど。しかし、現場からは何のクレームの連絡もありませんでしたが」
「珍しいことじゃないからね」
「珍しいことじゃない……ですか」
結人は眉をひそめた。支援物資が滞るということは、現場で困窮している人々への給付が止まることを意味している。
「困窮している人たちが、現地で待っているはずですが」
「仕事だからね。僕たちは与えられた枠の中で、できることをやるしかないさ。……そういえば、そのコンテナはキャンセルしたのかい?」
「いえ、たまたま近くの倉庫に備蓄があったので、そちらからスライドさせました。小麦粉だったので助かりましたよ」
「そうか。それはいい仕事をしたね」
上司は満足そうに頷くと、自分のデスクへと戻っていった。
その後も同様のトラブルは度々起きた。
なるほど、これならいちいちクレームを出すのが面倒なくらいだ。
苦笑しながらも、結人はまず支援物資の梱包サイズの統一化を進めた。さらに物資ごとの保管倉庫を再設定し、全体の在庫状況をひと目で把握できるように整理する。
その下準備を終えると、今度はシステムに明るい同僚に声をかけた。
不足した物資のデータを打ち込むだけで、最適な倉庫からのトラック手配までが自動で完了する簡易アプリ。それが現場の担当者たちに配布されるまで、さほどの時間は要さなかった。
仕事に慣れるに従い、オフィス近くのカフェへ出かけ、静かに時間を潰すことが習慣になりつつあった。要するに暇になってしまったのだ。
その日もいつものように、店内の喧噪から少し離れた席でぼんやりとコーヒーを啜っていた。
ふと、影が射す。断りもなく、結人の目の前の席に一人の女性が腰掛けた。
20代後半だろうか。明るい金髪に、目鼻立ちの整った、誰が見ても美しいと評するような女性だった。
「Mr.結人。仕事には慣れた? もしかして退屈しているんじゃないかしら?」
結人はカップを口元へ運ぶ手を止めた。
こんな美人の知り合いが自分にいただろうか。ハニートラップの類だろうか。だが、一省庁から出向してきたただの平の事務官に、わざわざそんな大層な工作を仕掛ける意味などどこにもない。
「……どこかでお会いしましたっけ?」
自分でもどこか間の抜けた問いかけだとは思いながらも、結人は尋ねた。
「はじめましてよ。私はサラ。政府の仕事をしているわ。……ある人の秘書、ってところかしら」
「はあ……」
ますます困惑が深まる。
「政府」といえば、3年前に行われた大統領選挙で民主党候補が圧勝し、政権スタッフの総入れ替えを行って誕生した現政権のことだ。前大統領の強硬な政策の反動から、当時の政権交代は半ば予想されていたことではある。
(……だが、あの状況じゃなくても圧勝していただろうな)
結人から見ても、現大統領のカリスマ性は際立っていた。若く、洗練され、かつてのケネディ大統領を彷彿とさせる熱狂的な人気を、就任から3年が経った今でも維持している。
特に、彼を勝利に導いた当時の共和党候補との討論会で見せた演説は、歴史に残るとまで称賛され、討論会の直後には共和党側が大統領選をキャンセルするのではないかという噂すら飛び交ったほどだ。
当時のアメリカ国内は、イラン戦争の泥沼化と金融危機により、激しいインフレと国民の分断、そして過度な「自国優先主義(アメリカ第一主義)」の疲弊に包まれていた。
そんな中でも当時の共和党大統領は「アメリカの利益を最優先。特に弱体化した国連や国際機関への拠出金をカットし、アメリカ第一主義に全資本を注入。アメリカを再び偉大な国にするのだ!」と強硬姿勢を崩さなかった。
一方、挑戦者だった彼は静かに、しかし会場全体を支配するような力強い声で問いかけた。
「我が友よ。我々が『アメリカ第一』を叫んで引きこもっている間、世界はどうなった? 紛争は拡大し、市場は冷え込み、結果として我が国の経済と若者たちの未来が傷ついた。自国だけが勝つ世界など存在しないのだ。
今、我々に必要なのは壁を築くことではない。分断された国内をひとつにし、再び世界を主導する『知的な国際協調』へ復帰することだ。アメリカが偉大であるのは、孤立しているからではなく、世界をひとつにまとめる誇りがあるからではないのか?」
このスピーチは全米を揺さぶり、金融危機に怯えていた中間層や若者、さらには疲れ切っていた共和党支持者の一部までも巻き込んでいった。
結果は事前予想すら遥かに上回る大差での政権交代となり、以来この3年間、アメリカは世界的な回復基調を力強く牽引してきたのだった。
その政府の人間が、なぜただの出向官僚である自分の名前を知っているのだろうか。
困惑を隠せない彼に対し、サラは探るような視線を向けた。
「あなた、本当は何をするためにユニセフへ来たの?」
「何をするため、と言われましても……ただの省内の人事ですよ」
「本当に? ……日本の政府は何を考えているのかしら。国を救ったほどの英雄を、こんな場所に追い出すなんて」
(英雄……? 追い出された……?)
結人は思わず心の中で首をかしげた。
結人の希望通りに霞が関のドタバタから離してくれた新局長の「気遣い」だったのだが、外部の諜報機関から見れば「功労者の手柄を奪い、海外の閑職へ左遷・追放した」ように映っているらしい。
アメリカの情報網も、日本の官僚組織の妙な「配慮」の文化までは読み切れなかったようだ。
(……まあ、勘違いされてるなら放置でいいか)
訂正するのも面倒になり、結人は生返事で流すことにした。
「英雄……? 何のことです?」
結人は表情を変えずに首を傾げてみせる。サラは可憐に肩をすくめた。
「ちょっと調べてみたのよ。致命的に出遅れていたはずの日本経済が、ここ一年で急激に勢いを増している。分析してみると、数兆円規模の資金が突然株式市場に流入している。しかも、最も効果が期待される基幹企業を狙い撃ちにして。年金局長に抜擢された人物がMVPってことになってるけど、どのプロファイル結果もそれまでの彼の仕事ぶりと、この破天荒なプロジェクト立案とは人物像を一致させられなかった。
ただ、入省直後の新人が、どういうわけか極秘であるべきプロジェクトのメンバーにいきなり起用されている。その人物の足取りを追ってみたら、なぜかニューヨークでユニセフの事務職員をしているじゃない。で、上から『とにかく接触して話してこい』って言われたわけ」
サラは少し考え、そして、からかうように尋ねた。
「結人、仕掛人はあなたなんでしょ?」
「……はあ……そうなんでしょうかねえ」
途方もない話だった。
そんな希薄な情報と、解釈のズレた都市伝説のような噂を頼りに、わざわざコンタクトを取ってくるなど、アメリカの政府職員というのは随分と暇なのだろうか。そんな身も蓋もない感想が頭を過ぎる。
だが、彼女の醸し出す雰囲気に殺気や危険な気配がないことを悟ると、先ほどまで抱いていた警戒心も自然と解けていった。彼女の持つ高い話術の巧みさもあったのだろう。いつの間にか二人の会話は、カフェの雑騒に溶け込むような、たわいのない雑談モードへと移行していた。
「で、暇潰しに作ったアプリが職場の物流効率を改善しちゃった結果として、あなたは暇を持て余してるわけね?」
サラはカプチーノの泡をスプーンで揺らしながら、くすりと笑った。
「ただの業務改善ですよ。いちいち手作業で調整するのが面倒だっただけです」
「ただの業務改善ねえ……」
そのただの業務改善により、ユニセフ全体の物流ロスが単月ベースで約12%も改善されたことは、結人には知らされていないようだ。
サラは笑みをふっと引き締め、まっすぐに彼を見つめた。
「で? 率直な話、貴方は今の国連を間近で見てどう思う?」
挑むような、けれど期待を隠しきれない視線。結人は困ったように眉をひそめ、冷めかけたコーヒーに視線を落とした。
「実は私たちも今の国連の状況が、障害になってるの。私たちのボス(大統領)は、世界を知的な国際協調によってひとつにまとめたいと本気で思ってる。討論会での演説。あれは選挙用のポーズでも共和党への当てつけでもない彼の本心。それには国連を使うのが一番の近道だと考えてる。でも、いまの国連にその役割が果たせるとはとても思えない。……ねえ、あなたなら、この詰んでいる盤面をどう解く?」
「……結局のところ、知識とお金の使い方なんですかね」
思わず口から漏れ出た呟きに、サラが「え?」と小さく首をかしげた。
「日本も、ここも……お金を上手く使えてないところは同じかなって。日本は制度はあるのに『使い方が下手』なだけ。だから知識で背中を押してやれば勝手に回り出す。でも国連は違う。大国が拠出金を人質にして首輪を嵌めてるから。日本は単に使い方が下手なだけでしたけど、国連は……そもそも『使わせてもらえない』」
「……使わせてもらえない、か。加盟国の顔色と拠出金に縛られているものね」
「ええ。使い方が下手なだけなら直せばいい。だけどここは文字通り、誰かに財布を握られている。お金を出さないって言われたらそこで終わりです。……だったら、自分で稼ぐしかないんじゃないですか」
結人は他人事のようにぽつりと言った。サラは一瞬目を見開き、それから可憐に片眉を上げた。
「国連が、自分で稼ぐ? 国家でも企業でもない組織が、どうやって?」
「どうやって、と言われても……」
結人は頭の中に浮かぶぼんやりとした情景を、手探りで言葉に変えていく。
「そうですね……世界中にユネスコが選定する『世界遺産』っていう世界最高の観光ブランド資産がありますよね。世界中の教育分野を引っ張る潜在能力を持った組織も持っている。何より、地球上のあらゆる国から優秀な人材と情報が、勝手にこの『国連』って場所に集まってきています」
「普通に考えたら、全部が巨大な『金のなる木』になり得る資産です。……そして何より、この組織の名前を見てください。『国際連合(United Nations)』だ」
「……それが、どうかした?」
「世界で一番重くて、信頼されてて、誰もが知ってる超弩級の世界的ブランドです。この『国連』っていう名前や認定のライセンスを使いたがってる民間企業や団体なんて、世界中に星の数ほどあると思いませんか?」
「……世界遺産の保全や観光のプラットフォーム化……ユネスコを通じたグローバルな教育コンテンツのライセンス……? まさか、非営利の国際機関であるはずの国連そのものを、巨大なIP(知的財産)のメディアや市場としてマネタイズする気?」
「そこまでは言っていませんけど」
サラは息を呑み、そのまま言葉を失った。
目の前の青年は、戦略をプレゼンしているわけではない。ただ頭の中に浮かんだ要素を素朴に並べているだけだ。
「具体的には……」言葉を絞り出そうとしたサラは一瞬だけ考え込んだ。
「いいわ。結人、この後ちょっと付き合って。まだワシントンには行ってないでしょ? 連れてってあげる」
「ワシントン? いや、まだ業務の続きも……」
「オフィスにはこちらから連絡入れておくから心配しないで」
そう言ってサラは彼の腕をつかむと、強引にタクシーに連れ込んだ。
第四章
しばらくして車が止まった。結人がタクシーの行き先を確かめようと外を見ると、そこは街中の空港ではなく民間のヘリポートだった。一機のヘリコプターがアイドリングしている。
「さあ、乗って! 早く!」
追い立てられるまま乗り込む。
二人が乗るとヘリはすぐに離陸した。
ヘッドセットを渡されたので、ヘリの爆音で話せないということはないはずなんだが、機内のサラは無言で何かをタブレットに入力していた。
(ワシントンって言ってたよな……それにこんなにあっさりヘリをチャーターするなんて。どうやら政府の職員ってのは本当らしいな。けど、どこへ連れてかれるんだ? まさかホワイトハウスって訳はないよな……)
ホワイトハウス……ではない、あるビルの屋上ヘリポートに着陸したヘリを降りると、エントランスで確かどこかで見たことのあるような人物が、明らかな仏頂面で腕組みをしながら待っていた。
「サラ。確かに話して来いとは言ったけど、立場をバラしていいとは言ってないぞ。ましてやオフィスまで連れてくるなんて……一体何を考えてるんだ? 自分の働いてるここがどこなのか、ちゃんと分かってるのか?」
「私に行かせた段階で、これくらいは想定済なんじゃないの? 違うとすれば、人を見る目がないってことを自ら喧伝してるようなものだと思いますけど」
「あの……」
二人の会話に恐る恐る口を挟む。
「申し訳ありません。ここはどこなんでしょうか?」
「ああ、これはこちらこそ申し訳ない。ここはワシントンD.C.、トルーマンビル。いわゆるアメリカ国務省だよ」
(……国務省!)
道理で見覚えがある訳だ。目の前に立っているのは国務長官。たしか名前はヘンリー・ブランディ。
「私の秘書が迷惑を掛けたね。こんなところで立ち話もなんだ。私のオフィスに行こう」
厚生労働省のオフィスとは比べものにならない豪華なオフィス。
最上階の長官応接室で、ブランディ長官は机に肘をつき、試すような冷ややかな視線で結人を睨みつけると、サラが手渡したレポートをデスクにポンと叩いた。
「座りたまえ、Mr.結人。……君のこの国連自立化のためのプログラム。ずいぶんと壮大な夢物語が書かれているが、百戦錬磨の政財界がそんなに甘いと思うかね?」
威圧感を与える正に百戦錬磨の政治家に対し、結人は面倒くさそうに小さな息を吐くだけだった。自分の意図とは無関係に、また大袈裟に捉えられていることへのいつもの辟易感だった。
「……僕が言ったのは、国連自体の自立化というより、その知識とお金の使い方についてですけど」
「世界遺産を観光・保全ライセンスビジネスや環境ファンドと連動させて証券化。ユネスコに国際標準の教育プラットフォームを作らせ、認定制度や教育ブランドを創設。『国連』ブランドを利用した認証ビジネスやネーミングライツ等の商業権……どれも素晴らしいアイデアだが、拠出金頼みの運営がスポンサー頼みに変わるだけではないのかね? 生まれる資金も今の拠出金と大差ないレベルになりそうだ。これでは国連の自立化にはほど遠い」
(……僕が適当に並べた言葉を、ヘリの中でこんな事業計画に変換したのか……?)
結人はその手腕に内心で舌を巻きながらも、別の意味で面倒くさそうに小さな息を吐いた。
自分はいつから国連の自立化を主導する立場になったのだろうか?
そもそも国連自体の職員ですらない、ユニセフへの出向官僚に過ぎないのに。
そう思いつつも、このやり取りをどこかパズルとして楽しんでいる自分が居ることを自覚しながら、結人は答えた。
「ブランドの象徴として国連大学の本格的な運営はいかがでしょう? 商業化で得た資金を使って、世界中から優れた教育者を集め、国連だけでなく世界中に最高の人材を提供する。国連のイメージの底上げにつながり、収益に対しても良好な影響を及ぼすと思いますが」
「いいアイデアだが、その程度では運営に余裕が生まれる程度だね」
国務長官の指摘は鋭い。サラも心配そうな表情で彼を見つめる。
その時、ふと親父の言葉が思い浮かぶ。
(……知識とお金の使い方……知識の使い方!)
「では、国連に世界中の特許に関する権利を一元管理する役割を与えてはいかがでしょうか? 特許の使用者から使用料を徴収、発明者に還元する役割を担い、管理費用を支払わせる。国連が間に入る事で当事者同士の訴訟リスクを低減させることも出来るし、国連が仲裁専門の裁判所を設置するのもいいでしょう。国連には管理費が入り、使用者は訴訟リスクや費用、発明者は類似特許の調査にかかる費用と時間を抑えた上、公正で正当な対価を得ることができる。Win-Win-Winの関係が構築できるのではないでしょうか」
ブランディ長官は、最初彼の言葉の意味を測りかねていた。
しかし、提案の意味を理解していくにつれて、その表情は驚愕へと変わっていった。
彼の提案は、特許を一元管理するという極めてシンプルなものだが、その効果は計り知れない。
現行の制度では、特許については各国家ごとに認定の権限を有しているため、新しい技術を開発したとしても、開発者は国ごとに特許を取得する必要がある。
その特許の管理を国連で一元化すれば、国連には特許の使用者から管理費名目で資金を調達できるだけでなく、使用者にとってはそれぞれの国で類似の特許が成立していないか調査する手間が省ける。その知識の渋滞ともいえる状態を回避する事によって、特許を使ったビジネスの商品化スピードを劇的に早め、投資回収までの期間を大幅に短縮させることが出来る。そしてその成果として、開発コストを大幅に抑えられるだろう。
また現在世界中で、大国や大企業による特許の搾取や囲い込みが問題となっている。特許に関連する訴訟件数も膨大で、大きな費用や時間が浪費されてしまっている。国連に特許専門の仲裁裁判所を設置すれば、その解決にもつながる。
ブランディ長官の脳内で、瞬時に冷徹な政治的計算が駆け巡った。
(……待て。これは単なる国連の財政健全化スキームじゃない。世界中の知的財産と先端技術の主導権を国連のプラットフォームに集約させる……それはつまり、大統領が掲げる『知的な国際協調』を、ただの理想論から『他国が参加せざるを得ない絶対的なルール』へと変える外交カードだ。これなら対中外交や先進国間のハイテク覇権争いすらも、我々が主導する協調路線の中に誘導させることができるかもしれん。しかもアメリカの税金を一ドルも使わずに……!)
長官は息を呑み、目の前にいる無造作な髪の青年の底知れなさに背筋が凍るのを覚えた。彼自身、そこまで計算しての提案かどうかは分からないが、この男をこのまま放置しておくべきでは絶対にない。
国務長官は、スマホを取り出すとある番号に電話をかけた。
第五章
それから結人は何が何だかわからないまま地下の駐車場に連れて行かれ、黒塗りのリムジンの後部座席に押し込まれた。
「何がどうなってるんだい? 今度の連行場所はどこなのかな?」
隣に乗り込んできたサラに尋ねる。
「私も聞いてない……けど予想はつく。でもまさか……」
先程までのからかうような表情は消え、緊張しているようにさえ見える。
結人もまた、ある場所を予想はしていた。
そこは世界で一番有名な建物で……。
リムジンは、予想通りと言おうか、ホワイトハウスの玄関に横付けされた。
ドアマンに扉を開けられ中に招き入れられる。
通された部屋は、テレビや写真で何度も見た部屋……大統領執務室だった。
大統領執務室の重厚な扉が静かに開くと、そこにはテレビの画面越しでしか見たことのない光景が広がっていた。
洗練された調度品、窓から差し込む午後の光、そして――部屋の奥に置かれた「レゾリュート・デスク」の前に佇む一人の男。
アメリカ合衆国大統領だった。
選挙戦で見せた圧倒的なカリスマ性は、間近で対峙すると肌がピリつくほどの威圧感となって室内に満ちている。傍らには、どこか緊張した面持ちの国務長官ブランディと、背筋を伸ばしたサラが控えていた。
しかし、当の結人といえば、急にステージに引っ張り出されたただの観客のように戸惑うばかりだった。
(……なんで僕はここにいるんだ? ていうか、日本の厚労省のいち出向官僚が、どうしてアメリカ大統領と対面してるんだよ)
思考の隅で「また大袈裟なことになったな」と辟易しながらも、表面上はただの無造作な青年にしか見えない冷めきったスタンスを保っていた。
大統領はデスクに肘をつき、組んだ手の上に顎を乗せると、鋭い眼光を結人に向けた。ブランディ長官から受け取ったメモに一通り目を通したあと、低く静かな声で切り出す。
「――素晴らしい着眼点だ、Mr.結人。国連の特許一元管理による財政自立と、国際協調のプラットフォーム化……アイデアとしては、実に魅力的で美しい」
大統領は一度言葉を切り、ゆっくりと首を振った。
「だが、現実の政治はそう甘くはない。特許や知的財産権というのは、保有する各国の『核心的利益』そのものだ。軍事、半導体、バイオ……国家の優位性を決定づける根幹と言ってもいい。いくら手続きの簡略化やコスト削減といったメリットがあるからと言って、各国が自国の利権を素直に国連へ差し出すことを了承するとは、私にはとても思えないがね。君は一体、どうやってそれら特許保有国を説得するつもりなんだ?」
大統領からの鋭い投げかけ。しかし結人にしてみれば、プレゼンをしに来たわけでも、世界を改革したいわけでもない。ただ頭の中で成立しているパズルの解を、問われたから答えるだけだった。
結人は困ったように頭を掻き、どこか他人事のような口調で問い返した。
「あの……そもそも、世界で最も特許によって利益を上げている国って、どこなんでしょう? 僕の予想では、圧倒的にこのアメリカだと思うんですが」
不意を突かれた大統領は、隣のブランディ長官と一瞬目を合わせ、苦笑を浮かべた。
「……たぶん、君の予想で間違いないと思うよ。私も正確な最新の数字まで掴んでいるわけじゃないが……必要なら、今すぐスタッフに調べさせようか?」
「いえ、現時点ではその必要はありません」
結人は淡々と、まるで明日の天気の確認でもするかのように言葉を続けた。
「そうすると……その圧倒的に利益を上げているはずのアメリカが、官民の保有する特許全てを、率先して国連の管理下に置いたらいかがですか?」
「……何?」
大統領の眉がぴくりと動いた。
「自国だけで圧倒的な利権を持っているアメリカが、真っ先に『うちの特許はすべて国連に預ける』と宣言して開放してみせるんです。他の特許保有国に対して、これ以上ない強力な説得材料になると思うんですが」
「正気か?」
大統領の目が一瞬で険しくなった。
「それではアメリカの利益をドブに捨てるようなものではないか。議会も産業界も断固として反対するぞ」
「それはどうでしょうか」
結人は不思議そうに小首を傾げてみせた。そして、脳内のロジックを整理するように淡々と重ねていく。
「国連が設定する特許使用料について、このスキームに賛同して自国の特許管理を国連に委ねた国と、そうでない非賛同国との間で、明確な『差』を設けたらいかがでしょう?」
大統領とブランディ長官が息を呑むのが分かった。結人は構わず続ける。
「自国の企業や団体が新しい商品開発や学術研究を行う際、最初から特許使用料や手続きの面で明確な差をつけられるとなれば、他国も賛同せざるを得ないのではないでしょうか。国連管理のほうが、費用の面だけでなく開発スピードにおいても圧倒的なアドバンテージを持っているのは明白なのですから」
結人は醒めかけた頭で、さらにその先の未来を思い描く。
「しかも、この仕組みは参加国が増えれば増えるほど、エコシステムとしての価値が跳ね上がります。つまり、参加国と非参加国の間の差は、時間が経つほど加速度的に開いていくはずです。そうなれば……特許保有国は、プライドや目先の利権を捨ててでも、我先にこの提案に乗ってくる……いや、乗ってこざるを得ないと思いますよ」
静寂が、大統領執務室を支配した。
あまりにもシンプルで、しかしあまりにも悪魔的なゲーム理論。
自国の特許を国連に差し出さなければ、世界で加速するイノベーションの波から完全に置き去りにされる。アメリカが先陣を切って「国連特許ネットワーク」という巨大なブラックホールを作ってしまえば、中国もヨーロッパも、生き残るためには自らの核心的利益を差し出してその軍門に下るしかないのだ。
「……税金を一ドルも使わずに、世界中の知財を我々の主導するプラットフォームに引きずり込む……」
ブランディ国務長官が、慄然とした様子で小さく呟いた。だがすぐに表情を引き締め、大統領に向き直る。
「しかし、大統領。他の特許保有国だけでなく、国内の巨大製薬会社やITメガテックをどう説得しますか? 間違いなく猛反発すると思いますが」
国務長官は確認するかのように問いかけた。
大統領は深く椅子に背を預けると、口元に笑みを浮かべて首を振った。
「ブランディ。すでに君も分かってるんじゃないか? 製薬会社もITメガテックも、他の特許保有国も同じだ。彼らは参加せざるを得ないんだよ」
逃げ道のない完全な詰み。その意味を噛み締めた国務長官は、ゆっくりと天を仰いで頭を抱えた。
「……私は、話をしてこい。そう言っただけなのに……」
呆れ果てた長官の呟きが、静まりかえった執務室に虚しく響いていた。
「……では、僕からは以上です。お邪魔しました」
話は終わったと判断した結人は、この息苦しい空間から一刻も早くおさらばしようと、静かに後ずさりしながら扉へ向かおうとした。
だが、その目論みは一瞬で打ち砕かれる。
「どこへ行くの、結人?」
ぬかりなく横に滑り込んできたサラが、慣れた手つきでガッシリと結人の腕を抱え込んだ。
「……あの、サラさん。腕、ほどいてほしいんだけど」
「ダメよ。こんなに素晴らしく有益な話を聞かせてくれたんだもの。お礼に夕食をご馳走するわ」
「いや、もう結構です。遅くなると困るので、アパートに帰ります」
「大丈夫。夕食のあと、政府手配のヘリで送らせるから。あなたが自分で電車やタクシーで帰るより、遥かに早く着くわよ」
「えっ、ヘリ……?」
この天才を逃す気などサラには毛頭ない。強引に引きずられるようにして、結人は大統領執務室をあとにさせられたのだった。
二人が去ったあとの執務室には、急速に現実的で、かつ濃密な熱量が満ち始めていた。
大統領とブランディ国務長官は直ちに政策スタッフや経済顧問、さらには主要な補佐官らを緊急招集し、彼が提示したスキームの徹底的な検証を開始した。
ホワイトハウスの頭脳たちが集まり、白熱した議論とシミュレーションが数時間にわたって繰り広げられる。国内の製薬会社やIT巨頭からの反発、議会工作の難易度、他国の動向――あらゆるリスクが洗い出されたが、弾き出された結論は一つだった。
「法案を通すためのロビー活動や抵抗勢力の排除は不可欠ですが……論理構造としては完璧です。成立する可能性は高い」
首席経済顧問の言葉に、執務室内の空気が跳ねた。
大統領は立ち上がり、窓の外の夜景を見つめた。その背中には、国家元首としての凄まじい覚悟が漂っている。
「……はっきり言って、これは政治的なギャンブルだ。だが、私がこれまで掲げてきた政治理念の方向性とは、完全に一致している」
大統領は振り返り、集まったスタッフたちを見回した。
「ここに宣言しよう。私は国連改革を推し進め、その先にある人類の輝ける未来を手に入れる。――君たちはどうする?」
室内に歓声と興奮の渦が巻き起こった。歴史が動く瞬間に立ち会っているという高揚感が、その場にいる全員を呑み込んでいた。
「何の騒ぎですか?」
そんな熱狂の最中、扉が開き、結人をアパートまで送り届けて戻ってきたサラがひょっこりと顔を出した。
興奮覚めやらぬスタッフたちを横目に、サラは呆れたように肩をすくめると、大統領と国務長官に向かって歩み寄る。
「で、彼の処遇はどうされるおつもりでしょう? アイデアだけもらって『お疲れ様』にするつもりなら、それ相応の口止め料と報酬が必要になるかと思いますが」
その言葉に、大統領とブランディ長官はハッと息を呑み、互いに顔を見合わせた。
国家を揺るがす巨大なスキームに興奮するあまり、発案者である青年の扱いについて、すっかり失念していたのだ。
ブランディ長官は気まずそうに咳払いをすると、サラに問いかけた。
「そうだな……君はどう思う、サラ?」
「そんなの決まっているじゃありませんか」
サラは迷うことなく、当然と言わんばかりの笑みを浮かべた。
「あんなにクールな人材、他には絶対にいません。最高の待遇で引き抜くべきです。……もちろん、厳重な監視付きでね。……監視についてなら、私が彼の部屋に一緒に住んでも良いですが?」
「サラ、いくら君でも冗談が過ぎるよ」
大統領は苦笑いしながら手を振った。
「大切な仲間にそんな危険な真似をさせられるわけがないだろう。……しかし、監視はともかく引き抜きには賛成だ。日本の厚生労働省、出向先のユニセフ事務所とすぐに交渉に入ろう」
大統領たちの決定を聞きながら、サラはフッといたずらっぽい笑みを漏らし、誰にも聞こえない声で小さく呟いた。
「……残念。冗談じゃないんだけどなあ」




